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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




白宝堂時計店。千葉県鴨川市貝渚3177。2006(平成18)年3月13日

千葉県道247号線を北から加茂川橋で加茂川を超えると住所は「貝渚(かいすか)」となる。正確に言うと加茂川橋の少し手前からすでに貝渚である。この不自然な境界は昔の加茂川の流れで決定したものだろう。鴨川市横渚(よこすか)も一部が加茂川の右岸に入り込んでいる。蛇行していた川を直線に改修したのかと思う。境界が不自然といったが不自然なのは川の方なのかもしれない。
白宝堂は加茂川橋の袂にある。出桁造りの家の一階だけを看板建築風に改修したものらしい。店名は金文字を張り付けたような感じだが、今ストリートビューを見ると、文字が取れてしまって、それでも白い跡で文字が読める。わざわざ取り去ったのなら廃業したことになるが……。



看板建築。鴨川市貝渚3180。2006(平成18)年3月13日

白宝堂の斜向かいの看板建築の商店だった家。残念ながらなんの店だったか手がかりがなにもない。その左の家も奥まった窓の看板建築で、地図では太平堂という菓子店だが、写真では「文具」という字が読める。同じ建物の別の店なのだろう。今は日よけのテントはなくなっていて店名の表示もない。



旅館鶴乃屋。鴨川市貝渚3116。2006(平成18)年3月13日

県道247号線は加茂川橋を渡るとすぐ東寄りに曲がる。その曲がり角に鶴乃屋がある。銅板張りの戸袋を見ると古い建物らしい。元は日本家屋の旅館だったのをビルに見えるように改修したのだろうか。「素泊り歓迎」の看板は、今は「素泊り歓迎/お一人でもお気軽に」と変わったが営業はしているようだ。

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小林仁成堂薬局、石川屋食品店。台東区谷中3-8。2007(平成19)年12月1日

前の通りはよみせ通りで左にすぐ谷中銀座の入口である。小林仁成堂薬局と石川屋食品店の家は看板建築にした二軒長屋の店舗兼住居の建物だ。その右の路地の奥に玉屋質店があり、通りからもその古い建物の玄関が覗ける。
『谷中スケッチブック』(森まゆみ著、ちくま文庫、1994年、680円)によると、「よみせ通り商店街」は藍染川の川筋の道だったのが、関東大震災後に暗渠にして道幅も広げられた。「夜になると、夜店がいっぱい出たから、いつしか「よみせ通り」の名がついた」。筆者が子供の昭和30年代まで、夕暮れ時に「裸電球がキラキラ輝いていた記憶がある」という。「大正末から昭和の初めは、このよみせ通りの道がもっともにぎわい、バナナのたたき売り、薬売り、狐占い、虫売り、植木、八目うなぎ、端切れ屋などの露店が出て、行きかう人の肩が触れ合うほど賑やかだった」。



春木屋(中華料理)。谷中3-8。2007(平成19)年12月15日

前の通りはよみせ通りで、右の横町は六阿弥陀通りの岡倉天心記念公園の前に出る。中華料理というよりラーメン屋といいたい春木屋は『食べログ』に昭和35年の開店、とあった。2012年5月で閉店したという。
春木屋の左は、1966(昭和41)年の住宅地図では「大沢燃料店」、同じ地図で横丁の右には「谷中初音町巡査派出所」があった。この交番は1986年の地図でも載っている。

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初音湯。台東区谷中3-10。2007(平成12)年12月15日

谷中銀座の階段の下から六阿弥陀通りを南にいって、150mほどで岡倉天心記念公園に出る。そこから西へ、よみせ通りに通じている道がある。その道に入ってすぐのところに初音湯があった。
上野経済新聞>2010.11.24』に、2010年11月21日で初音湯が廃業したのを記事にしている。創業は1931(昭和6)年で、約80年間営業してきたことになる。『谷根千2号1984.12.25発行』によると、建物は昭和37年に建て直したものだ。それまでは昭和6年に建てた銭湯でやってきたのだろう。
谷中初四町会』に、戦災の被害として「南部(谷中銀座通りから南の「谷中初音町南部町会」という戦前の町内会組織)の方は爆弾で多数の犠牲者を出し、北部(谷中銀座通りから北の「谷中初音町北部町会」)の方は2回の焼夷弾攻撃で焼野原となってしまいました」とある。昭和22年の航空写真では、初音湯のすぐ西から南へ白っぽくなっているところは爆弾が落ちたところかもしれない。六阿弥陀通りの東側、家1棟分の幅で家がなくなっているのは、建物疎開で道幅を広げたのだろうか。


