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とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」656 シルヴィ・ヴァルタン - Le locomotion

2019-10-12 23:34:55 | 日記
シルヴィ・ヴァルタンのオリジナルではないけれど、この唄は伊藤ゆかりがカバーしてヒットしました。この映像を視て懐かしくなりました。

Sylvie Vartan - Le locomotion



「ロコ・モーション」("The Loco-Motion")は、アメリカ合衆国のミュージシャン、リトル・エヴァ(英語版)が1962年にリリースしたシングル。作詞はジェリー・ゴフィン、作曲はキャロル・キング、編曲はラリー・ノレッド(英語版)。
ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500(2010年版)では359位にランクされている


解説

『ビルボード (Billboard)』誌では、1962年8月25日に、週間ランキング第1位を獲得。『ビルボード』誌1962年年間ランキングでは第19位。


従来からの定説:リトル・エヴァはガール・グループ「ザ・クッキーズ」の紹介で、ジェリー・ゴフィンとキャロル・キング夫妻のベビーシッターの仕事を得る。そこで2人の子供をあやしながら唄っているのを耳にした夫妻が曲を書いてデビューさせた。
一方、キャロル・キング自身がナショナル・パブリック・ラジオ (NPR)のインタビューで答えた話は次の通りである(こちらが事実であろう)。

ジェリー・ゴフィンとキャロル・キングはリトル・エヴァの歌手としての素質を見抜いていた。「ザ・ロコ・モーション」は本来「ディー・ディー・シャープ」に提供予定だった。しかし、リトル・エヴァにデモ録音させたところ、完成度が高かった。それで、デモ録音をそのままリリースしたという。
尚、このキャロル・キングのインタビューはリトル・エヴァの他界(2003年)後に放送された。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」655 ジョーン・バエズ ~ Donna, Donna

2019-10-12 23:09:19 | 日記
この唄は私の子守歌と言ってもいいような、心の底にずっと住んでいた唄です。

Joan Baez ~ Donna, Donna




ジョーン・バエズ(英: Joan Chandos Baez、1941年1月9日 - )は、アメリカ合衆国出身の女性ミュージシャン、シンガーソングライター。
フォークロックの草創期から、今なお第一線で活動し続けている女性音楽アーティストの第一人者。キャリアは60年間にも及び、フォーク界に多くの足跡を残した。2017年『ロックの殿堂』入り。


来歴[編集]

1963年ニューヨーク州のスタテン島にてメキシコ系の家に生まれる。彼女の一家は、クエーカー教徒であった。父親のアルバートは物理学者であり、軍需産業への協力を拒否し、それはジョーンの1960年代から現在まで続く公民権運動と反戦活動へ影響を及ぼした。妹のミミ・ファリーニャ(Mimi Fariña、1945年4月30日 - 2001年7月19日)もフォーク歌手であった。

歌手としての経歴は、1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルから始まった。1960年10月、ファースト・アルバム『ジョーン・バエズ』をヴァンガード・レコードから発売。同作は「ドナドナ」「朝日のあたる家」などトラディショナルのフォーク・バラード、ブルースと哀歌が、彼女自身のギターによって演奏された物であった。

1961年9月発売の『ジョーン・バエズ Vol.2(Joan Baez, Vol. 2)』はゴールド・アルバムとなり、翌年リリースされた『ジョーン・バエズ・イン・コンサート 』も同じくゴールド・アルバムを獲得した。バエズは、1960年代初頭から中期に掛けて、アメリカにおけるルーツ・リバイバルの先頭に立ち、自らの聴衆に対し、ブレイク前のボブ・ディランを紹介し、また多くのアーティストは彼女を模倣した。

1968年12月、ディランの作品のみを歌った2枚組のアルバム『Any Day Now』を発表。シングルカットされた「ラヴ・イズ・ジャスト・ア・フォー・レター・ワード」はバエズのコンサートの定番曲のひとつとなった。
1969年、ウッドストック・フェスティバルに出演。

2010年3月、スペイン政府より芸術文学の勲章を受勲し、Excelentisima Señoraの称号を得る。
2017年、『ロックの殿堂』入りを果たす。2018年、10年ぶりのアルバム『Whistle Down the Wind』をリリース。この作品と、それに伴うワールドツアーが最後になると明言し、第一線からの引退を表明した。 (「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」654 ジリオラ・チンクェッティ Non Ho L Eta

2019-10-12 15:59:35 | 日記
ジリオラ・チンクェッティ。・・・♪ Non Ho L Eta  Non Ho L Eta ・・・。いやもう、この歌いだしは忘れません。勿論、当時はラジオですから、顔は分かりませんでした。声質ですね。もう、痺れました。
こういう台風の日にこんなことをしている自分を責めていますが、もう、やりきれないので、ひたすら聴いています。ごめんなさい。



Gigliola Cinquetti Non Ho L Eta




ジリオラ・チンクェッティ(Gigliola Cinquetti, 1947年12月20日 - )はイタリアのポピュラー音楽の歌手。イタリア・ヴェローナ出身。20ヶ月年上の姉がいる。

略歴

チンクェッティは、1963年のカストロカーロ新人コンテストで優勝。1964年、16歳の時にサンレモ音楽祭で「夢みる想い」 (non ho l'età) を歌い優勝、ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964 に同じ曲で臨み、イタリアからの出場者としては初の優勝を果たしたことにより一躍有名となった。またユーロビジョン・ソング・コンテスト勝者としては初めてUKトップ75にチャート・インした。

1966年には「愛は限りなく」 (Dio, come ti amo) が世界的ヒット。当時、カンツォーネ・ブームの日本では、ボビー・ソロと共に本国イタリアを凌ぐ人気となり、日本語の録音も残している。また、伊東ゆかり、弘田三枝子などの日本人歌手が彼女の曲をカヴァーしている。1979年に結婚、翌年二人の男の子の育児に専念するため引退してローマに転居した。

その後、1989年のサンレモ音楽祭に出場を契機に完全に復帰、1990年にはデビュー25周年ツアーを欧州で行った。1991年、復帰後初のアルバム「Tuttintorno」を発売。以後も1993年に来日コンサート開催、1995年「Giovane vecchio cuore」でのサンレモ出場など、積極的に活動した。

2017年11月に、24年ぶりとなる来日公演を行った 。(「Wikipedia」より)