3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

2018.12.30 バルコニー便り 年賀状を書く

2018-12-30 13:24:47 | 日記
とうとう2018年も晦日となった。
明日は大晦日。
バルコニーの椿が強風で倒れそうである。
昨日、お正月のお花を買いに言ったらお花屋さんのおじさんが、ベビーリーフの小さな鉢をくれたので、リビングの窓辺においてみた。
お雑煮の合間のサラダにうってつけだ。
こんなに寒いのに白いゼラニウムが元気に花を咲かせている。
日陰なのになぜか元気である。
夏の暑さにも負けずに、冬の寒さに耐え、咲いている姿は凛々しいとしか言いようがない。
ゼラニウムは冬の我が家の庭に清楚な美しさをたたえる存在である。
ふとみると梅の木の先に小さな硬いつぼみらしきものがついているではないか。
2月3月になると梅の花が美しく咲いてくれるはずである。梅の花は特に夜みると美しいので大好きである。

家人が年賀状を書いたので、郵便局に出しにいくといって出かけた。
私はどうするか、と思案の末、年末で忙しいのだが決心して年賀状を作成することにして取り掛かる。
昨日、なんとなく文面を考えておいたので、今日は宛先を決定して印刷をする。
12月上旬までに喪中の連絡を受けた人を除く。
今年お世話になった人々、古くからの知人友人。
筆まめは重宝である。
加除式だから、いつでも削除できるし、加えることもできるし、喪中の人はすぐのぞくことも可能である。
宛名印刷をする、にチェックをして印刷をかけると、何枚と出てくるので本当に助かる。
プリンターにはがきをセットし、あっという間に何十枚もの年賀状が刷り上る。
昔は、いのししのゴム印をかってきて、一枚一枚捺していた。

筆まめは簡単だから、1時間半ぐらいですべての印刷を終える。
これで出してもよいが、一言添えようとおもって、あれこれ、書く。
長く会っていない友人はお元気ですかとか、同窓会に出ましたか?とか・・・。
年賀状なのに〇〇君が亡くなったそうです、と書いて、急に悲しくなったりする。

大学時代の先生や助手の先生もあのころはお若かったのだが、今はもう随分お年を召して、街角であってもわからないかもしれないと思いながら、お互い様さ、と思いながら、先生がまだ助手でお若いころを思い起こされます、懐かしいです、などと一筆添える。

親戚はどうするか。叔父や叔母ももう亡くなって、従兄弟たちとは接点がなくなっていて、私からの年賀状がとどいても困るかも知れないと思ったりする。でも、母が生きていたら、〇〇ちゃんによろしく、と言うだろうから、年頭の挨拶ぐらいは出すことにしようと思う。

そうこうしているうちに、時間が過ぎる。
少しでも早く届くようにと区内の中央郵便局に投函しにいく。
強風に煽られながら年末で人通りも少ないのだが、郵便局に着くと、そこには年賀状ワールドが広がっているのに驚いた。
年賀状を売る郵便局の職員、年賀状を出しにきた人々で結構込んでいた。
まだ、年賀状をやり取りする人が少なからずいるんだ、と思った。
私もそのひとりなのだ。

年賀状の不思議な魅力は何だろう。
12月の忘年会であった人なのに改まって年頭の挨拶を送る。
音信不通の人にまだ、あなたのことを忘れていません、というメッセージを送る。
私は今年はこんなに仕事をやりました、と自慢する意味としての年賀状もある。
仕事場の私は実は仮の姿で、別の顔を表すものとしての年賀状もある。

私の場合は、この一年の総括をして長年会っていない友人に知らせ、がんばっていますというメッセージを送る。来年も良い仕事をやろうという決意を表明すると言う意味であるように思う。

年末の忙しいときだけれど、なんとなく、年賀状を出してしまう私なのである。

印刷のBGMは
BRENDEL, Beethoven Andante in F, WoO 57 (Andante Favori)

エベーヌのメンデルスゾーン





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