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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




宮本商店。静岡県伊東市新井2-17。2015(平成27)年1月18日

国道135号沿いの「あらいの湯」のすぐ裏手。寄棟屋根出桁造りの家がGoogle地図では「宮本商店」。なんの店だか分からないのだがストリートビューでは硝子戸ごしに洗剤がみえるから雑貨店だろうか。隣に洋風に見える家があり、さらに隣が「勘五郎丸肉店」。肉店は看板が一切ないから廃業したようだ。勘五郎丸というのは持ち船の漁船の名前かと思う。



鈴進水産。伊東市新井2-1。2015(平成27)年1月18日

Google地図で「鈴進水産」となっている家。国道135号からも、石垣の上に建っている家がよく見える。写真左にわずかに写っている家は国道135号に向いて「鈴進」と「星野ひもの店」の看板を出す店。
この辺りまで来ると商店は減って民家の方が多くなってくる。ぼくはいい加減なところで引き返してしまったので、「太吉丸」という屋号の網元の家を見損なった。その家は「新井」バス停の山側(伊東市新井2-14)に、通り沿いに石垣を築いて建っている。『ゆったり・湯めまちウォーク』の「海辺とまちなみコース」の地図では「重厚な外壁と昔ながらの戸袋と建具/江戸末期に建てられた」とある。

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恵比寿あらいの湯(仲町会館)
静岡県伊東市新井1-9。2015(平成27)年1月18日

国道135号の伊東港魚市場の向かい側にある2階建てRC造の建物が伊東温泉共同浴場・七福神の湯の一つ、恵比寿あらいの湯。「あらい」とは「洗い」ではなく地区名の「新井」。建物は「仲町会館」というようなので、2階は地域の集会場などになっているのだろう。
ネットで見ると、ここの温泉施設は実用一点張りで、入浴後にビールを楽しむような場所もない。建物と同様に適度にレトロでそっけないところに引かれる。観光施設ではなく、地域の共同浴場なのだろう。
明るく広い浴室がいいのなら、近くに「毘沙門天芝の湯」がある。

下の写真は1枚目写真の左の路地を入った裏通りとの四つ角。Google地図では、角が「鈴進」右が「ヤマキ水産」。鈴進は『ゆったり・湯めまちウォーク』の「海辺とまちなみコース」の地図では「八百〆」という八百屋だ。2012年5月撮影のストリートビューでは店先に鈴進の軽ワゴン車が止まっていて、野菜も少しばかりだが並べてある。下の写真では休業日なのかもしれない。「マルキ鈴進」という水産物仲卸の会社があるようなのだが、その青果部なのだろうか?


八百〆。伊東市新井1-10。2015(平成27)年1月18日

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斉元。静岡県伊東市新井1-7。2015(平成27)年1月18日

国道135号線は伊東港の魚市場の横を通るが、その反対側に国道と平行して走る裏通りがある。漁師町と言っていい。その通りの「魚市場」バス停の辺り。写真の民家は白漆喰が目立つので蔵造りかと見えてしまうが正面を見れば出桁造り。『ゆったり・湯めまちウォーク』の「海辺とまちなみコース」の地図に、「屋号「斉元」」とあり、門の表札にも「網元」の字を入れている。
1枚目写真左端の家が「東府屋商店」で、その隣の家が下写真の「久保田薬局」。店は廃業したようである。看板には「保」の人偏だけが残っているが、文字の跡はまだ読み取れる。


久保田薬局。伊東市新井1-8。2015(平成27)年1月18日

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一王。静岡県伊東市新井1-4。2015(平成27)年1月18日

