とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」744 新吾十番勝負 ② 大川橋蔵《将軍の子》

2022-09-07 01:16:18 | 日記
美剣士の代表的な俳優。橋蔵さま。男でもうっとりします。当時、新吾という名前を男の子につけるのが流行ったとか。ああ、若くして亡くなったんですね。女優もすごいです。桜町ひろ子。この人も東映城の花嫁女優。当時は大型の俳優が多かったです。

新吾十番勝負 ② 大川橋蔵《将軍の子》



二代目 大川橋蔵(にだいめ おおかわ はしぞう、1929年(昭和4年)4月9日 - 1984年(昭和59年)12月7日)は東京都出身の歌舞伎役者、のち時代劇の俳優。本名は丹羽 富成(にわ とみなり)、旧姓は小野(おの)。

概要

歌舞伎役者として
柳橋の芸妓の子として出生し、生後まもなく小野家の養子となる。養父は市川瀧之丞という歌舞伎役者で、端整な顔立ちの富成を役者に育てようと、幼い頃から舞踊を仕込む。のち、知り合いだった四代目市川男女蔵の部屋子とした。

1935年(昭和10年)11月、市川男女丸を名乗って初舞台を踏む。そのとき舞台を務めていた六代目尾上菊五郎に素質を認められ、以後目をかけられるようになる。1944年(昭和19年)10月には六代目の妻・寺島千代の養子となり、その実家の「丹羽」姓を継ぐとともに、二代目大川橋蔵を襲名した。「大川橋蔵」は、かつて三代目菊五郎が一旦引退した後、舞台復帰した際に名乗った由緒ある名跡である。実子がないので養子(七代目尾上梅幸)をとったら、今更ながらに実子(二代目尾上九朗右衛門)に恵まれてしまったという複雑な家庭の事情をもつ六代目が、この名跡を橋蔵に与えて妻の養子とした意味は大きかった。橋蔵をもう一人の「菊五郎」の継承者候補とすることで、三人の子はより一層の切磋琢磨を強いられることになったのである。

この頃から六代目は体調を崩しはじめ、晩年はその芸も曇りがちになったが、それでも橋蔵は1949年(昭和24年)7月に六代目が死去するまで一つ屋根の下で暮らしを共にし、音羽屋相伝の芸のみならず、役者として、そして大看板として己がいかにあるべきかを身につけていった。

六代目亡き後は菊五郎劇団に属し、主に娘役として頭角を現すようになる。菊五郎劇団の女形としては、まず七代目尾上梅幸がおり、次に七代目中村福助が控えていたが、橋蔵はその後に控える第三の地位を占めるようになった。しかし六代目という絶対的な後ろ盾を失った橋蔵は、歌舞伎界の前途や自身の将来に不安を感じていた。またこのころ、一足先に大映から銀幕デビューした八代目市川雷蔵が、自分とよく似た境遇にあった橋蔵に映画界入りをしきりにすすめていたという。1953年に東映入りした中村錦之助の映画界入りの際のゴタゴタなど、保守的で硬直化した当時の梨園の内部事情も影響し、最終的に映画界入りに際して歌舞伎の世界と縁を切ったが、歌舞伎に対する敬意と愛情は終生持ち続け、映画転向後に自身の一座を組んで舞台公演を行う際には、必ず『お夏狂乱』『鏡獅子』『船弁慶』などの歌舞伎舞踊を中幕の演目に選び、観客を喜ばせた。

映画俳優へ転身

1955年12月、『笛吹若武者』でデビュー。しかしこの時は歌舞伎に籍を置いたままだった。2作目の『旗本退屈男』を撮った後マキノ光雄の誘いに応じて東映に入社。デビュー作『笛吹若武者』で共演した美空ひばりから、本名の富成をもじっていきなり「トミー」というニックネームをつけられ戸惑ったが、これが映画界の洗礼となった。この後、東千代之介・中村錦之助・市川雷蔵・大川橋蔵の四人は、「二スケ二ゾウ」と呼ばれ、橋蔵も若手時代劇スターを代表する一人として昭和30年代の日本映画黄金時代の立役者となっていく。

