ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



左:民家。台東区小島2-6。1988(昭和63)年12月31日
右:今西自動車販売。小島2-7。1987(昭和62)年6月7日

台東区立小島小学校(現台東デザイナーズビッレジ)の南に小島公園がある。今回の写真の家はどれもその公園の西端から見渡せる場所にある。どれも現在も残っている。
左写真の家は2階正面をパネルで覆ってしまった。
右写真の家は「今西自動車販売」の看板は消してしまったが現在も壁を塗りなおしてきれいに使われている。




上:東興造機工業(右)
小島2-10
2003(平成15)年11月16日

左:上の写真左の出桁造りの家
1992(平成4)年6月6日

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浅井精米店。台東区小島2-3。1988(昭和63)年12月31日

小島1丁目と2丁目の境になっているわりと広い一方通行の通りである。小島2丁目3番地の東の端から、その通りに面した3番地のほぼ全域が写っている。写真左端のビルが清洲橋通りのほうにある海老原包装ビル。その右へ、手前角のジョインまで商店や印刷屋、民家などが並んでいる。現在はビルに変わったり、取り壊されて駐車場になっていたり、まだ残っていたり、といろいろである。
写真中央の白い看板建築が浅井精米店で、今も同じ建物のままで商売を続けている。



写真左が1枚目の写真左の海老原包装ビル。写真右の白い家が手島紙工で建物今も変わっていない。小島2-3。1986(昭和61)年4月6日

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田口理髪店。中央区日本橋蛎殻町2-8。1987(昭和62)年2月22日

写真左端に有馬小学校の旧校舎が写っている。天龍・佃田豆腐店の向かいになる。
1990年に現在の田口ビルに変わった。



村越医院の並び。日本橋蛎殻町2-7。1990(平成2)年3月

新大橋通りから現蛎殻町公園のほうへ入った道路の西側。4軒長屋のようだ。
現在は写真左の村越医院の建物が「一久」という焼鳥で飲む店になって残っている。長屋の左2軒は取り壊されて駐車場に、右の2軒は2棟の小さいビルになった。

左:千里軒。日本橋蛎殻町2-5。1988(昭和63)年5月5日
右:味一。日本橋蛎殻町2-2。1990(平成2)年3月

千里軒は新大橋通りの水天宮の一つ東のブロックにあった。現在はビルが立ち並んでいるが、昭和60年頃ではまだ小さい店が大通りに向いて並んでいた。ネット検索すると千里軒は裏通りに移って今も営業しているようだ。

右の写真は水天宮のすぐ裏。写真の右手へいくと水天宮の裏の入口を見て新大橋通りに出る。写真中央の青地に白字の看板は反射光でややこしいが「中ソ味一」だと思う。中ソは中華そばのことで、つまりラーメン屋だ。しかし、普通は中ソといったら中国ソ連だろう。
写真左端の白石タバコ店と写真右の鉢植えの棚を置いた家とが今も残っている。その間の家は取り壊されて駐車所になっているようだ。味一とその隣の家は割と最近まであったのかもしれない。

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市原ポンプ製作所。中央区日本橋蛎殻町2-3。1987(昭和62)年頃

前の通りは人形町通りの延長で、右へ行くと箱崎町から隅田川大橋へ入っていく通り。写真左に水天宮がある。道路は地下鉄半蔵門線の工事中のようだ。
角の古いビルは1986年の住宅地図では空ビル。火保図では昭和8年で「市原ポンプ店」、昭和30年頃で「市原ポンプ製作所」。大正元年地籍地図に同じ位置に「市原卿筒製作所(卿筒の「卿」の字は口へんで、「しょくとう」と読むらしい。あるいは「ぽんぷ」と読んだかもしれない)」とあり、明治期から同じ場所で営業していた会社のようだ。
現在は駐車場。



小山商会。日本橋蛎殻町2-2。1985(昭和60)年10月10日

1枚目の写真で右へ行った次のブロック。3軒並んだ看板建築の左の2軒が今も残っている。

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龍角散ビル。千代田区東神田2-5。1986(昭和61)年1月12日

靖国通りと清洲橋通りの東神田交差点の角。交差点から清洲橋通りを北へ行くとすぐ神田川の美倉橋だ。写真は1990(平成2)年に改築された龍角散本社ビルの旧ビルである。住宅地図には写真右のビルも含めて「㈱龍角散、日本特殊分析研究所、㈱ヤトロン、㈱ダイヤトロン」と記されている。写真左の住宅は龍角散三代目社長藤井得三郎邸らしい。
『日本近代建築総覧』では「1923(大正12)竣工、RC3、設計=渡辺仁・西村好時、施工=戸田組」。設計者として名前が出ている二人はかなり有名な人で、正直、びっくりした。『KANDAアーカイブ>のれん三代記』によると、ビルは1923年7月に完成した。同年9月の関東大震災ではビルが頑丈だったので内部は完全に焼けてしまったが建物自体は残ったという。見たところ建設当時の姿をよく残しているような感じで、大正期の建築のいい例ではないかと思う。


1986(昭和61)年2月

昭和毎日>池田信『1960年代の東京』』で1964(昭和39)年撮影の写真を見ることができる。靖国通りに都電のレールが写っている。新宿駅前―両国駅前の12系統と西荒川―日比谷公園の25系統が走り、豊島町電停があった。

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月島湯
中央区月島3-28
上:1988(昭和63)年1月17日
左:1990(平成2)年1月21日

清澄通りの西の裏通りで、月島湯の向かいは当時は広い駐車場だった。石井鉄工所の工場跡地である。現在、その駐車場には「サンシティ銀座EAST」という高齢者向け高層マンションが建った。いっぽう月島湯は、ストリートビューで見ただけだが、ただの空地だ。
戦前の地図では「神保湯」の名前になっている。
ここに挙げた写真は2枚とも同じ位置から撮っているから、代わり映えがしない。

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駿河屋酒店。中央区月島3-20。1991(平成3)年1月20日

月島西仲通り商店街の南の入口になる。駿河屋は創業100年になるとしているサイトがあった。駿河屋のHPを見たらすぐ近所だが14番地に2009年4月に移転している。特油商会だった古い建物だから、昔からそこでやってきたような趣である。



駿河屋隣の二軒長屋。月島3-20。1989(平成1)年11月26日

1枚目の写真の左に写っている長屋。現在は取り壊されて駐車場になっている。
住宅地図では長屋の左側が「小倉組」である。同じ家が昭和10年頃の地図に「小倉運送」で載っている。

左:1988(昭和63)年1月17日、右:2008(平成20)年10月7日

左の写真は1枚目の写真と同じ構図だが、店先が見えるので掲載しておく。アーケードがまだ完成していない。駿河屋は移転後じきに取り壊されたらしい。

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きらく、中央保険サービス。中央区月島3-14。1989(平成1)年10月29日

清澄通りの区立月島第一小学校の斜向かい。4軒写っているビルや家は現在もそのままにあるようだ。撮影時では左から、田中ビル(山田司法事務所、レストランとコーヒーの「道」)、酒処きらく、中央保健サービス(住友海上保険代理店)、斧と片山歯科。戦前の地図には「田中畳店」と「片山小児科医院」が同じ位置に載っている。
2001(平成13)年に撮った写真を見ると、田中ビルには「たんぽぽ」というもんじゃ屋が入り、きらくは持ち帰り寿司の「茶月」に変わっている。



ビデオビーム1。月島3-14。1989(平成1)年11月26日

1枚目の写真の右に続く家並み。写真右の看板建築の家は「東京中央不動産」。現在は2軒の家がまとめてマンションに変わっている。

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