3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

フリットりの四つの最後の歌

2012-02-04 08:39:43 | 音楽ノート

2012年01月26日(木)バルバラ・フリットリのソプラノリサイタルに行った。
オペラシティコンサートホール
なぜ、イタリアのオペラ歌手のコンサートに行ったのかというと、R.シュトラウスの「四つの最後の歌」がプログラムに入っていたからである。

屈指のオペラ歌手の声は、ビロードのようになめらかで、曇りなく、深かった。
イタリア歌手の歌うドイツリート、ある種の限界性はあるだろう。しかし、その限界を超え、それはただひたすらフリットリの四つの最後の歌だったと思う。
第3曲、眠りに就こうとして、長い間奏をどう処理するのか、大変興味あるところだった。
彼女は、バイオリンソロに耳を傾け、その音色に聞き入っていた。なるほど、そういうふうに歌うのかととても勉強になった。そう思って聞いているうちに、どんどん引き込まれ、永遠に生きるため〜というところでは、じんときてしまった。それは、この歌の魔力だったのだと思う。歌曲にはオペラ一曲の物語が込められているというのが本当に分かった気がした。たった5分の「眠りに就こうとして」のなかにヴェルディのオペラ全幕と同等のいやそれを超えるくらいの濃密な物語、世界史が込められているように思えた。

やはり一流の歌手は表現力が違うのだと思う。イタリアオペラ歌手がドイツリートを歌えるのかとはじめはちょっと疑っていたのだが、その予想は覆された。
ただ、サロメの後に四つの最後の歌というのは、ちょっと無理があるように思えた。
というのは、サロメのエロティシズムと四つ最後の歌、こちらは人生の最期に向かいあう自らの人生への愛、人間すべてへの愛、とは少しかけはなれたものだと思うからだ。

四つの最後の歌は特別な歌なのである。
R.シュトラウスのうねるようなエロティシズムを表現しようとして、それだけで歌ってはいけない。
それを超えて、はるか人生の遠くを、着地点を見ながら、怒涛の人生、そのすべてを人生の最期で受け入れ、許す、そういう境地で歌うべきだと思うのだ。
84歳のシュトラウス最晩年、死の前年、1948年に作曲された。ヘッセの詩集からその歌詞を引いていることを考えると、WW2を経た後の苦悩を含みつつ、平和を願うという意味で歌いたい曲である。

3.11を経て、鎮魂の祈りを込める意味で、この演目をいれた気持ちは理解できる。


演目は次のとおり
1.R.シュトラウス/『サロメ』~「7つのヴェールの踊り」[オーケストラ]
2.R.シュトラウス/4つの最後の歌
3.ヴェルディ/『オテロ』~第3幕舞踏音楽(バッラビレ)[オーケストラ]
4.ヴェルディ/『イル・トルヴァトーレ』~「穏やかな夜~この恋を語るすべもなく」
5.ヴェルディ/『アッティラ』~前奏曲[オーケストラ]
6.ヴェルディ/『シモン・ボッカネグラ』~「夕やみに星と海はほほえみ」
7.ヴェルディ/『運命の力』~序曲[オーケストラ]
8.ヴェルディ/『運命の力』~「神よ、平和をあたえたまえ」
【アンコール】
プッチーニ/『トゥーランドット』~「氷のような姫君の心も」
【演 奏】
カルロ・テナン指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

オケ、歌、が交互に演奏されるので、歌曲のコンサートに慣れているともう少し歌を聞きたいなあとおもってしまう。
フリットりの声はそう簡単には聞かせませんよというプロデューサーの思惑が見え隠れする。

フリットリは大変美しい油の乗り切った歌手だった。
ガタイはものすごく大きい。胸板もものすごくある。




コメント
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