谷中初四町会会館。谷中3-10
2007(平成12)年12月15日

初音湯があった道は真っ直ぐに通っていないことでも、古くからある道だと判る。江戸時代には、「六阿弥陀詣」の通り道「六阿弥陀みち」の横丁であったことから「六阿弥陀横丁」とも呼ばれていた、と『谷中初四町会』にある。横丁というからには、ただの田んぼのあぜ道ではなく、家も何軒か建っていたのだろう。左写真が六阿弥陀通りから横丁に入ってすぐのところで、先はゆるいクランク状になっている。カーブの手前にある「谷中初四町会会館」は昭和33年11月の落成。その先が初音湯。『Google古地図』の「明治」の地図を見ると、斜めのクランク部分は川をまたぐ部分だ。川といっても藍染川ではなく、田んぼの中を流れる農業用水のごく細い流れかそのようなものの跡かと想像される。その溝に橋を架けるさいに架けやすい角度があって、道の方が影響を受けたのかもしれない。

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明治屋荘。台東区谷中5-10。2007(平成12)年12月15日

谷中銀座の裏手に宗林寺という日蓮宗の寺がある。山門は六阿弥陀通りに開いている。写真のアパートはその山門の向かい側にあった。典型的な木造2階建てモルタル壁のアパートだ。昭和30年代に建てられたものだろう。もはやこのようなアパートが建てられることはないから、最近は目につくと一応写真に撮って記録している。
撮影時から約20年前のものだが、1986年の住宅地図では左奥から「いく、明治屋荘、かもめ、宿岩菓子」で、「いく」と「かもめ」は居酒屋かスナックと考えられる。「明治屋荘」のところはブロック塀を立てて住民以外の出入りを制限している。2階の横に赤い非常口のドアがあるから縦に廊下が通っていて、その両側に部屋が並んでいたと思われる。
現在は4戸の3階建ての住宅に建て替わった。

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嵯峨の家。台東区谷中6-1。2000(平成12)年5月3日

元柏湯だったSCAI The Bathhouseから言問通りの方へ行く並びで、写真右は大雄寺の門が開いているところ。赤い日よけの家はしもた屋だろうが、1986年の地図では「カスター」、1966年のでは「中華梅林亭」。せんべいの「嵯峨の家」は、『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)によると「嵯峨野家、店舗、木造2階建切妻造桟瓦葺、建築年=明治」。明治期の建物とは驚いたが、谷中や上野桜木には寺の建物も含めて明治期の建築がまだけっこう残っているようである。正面を看板建築にしたのは戦後のことかと思う。嵯峨の家は大正3年創業の老舗。『東京のあられおせんべい』という東京都米菓工業協同組合のサイトには店名が「嵯峨の屋」としているので看板の嵯峨の家も「さがのや」と読むのだろう。



オガワランドリー。谷中6-1。1989(平成1)年3月12日

嵯峨の家の隣は二軒長屋。現在はオガワランドリーは廃業したようだ。長屋の左は今は「喫茶谷中ボッサ」だが、まもなく松本に移転するという。建物は『東京都の近代和風建築』には「谷中ボッサ」と「小川ランドリー」の2行で載っていて「店舗、木造2階建切妻造桟瓦葺、建築年=明治」。「築110年の古民家カフェ」としたサイトがあったので、明治40年頃の建築らしい。

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SCAI The Bathhouse(柏湯)。台東区谷中6-1。左:2007(平成19)年12月1日、右:1990(平成2)年2月18日