国道135号線は伊東港の魚市場の横を通るが、その反対側に国道と平行して走る裏通りがある。県道110号線は波止場入口交差点で国道に合流して終わるが、そこに出ないで西北へと延長したのが裏通りである。伊東駅からの伊豆東海バスも運行している。その通りは漁港を前にした漁師町といっていい。民家と商店が混在する普通の田舎の通りとも見えるが、漁師町という意識で見ると、古い家もかなり残っていて興味が引かれる。
上の写真は国道135号線の波止場入口交差点のすぐ裏手にある民家。『ゆったり・湯めまちウォーク』の「海辺とまちなみコース」の地図に、「屋号「一王」」とある。網元の家らしい。間口が広い。ほとんど四軒長屋である。1・2階とも大広間がありそうだ。かつては家族だけでなく、網元の下で船や港で働く人たちもこの家で生活したのではないかという感じだ。瓦が葺き替えられているのが残念だ。
下の写真は1枚目写真の家から西へ100mのところで、一王と同じような家が2軒並んでいる。


民家。伊東市新井1-7。2015(平成27)年1月18日

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相生橋(あいおいばし)。中央区佃2。1989(平成1)年10月29日(4枚とも)

新佃島(佃2・3丁目)と江東区越中島の間、晴海運河(隅田川派川)に架かる橋で清澄通りを渡している。現在は1998(平成10)年12月に架け替えられたトラス橋に替わっているが、写真はその先代の橋で、佃2丁目側からの景観。親柱(留柱)は現在の橋にも流用されている。
『東京の橋 水辺の都市景観』(伊東孝著、鹿島出版会、昭和61年、2200円)では「7径間の鋼桁橋(相生大橋)、5径間の鋼桁橋(相生小橋)、長さ=146.5m/45.5m、幅=22.0m、工期=大正13年8月~15年11月、工費=1,507,000円、施工主体=復興局、設計者=田中豊(復興局橋梁課長、工学博士)、成瀬勝武、三宅政吉(嘱託)、橋桁製作=汽車製造㈱(相生大橋)、石川島造船所(相生小橋)、日本鋳造㈱(高欄灯柱)下部工=直営と請負(間組)」という概要。架橋当時は中の島をはさんで、佃島側の相生大橋と越中島側の相生小橋の二つの橋があった。



写真は中の島公園の下流側で撮ったものだが、橋の上流側から島へ降りることができた。橋脚をくぐって撮影場所に出てきたのだが、立入禁止の掲示があったような気がする。
『東京文学散歩 下町編』(角川写真文庫、1955年、100円)によると、中の島公園には隅田川の復興橋梁を造った復興局土木部長の太田圓三(18881-1926、木下杢太郎の兄)の碑(レリーフ)があった。昭和30年2月ごろまであったが、心なき輩に壊されてしまったという。現在それは神田橋際に移されている。




最初に相生橋が架けられた明治36年には橋の上から海に出る月を眺める名所として知られていたという。余裕のある人は新佃島の旅館・海水館へ上ったのだろう。
橋上の中之島公園の位置にある球と外灯の石柱は、残されて現在の橋に受け継がれている。

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石井板金製作所、河野洋紙店。中央区佃2-16
左:1989(平成1)年12月31日、右:2005(平成17)年3月25日

清澄通りの初見橋交差点の1本北を西へ入ったところ。右奥への通りが清澄通りと佃仲通りの間の裏通りだ。新佃島(佃2・3丁目)は月島や勝どきと同様に工業地帯として成立し、昭和50年頃までは○○鉄工所、○○工業といった工場が目立つところだった。石井板金製作所もその一端につながる仕事をしていたのだろう。
現在は石井板金が「ブロッサム佃」(2006年11月築、8階建て17戸)、その左の河野洋紙店が「れんげハウス」(2008年7月築、9階建て12戸)というマンションに建て替わっている。


トンネル路地。佃2-19。1989(平成1)年12月31日

清澄通りから写した路地の景観だったという記憶がある。今となってはどの路地だった確認のしようがない。Google古地図の昔の航空写真を眺めていて、地図では裏通りに抜けている路地なのに、写真では行き止まりになっている路地があるのに気が付いた。裏通りに向いた家があって、その一階を路地の通路にしてあるのではないか? その場で確認しなかったのは我ながら不思議だ。
現在は「ファミール月島グランスイートタワー」(2002年8月築、29階建て242戸)という高層マンションが建って、路地そのものが消滅した。

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