
初音湯。台東区谷中3-10。2007(平成12)年12月15日
谷中銀座の階段の下から六阿弥陀通りを南にいって、150mほどで岡倉天心記念公園に出る。そこから西へ、よみせ通りに通じている道がある。その道に入ってすぐのところに初音湯があった。
『上野経済新聞>2010.11.24』に、2010年11月21日で初音湯が廃業したのを記事にしている。創業は1931(昭和6)年で、約80年間営業してきたことになる。『谷根千2号1984.12.25発行』によると、建物は昭和37年に建て直したものだ。それまでは昭和6年に建てた銭湯でやってきたのだろう。
『谷中初四町会』に、戦災の被害として「南部(谷中銀座通りから南の「谷中初音町南部町会」という戦前の町内会組織)の方は爆弾で多数の犠牲者を出し、北部(谷中銀座通りから北の「谷中初音町北部町会」)の方は2回の焼夷弾攻撃で焼野原となってしまいました」とある。昭和22年の航空写真では、初音湯のすぐ西から南へ白っぽくなっているところは爆弾が落ちたところかもしれない。六阿弥陀通りの東側、家1棟分の幅で家がなくなっているのは、建物疎開で道幅を広げたのだろうか。
谷中初四町会会館。谷中3-10
2007(平成12)年12月15日
初音湯があった道は真っ直ぐに通っていないことでも、古くからある道だと判る。江戸時代には、「六阿弥陀詣」の通り道「六阿弥陀みち」の横丁であったことから「六阿弥陀横丁」とも呼ばれていた、と『谷中初四町会』にある。横丁というからには、ただの田んぼのあぜ道ではなく、家も何軒か建っていたのだろう。左写真が六阿弥陀通りから横丁に入ってすぐのところで、先はゆるいクランク状になっている。カーブの手前にある「谷中初四町会会館」は昭和33年11月の落成。その先が初音湯。『Google古地図』の「明治」の地図を見ると、斜めのクランク部分は川をまたぐ部分だ。川といっても藍染川ではなく、田んぼの中を流れる農業用水のごく細い流れかそのようなものの跡かと想像される。その溝に橋を架けるさいに架けやすい角度があって、道の方が影響を受けたのかもしれない。
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