言問通りの上野桜木交差点を北へ入ったところで、下町風俗資料館敷設展示場(旧吉田屋酒店)やカヤバ珈琲、喫茶愛玉子(オーギョーチー)といった谷中の観光スッポットや有名店が集中する場所である。「SCAI The Bath House」というのは柏湯を改装した現代美術ギャラリーで、1993(平成3)年に開業した。
柏湯は文化元年(1804年)創業という歴史のある銭湯という。廃業したのは1991年1月。建物は『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)によると、昭和27年の建築で、「木造2階建入母屋造桟瓦葺」という構造。この辺りは空襲の被害は免れた地域なので、東京の伝統的な様式の外観でもあり、戦前の建物と思っていたが戦後まもなくの建築だった。
谷中岡埜栄泉』に「戦争当時、空襲の噂が絶えなかった谷中町は、警察署に被害が少ないようにと周辺を更地にしました」とある。昭和22年の航空写真を見ると谷中警察署(下谷警察署谷中警部派出所(1966年の地図)>警視庁少年保護センター(1986年の地図)>台東少年センター)の周りの建物がなくなっている状態が判る。そう広い範囲ではなく、住宅で1・2軒の幅だ。愛玉子はすでに今の店舗が建っているように見える。



谷中岡埜栄泉。谷中6-1。2000(平成12)年5月3日

SCAI The Bathhouseの横を言問通りの方へ行くと、隣が波トタン張り看板建築で、今は看板は下ろしてしまったが上の写真では「西垣靴店」。その隣が和菓子の谷中岡埜栄泉。やはり建物疎開で取り壊されたのを、戦後に建て直したものだ。『東京都の近代和風建築』では昭和27年の建築、木造2階建入母屋造桟瓦葺という構造。戦前の建物を再現したかのような立派な日本建築だ。


谷中岡埜栄泉。谷中6-1。2007(平成19)年12月1日


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左:中村活字。中央区銀座2-13。1988(昭和63)年2月14日
右:小沢理容店。銀座2-13。1987(昭和62)年5月3日

中村活字は昭和通りの東、2本目の裏通りにあって、正面の壁は改装されたが写真の看板建築の建物で、今も活版印刷を続けている。名刺が主で、招待状などを頼む人がいるかもしれない。趣味の領域になっていると思う。それにしても活字による活版印刷というのは大変な人手と場所がいる作業だったと想像できる。今、活字で本を一冊組むとなったら、どのくらいの費用になることだろう。
小沢理容店は中村活字の前を左(南)へ行って亀井橋の通りに出る角。残念ながら正面の写真を撮っていない。昭和9年頃の火保図に「床ヤ」とあるので、戦前から続いている店なのかもしれない。現在は「ブリリア銀座id」(2004年12月築、14・地下1階建て160戸)という大きなマンションに替わった。


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ライト印刷。中央区銀座2-12。1988(昭和63)年2月14日

写真左に行くと築地川(現・首都高)の三吉橋に出る通りと、昭和通りの東の裏通り(木挽町仲通り)との交差点角にあるライトビルの旧建物。写真右のビルは昭和通りに面した、撮影時は「富士火災銀座ビル」(1974年竣工)で、2012年にヤマトホールディングスが買い取り、「ヤマト銀座ビル」となった。このビルの南半分は、戦前から大和運輸の本社ビルがあったところで、業績が発展して買い戻した形である。
写真のビルは3階建てのビルに4階を増築したもののようだ。富士火災銀座ビルとの隙間から元の壁面を残す個所を覗いたところでは軒飾りがあり、昭和初期の建築になるような印象を受けた覚えがある。
ライト印刷の沿革によると、「1949年に入谷町で創業、1951年に本社を中央区銀座2-12-3へ移転、1963年に本社を墨田区石原に移転」している。1969年の地図では「柿本ビル/ライト電子製版研究所」となっているので、銀座のビルには研究開発部門が入ったのだろう。「柿本ビル」というのがビルの名称らしい。そして「1989年、ライトビルを建築」となる。写真のビルは撮影後じきに取り壊されたのだろう。
なお昭和10年頃の火保図では「三吉ビル(コンクリート造3階建)」である。

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