1960年代以降、映画全般がテレビに押されて時代劇は斜陽の時代に入り、東映がヤクザ映画に路線転換していくと、舞台やテレビに活動の場を移した。祇園で馴染みの芸妓であった沢村真理子と1966年3月に結婚した。

舞台へ

1956年2月東横ホールを最後に映画界へ入って以来の舞台へ。1962年8月より東映歌舞伎が明治座で公演。7月に準備のために東京へ向かい養母と一緒に養父・六代目尾上菊五郎の墓前へ東映歌舞伎出演の報告をした。

歌舞伎出身の橋蔵は主力メンバーとして出演。他に市川右太衛門・片岡千恵蔵・大友柳太朗・東千代之介らがいる。

銀幕スターが生で見られるとあって明治座始まって以来の客入りで、明治座の扉が閉まらなかった。橋蔵は昼の部の「濡れつばめ」(川口松太郎作・演出)三幕を皮切りに夜の部「いれずみ判官」三幕五場、「花の折鶴笠」四幕十場に出演。とくに「花の折鶴笠」は好評で半年後に映画化、映画より舞台が先に発表された珍しい例と言える。翌年の第二回公演以降は橋蔵が座長と言ってもよいほど舞台の中心に位置するようになる。東映歌舞伎の舞台出演は橋蔵の舞台への郷愁を呼び覚まし、その後歌舞伎座の橋蔵公演へとつながって行く。

1967年12月から大川橋蔵特別公演で11年ぶりに歌舞伎座の舞台に復帰。初日は13代目仁左衛門、17代目羽左衛門、3代目左團次(当時男女蔵)などが歌舞伎から多数出演した。橋蔵は舞台パンフレットに初日の事について「第一回初日を終えて一人化粧前に座ったとき、感激であふれる涙をどうする事も出来なかった」と語っている。1968年12月の歌舞伎座での『鏡獅子』では場内割れんばかりの拍手の嵐となり、かつて菊五郎劇団の女形・舞踊の上手さで頭角を表していたが門閥の壁ゆえ果たせなかった夢を映画で成功させ、一枚看板で歌舞伎座を超満員にした。演劇書を多数出版した戸板康二は朝日新聞に「どんな時でも橋蔵は本格の歌舞伎舞踊を必ず演じてきた〜中略〜映画・テレビの世界に入っても歌舞伎から巣立った事、六代目によって芸道の初歩を与えられたことを決して忘れまいとしている。今日の『鏡獅子』はかつて菊五郎劇団の女形だった時の舞台感覚を少しも失っていない初々しい色気を持っていた。」とコメントしている。

テレビドラマ

1966年5月からフジテレビで『銭形平次』が放映開始。以後終生にわたる当たり役となった。

1960年を過ぎるとテレビは家庭に浸透しており、それに伴う観客の目減りを押さえるのに必死だった映画会社は五社協定によってテレビに映画俳優を貸さない姿勢を強めていた。フジテレビでは橋蔵をテレビ時代劇にと考え頼んだが東映は貸さないと断った。別の俳優だったらと里見浩太朗へ話を持って行くが里見がVTRにこだわった為、橋蔵に白羽の矢が立ったという。

映画会社が貸し渋る俳優のなかにはいざ解禁しても時既に遅し、鮮度を失った俳優も多くいたためで、橋蔵の銭形平次は映画スターが茶の間で見られる事と映画当時の橋蔵ファンが結婚して家庭でテレビを見られる世代へとそのままスライドし高視聴率に繋がった。

1984年4月4日、『銭形平次』が最終回を迎え、18年間で888回に及ぶ長期シリーズに終止符を打った。この時点で「1人の俳優が同じ主人公を演じた1時間ドラマ」としては世界最高記録となり、ギネスブックに認定されている。

死去

雑司ヶ谷霊園 大川橋蔵の墓
1983年9月頃より体調を崩し、入退院を繰り返していた。遺作となった『蝶々さんと息子たち』の撮影中に倒れ、11月25日に最後となる入院時、既に結腸癌が肝臓に転移している状態だった。病名は本人には告げられなかったが、自らの病気を察知し、医師に対して「大酒も飲まず煙草も喫まず、食事にも気を遣い、いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、何故こんな病気になったんですか!?」と訴えたという。1984年12月7日午前1時29分死去。55歳没 (「Wikipedia」より)