とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

おめでとう !!・・・そして、目出度くないこと

2011-01-01 00:45:49 | 日記
おめでとう !!・・・そして、目出度くないこと



 明けましておめでとうございます。
 私も忙しい年末を過ごし、こうして「生きて」新年を無事迎えることができました。ありがたいと思っています。生きて越年したからには今年も懸命に這いずり回って「生きて」いきたいと思っています。
 今年はまた新しい自分を発見して精神世界を開拓したいと思います。とにかくいろいろなことをしながら試行錯誤で掴んでいきます。ささやかな仕事、ささやかなもの書き、ボランティア、その他もろもろの雑務。そうです、それに伴う人間関係の円滑化。こんな平凡な営為を今年も続けていきます。その中で何かが掴めれば幸いです。その一部をこのブログに書き込みできるといいなと思っています。どうかよろしくお願い申し上げます。
 さて、目出度くないこととは、ということになりますが、それは先ず、雪です。雪は瑞兆などとロマンチックに考えていてはとんでもないことになると思いました。具体的には大山での雪崩による遭難です。死者が出ました。それから国道9号線での車の渋滞。病人も出たとか。はたまた山陰線では電車が動けなくなりました。○○新聞は夕方の現段階でも届いていません。
 私の子どもの頃の積雪は、当出雲地方では量的にはこういう状態に近かったと思います。しかし、異常気象に加えて世の中の物理的・社会的・経済的な諸条件の総合的な変化が、こういう自然災害に拍車をかけることになったのだと思います。
 それに「デコちゃん」の死。ごめんなさい。元日早々から死だなんて。
 しかし、私は、何だか非常に寂しくなったのであります。まあ、究極の教師像が影だけになったような感じですね。

 
 日本映画を代表する女優で、「二十四の瞳」などに主演した高峰秀子さん(本名・松山秀子さん)が肺がんのため、28日に都内の病院で死去していたことが31日、分かった。86歳だった。代理人の弁護士が明らかにした。
(デイリースポーツオンライン)


 1924年、北海道函館市に生まれた高峰さんは、映画「母」(29年)で子役デビューしました。その後日本映画黄金期の作品に数多く出演しました。代表作は木下恵介監督の「二十四の瞳」(54年)、成瀬巳喜男監督「浮雲」、「喜びも悲しみも幾歳月」(57年)などです。「銀座カンカン娘」(49年)の主題歌も唄い、大ヒットしました。
 戦中生まれの戦後育ちの私は、1940年代以降の作品しか知りません。記憶を辿ると、私は、あの「銀座カンカン娘」の唄を子どものころラジオで聞き覚え、口ずさんでいました。

 銀座カンカン娘(佐伯孝夫 作詞 服部良一 作曲)


あの娘可愛や カンカン娘
赤いブラウス サンダルはいて
誰を待つやら 銀座の街角
時計ながめて そわそわにやにや
これが銀座の カンカン娘


雨に降られて カンカン娘
傘もささずに 靴までぬいで
ままよ銀座は 私のジャングル
虎や狼 恐くはないのよ
これが銀座の カンカン娘


指をさされて カンカン娘
ちょいと啖呵も 切りたくなるわ
家がなくても お金がなくても
男なんかに だまされまいぞよ
これが銀座の カンカン娘


 私は、歌詞の「カンカン娘」というところの曲調に非常にぞくぞくするような快感を覚えていました。ませていたのかも知れません。その時は、唄っている高峰秀子という俳優の名前はあまりよく知りませんでした。
 私に決定的な強烈な印象を与えたのが「二十四の瞳」です。小豆島の岬の分教場で初めて受け持ちの子どもたちの名前を一人ひとり呼んで、一言ずつ声をかけるシーンが新鮮で印象的でした。
 その後、同窓会で再会した生徒たちはすっかり大人になっていました。その中で戦争で失明した教え子が、子どものころの記念撮影の写真を見て、一人ひとり指差して名前を言う場面もとても記憶の底に焼きついています。師弟関係とは何か。教育とは何か。戦争はいかに人間を蝕んでいくか。そういう重いテーマを分かりやすく教えてくれました。壺井栄の原作も読んで、いっそう私はその作品が好きになり、何度も映画館に通いました。かくして、その映画は高峰秀子を理想の教師像として私に印象付けました。
 最後に、『Wiki』から著作権が切れている写真として紹介してあった画像をここで借用させていただき、私の当時の感動を思い起こすよすがとしたいと思います。


 
 高峰秀子さんのご冥福を心から祈りたいと思います。ありがとうございました。