ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




相生橋(あいおいばし)。中央区佃2。1989(平成1)年10月29日(4枚とも)

新佃島(佃2・3丁目)と江東区越中島の間、晴海運河(隅田川派川)に架かる橋で清澄通りを渡している。現在は1998(平成10)年12月に架け替えられたトラス橋に替わっているが、写真はその先代の橋で、佃2丁目側からの景観。親柱(留柱)は現在の橋にも流用されている。
『東京の橋 水辺の都市景観』(伊東孝著、鹿島出版会、昭和61年、2200円)では「7径間の鋼桁橋(相生大橋)、5径間の鋼桁橋(相生小橋)、長さ=146.5m/45.5m、幅=22.0m、工期=大正13年8月~15年11月、工費=1,507,000円、施工主体=復興局、設計者=田中豊(復興局橋梁課長、工学博士)、成瀬勝武、三宅政吉(嘱託)、橋桁製作=汽車製造㈱(相生大橋)、石川島造船所(相生小橋)、日本鋳造㈱(高欄灯柱)下部工=直営と請負(間組)」という概要。架橋当時は中の島をはさんで、佃島側の相生大橋と越中島側の相生小橋の二つの橋があった。



写真は中の島公園の下流側で撮ったものだが、橋の上流側から島へ降りることができた。橋脚をくぐって撮影場所に出てきたのだが、立入禁止の掲示があったような気がする。
『東京文学散歩 下町編』(角川写真文庫、1955年、100円)によると、中の島公園には隅田川の復興橋梁を造った復興局土木部長の太田圓三(18881-1926、木下杢太郎の兄)の碑(レリーフ)があった。昭和30年2月ごろまであったが、心なき輩に壊されてしまったという。現在それは神田橋際に移されている。




最初に相生橋が架けられた明治36年には橋の上から海に出る月を眺める名所として知られていたという。余裕のある人は新佃島の旅館・海水館へ上ったのだろう。
橋上の中之島公園の位置にある球と外灯の石柱は、残されて現在の橋に受け継がれている。

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