とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

(番外)“陸自の歌姫” 鶫 真衣陸士長「365日の紙飛行機」 たそがれコンサート2016-8-26

2017-09-22 03:47:16 | 日記
音大卒の歌手が陸自に入隊 !! ・・・こういう生き方もあるのか。私はいたく興味を持ちました。しかし、綺麗な人だ。

“陸自の歌姫” 鶫 真衣陸士長「365日の紙飛行機」 たそがれコンサート2016-8-26



鶫 真衣(つぐみ まい、1987年10月5日 - )は、石川県出身の陸上自衛官で、陸上自衛隊中部方面音楽隊所属のソプラノ歌手。




経歴

石川県金沢市出身。中学時代にNHK番組『おかあさんといっしょ』の「うたのおねえさん」にあこがれ、声楽を始めた。国立音楽大学演奏学科声楽専攻、洗足学園音楽大学大学院出身。中村智子やウーヴェ・ハイルマンらに師事し声楽を学ぶ。大学院時代に海上自衛隊東京音楽隊の定期演奏会で三宅由佳莉の歌唱に触れたこともあり、自衛隊のボーカリストに応募、2014年3月、陸自初の声楽要員として採用された。
プロ野球の国歌斉唱、西日本各地で音楽隊の公演を重ね、2016年12月には『ソプラノと吹奏楽のための 万葉讃歌』でCDデビューした。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 227 渥美清の伝言

2017-09-21 15:53:01 | 日記
映画の役柄とは裏腹に私生活のことは公にしなかったと聞きます。芸で自分を演じることがすべてだったのだと思います。葛飾の柴又は私も数年前一度行きました。ああ、ここが「寅さん」故郷だと思って感慨一入でした。

渥美清の伝言



渥美 清(あつみ きよし、1928年(昭和3年)3月10日 - 1996年(平成8年)8月4日)は、日本のコメディアン、俳優。本名は田所 康雄(たどころ やすお)。愛称は、寅さん、風天(俳号)。身長173cm、体重70kg。

1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言う結末に視聴者からの抗議が殺到した。翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。

1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品はのちに長く続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。

当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。唯一1977年『八つ墓村』でそれまでのイメージを一新して名探偵「金田一耕助」役を演じ松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことが大きな岐路となる。

1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるには至らなかった。また、この時期、今村昌平監督が『復讐するは我にあり』の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていたこともあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。

晩年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目(1989年末公開)以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目(1991年末公開)のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。

ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。また体調が悪化してからの作品を見ると46作(1993年末公開)では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作(1994年公開)では歌声が嗄れ、第48作(1995年公開)では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。49作目は秋からクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だった。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 226 一番電車が走った

2017-09-18 00:42:18 | 日記
どうしても伝えなくてはならないと思っていたドラマです。おそらく韓国のお方がアップしてくださったのだと思います。感謝しています。このテレビを見たときは涙がとめどもなく出てきました。

56 一番電車が走った 최고의 전차가 달렸다 V



『原爆に遭った少女の話』(げんばくにあったしょうじょのはなし)は、ペンネーム「さすらいのカナブン」を名乗る広島県の会社員女性(プロフィールは非公開。以下、カナブンと表記)による漫画。作者の個人ウェブサイト『Game&cG』において、2012年(平成24年)6月に公開が開始され、翌2013年(平成25年)8月に最終章が公開されて完結した。全8章。

作者は、戦時中の広島市で広島電鉄の路面電車を少女運転士として運転した広島電鉄家政女学校第1期生・児玉豊子(旧姓は雨田)の孫であり、本作品は広島市への原子爆弾投下と、広島電鉄家政女学校、被爆直後の広島で街の復興を目指して電車を運転した豊子のエピソードをテーマとしたノンフィクション作品である。個人サイト掲載のアマチュアによる漫画ながら、公開当初からTwitterなどインターネット上で大きな反響を呼んでおり、後にはテレビドラマ『一番電車が走った』として全国放映された。

