3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

吉本隆明追悼

2012-03-17 10:26:25 | 現代社会論
吉本隆明が亡くなった。
昨日、なんとなく、ニコニコ動画にアクセスしたところ、緊急スペシャルで宮台真司と橋爪大三郎が対談し吉本隆明の追悼をやっていた。
二人の対談+大塚英志が電話で参加していたが、これが非常に面白かった。宮台があれこれいうが、だいたい橋爪先生に軍配があがるというように思えた。
麻布vs開成という図式もみえ、東大社会学の先輩後輩の図式もみえ、別の意味でも楽しめた。


吉本隆明は大正13年生まれだったと思う。まさに、昭和の西暦とともに歩んだ人生だった。詩人にして思想家。全共闘世代にとってこの人を抜きに語れない。
その後の世代にとっても、影響力は多大である。共同幻想、対幻想、大衆迎合ではなく、大衆から学ぶということ。市井の徒にこそ本当があるといわゆるエリート学者を嫌った。

戦前の教育を受け、そして、東工大に進んだ。当時の学生は、理系に進むと徴兵を延期、免れたから男子は文学青年であっても理系に進学させられることがあった。吉本がそのケースだったかは定かではないが、どちらにしても、文科に進学した同世代は戦死したので、残されたものの罪悪感はベースにあっただろう。

吉本は詩人だった。だから彼の社会科学の視点は詩的な言説を通し表現されたのだ。微妙なニュアンスによってすべて、幻想であって、下部構造によって規定されているのにもかかわらず、我々は共同幻想、対幻想によっているとした。党の方針に従うような運動を嫌った。今和次郎や柳田・・という民俗学的手法によって市井の人々にこそリアリティがあるとそこからいかに学ぶかが重要なのだと。

今和次郎や柳田國男、筆者もその民族誌学(ethnography)は大好きである。そして、この手法には文学的な表現力が必要である。ただの報告書ではない、詩歌を表現するがごとくの香り高い文章がかけないとこの手の研究はできない。

今和次郎や柳田國男、吉本隆明などの業績は英訳には向かないので、世界に発信できてないのが惜しい。

マリノフスキーやその他の世界的な社会学者の研究と比肩するすばらしい研究が日本の社会学者の研究のなかにはあるのにそれは日本語で書かれているので、日本語だからこそ表現され、理解されるのだが、英訳には馴染まないので埋もれた研究が無数にあると思う。


吉本といえば吉本興業しか知らない若者。
ばななは知っていても、吉本隆明を知らない若者。

業績主義に走り、科研費などの競争的研究費をどれだけ採ったか、論文数を競い合い、二重投稿、データー改ざんなどを繰り返すどうしようもない俺様主義の学問の世界は嘆かわしい。市井之徒にこそにリアリティがある、民衆の生活を基礎にした地道な研究、渾身の作品をめざしたいものである。

ただ、大衆をどうとらえるか、グローバリゼーションのなかで、「大衆」は分散して捉えがたい。そこが今、大衆のリアリティに迫りそこから学ぶことの難しさであろう。



コメント
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