3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

辺見庸:「国難」の言葉の危うさー内面の決壊

2011-09-28 13:42:28 | 東日本大震災
辺見庸が毎日新聞(2011.9.2)の特集ワイドで、次のように述べている。
「僕は記者として、海外の戦場に立ったし、阪神大震災も取材しました。でもね。こうして馬齢を重ねて、今の日本の空気が一番不快だな。テレビ、新聞、そして、それらに影響された社会。飛び交う言葉がリアリティー(現実味)を失ってしまっている。・・・復興に向けて、被災地は一丸となっている、被災者は前向きに頑張っている・・・そんな美談まがいの情報が、あまりに多い。・・・現実はメディアが描くより、はるかに悲惨だし、一般の人たちの方が絶望している。」

「国難って言葉、僕は大嫌いだ」

「国難に対処することが最優先となり、個人の行動や内心の自由が、どんどん束縛されていないか。『手に手をとって頑張ろう』という空気は、それ自体は善意だとしても、社会全体を変な方向へと向かわせるのではないか」そしてこう続ける。「我々自身の内面が決壊しつつある。生きていく足場を失ったという思いは、3.11の前からあった。」

少し長い引用になったが、辺見庸のジャーナリスト、作家、そして、詩人の鋭い目はさすがである。

まさに、「地獄への道は善意という石でしきつめられている」ということか。3.11以前から、言葉はリアリティを失い、メディアはどうしょもないものとなっていた。軽い、の一言。この軽さはどこからくるのか。


「内面の決壊」、これは、辺見庸の『しのびよる破局ー生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年、pp.79-99 で、述べている「無意識の荒み」に共通する感覚と思える。
彼は、「人間を部品化してお金儲けする少数の人間たちと、それができない絶対多数の人間たちの間に、途方もない開きがでてくることを当たり前とする社会のなかで起きてきた、社会の全域に進んだ、あるいは、我々の体内に広がってしまった無意識の荒み」と表現している。

途方もない開きを当たり前とする社会で起きた東日本大震災であり、フクシマなのだ。そこでかかわるメディア、それに影響される社会は、震災は所詮他人事であり、TVは広告代理店と大企業が資金提供する番組であり、ジャーナリズムも同様なのだ。そこで扱われる言葉は、リアリティをもって、我々の胸に響くものではなくなっているのだ。ただ、ただ、軽い言葉の羅列にすぎない。「国難」もまたしかり。


メディアがやっていること、それは「荒み」の増幅以外のなにものでもないのだろう。
軽い善意、軽い震災支援、やらないよりはいいけど、社会のきしみ、は、どうすることもできなくなっていて、当事者からみれば、上っ面の善意なんて拒否したくなるのだろう。

言葉に重みをもたせたい。
歴史性を抱いた絞り出すだれも発することがない言葉で、「書く」こと、それこそ今、我々がやらねばならないことだ。


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