あらすじ

太平洋戦争中の1943年(昭和18年)、広島市。戦争で男子たちが出征して人員が不足する中、広島電鉄では女子を乗務員として育成するための家政女学校を新設する。主人公・雨田豊子はその第1期生として入学する。豊子は学業の傍ら、電車の車掌業務もこなし、進級後は運転手も任される。寮での生活、友人たちとの交流、初恋なども交え、学業と運転士としての日々が続く。

しかし1945年(昭和20年)8月、広島市に原子爆弾が投下される。市街も市民たちも甚大な被害を負い、豊子の友人たちも重傷を負う。そのわずか3日後、広島電鉄の尽力により電車が復旧する。奇跡的に軽傷で済んだ豊子は悲しみを堪え、広島復興に向けて電車を動かす。
やがて終戦を迎え、その翌9月、家政女学校は卒業生1人出すことなく廃校する。卒業の免状も退職金もなく、少女たちの将来の夢、友人たち、学業はすべて原爆により掻き消される結果となる。豊子は失意の中、帰郷する。

時は流れ、約60年後の平成期。豊子は孫や曾孫たちに囲まれ、楽しく過ごしている。一方では戦渦の夏の記憶は決して消えることはなく、豊子は世界のすべての平和と、戦争が二度と起こらないことを祈り続けている。

あらすじ(ドラマ)

1944年(昭和19年)。主人公・雨田豊子は広島電鉄家政女学校の生徒として、学業の傍ら、広島電鉄の運転士を勤めていた。友人たちとの交流、初恋なども交えての日々が続く。しかし翌1945年8月、広島市に原爆が投下。市街も市民たちも甚大な被害を負い、豊子の友人たちも重傷を負う。

広島電鉄もまた多大な被害を被るが、電気課長・松浦明孝は、電車さえ動けば広島復興に繋がると信じ、電鉄再建の陣頭指揮をとる。3日後に電車が復旧する。軽傷で済んだ豊子は悲しみを堪え、広島復興に向けて電車を動かす。

焦土に消えた家族を捜す人々、復興のため働こうとする人々を乗せ、電車は走る。やがて終戦を迎え、家政女学校も廃校する。廃墟同然の町を走る路面電車はいつしか、広島の希望となってゆく。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 225 50年前のバラエティ「夢であいましょう」

2017-09-17 21:39:20 | 日記
やっ、なんと、すごい顔ぶれ。それがさりげなく出ている。昔のバラエティはかくも自然で無理がない。いや、今のものが無理をしているというわけではありませんが・・・。

50年前のバラエティ「夢であいましょう」



『夢であいましょう』(ゆめであいましょう)は、日本放送協会(NHK)のバラエティ番組。1961年4月8日から1966年4月2日まで毎週土曜日22時台に日比谷会館、日比谷第1スタジオ(H-1)から生放送されていた。

日本のテレビ放送初期に作られたバラエティ番組である。前身は1959年からNHKで放送された『午後のおしゃべり』とされる。
番組には毎回ごとのテーマが設けられて、これに沿ったショートコントで進行し、その合間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などが挿入された。歌手のコント出演や、コメディアンの歌唱などの企画は、後続のバラエティショー番組の原型となった。

初代ホステスの中嶋弘子が番組冒頭で上半身を右に傾けてお辞儀をするテレビ用の挨拶は、視聴者の話題になった。番組オープニングタイトルは繊維会社で宣伝部に在籍していた吉村祥が担当し、毎回趣向を凝らしていた。中嶋はその後、結婚の為に1965年3月をもって番組を降板。番組が終了するまでの1年間は、レギュラーの黒柳徹子が替わって司会を務めた。そして1966年、番組はフランキー堺をホスト役に据えた『夢をあなたに』に衣替えする形で終了した。

1964年6月13日放送分では映画俳優のアラン・ドロンがゲスト出演した。また、「日本の文化を紹介する番組」として、1964年6月15日から数回に渡りスウェーデン国営放送にて放送された。