ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




河野歯科、上原商店。台東区台東3-19。1992(平成4)年3月22日

当ブログ前回「坂口薬局」の1枚目の写真の奥のほうだ。写真右端で末広会商店街の東西の通りと交差する。上原肉店は「日本スタンプサービス会」の旗を立てているから末広会の会員だ。

平坂商事(ガスライターサービスセンター)。台東区台東3-38。左:1988(昭和63)年4月10日、右:1992(平成4)年3月22日

1枚目の写真から1ブロック手前(北側)で、写真の建物の裏は竹の湯(現・セザール御徒町)。
ガスライターサービスセンターになっている建物は3階建ての看板建築だが、ファサードがかなりこった西洋風のレリーフで飾られている。どういう商売の家として建ったのだろ?

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坂口薬局。台東区台東3-45。1988(昭和63)年12月31日

当ブログ前回の野口カバン店の向かいの家並み。坂口薬局の右は出桁造りの元商家で、以下奥(南)へ日比豆腐店、横丁、車庫、長谷川ふとん店、ライターサービスセンター。奥の突き当たりのビルから台東2丁目になる。

坂口薬局
1988(昭和63)年4月10日

看板に「坂口勢進堂薬局」とあり、古くからある薬屋という感じだ。

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東武印刷。台東区台東3-39。1988(昭和63)年4月10日

東武印刷の正面が面しているのは昭和通の裏通りで、右に行くと津田胃腸科医院がある。写真左の道路は昭和通りへ出る横丁で、看板建築の建物が並んでいる。小林製作所、渡辺長七商店(ワタナベネジ)、広瀬表具店など。


野田カバン店。台東3-39。1992(平成4)年3月22日
1枚目の写真の左端の家。


かわちや(飲み屋)。台東3-39。1989(平成1)年2月12日
2枚目の写真の左奥から撮ったもの。野田カバン店の隣がまだある。銅板貼りの二軒長屋だったようだ。

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末広会商店街。台東区台東3-8。1989(平成1)年2月12日

台東3丁目の区域の中心付近になる。写真右の通りは奥が西の方向で昭和通りに出る。街灯に「末広会商店街」の看板と造花を取り付けているが商売をたたんだ家が半分近い感じだ。ただしこの辺は商店街の中心からは少し外れているかもしれない。

左:板倉園茶舗。台東3-8。1989(平成1)年2月12日
右:元商店。台東3-18。1989(平成1)年2月12日

住宅地図を見ると「車コ」や「ソーコ」としか記載のない家がけっこうある。

かおり美容室、藤岡屋
台東3-11
1989(平成1)年2月12日

末広会商店街は台東3丁目を東西に通る歩道のない通りにある。「末広会商店街」によると、明治初期から本郷から蔵前に通じる主要な道路で、人の行き来が多かったらしい。大震災後、周辺に大通りが通じて人の流れも一変したが、戦後も戦災を免れたため、地域に根付いた商店街としてやってきたようだ。一時は住民の流出で衰退一方に思えたものが、最近はマンション建設で新しい住民が増えてきたので、復興の希望はあるようだ。

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大黒屋履物店。台東区台東3-7。1988(昭和63)年12月31日

スズキ堂の長屋と同じ通りで少し東へいったところ。建物は標準的なモルタル仕上げの看板建築で珍しくはないが、店先が昭和30年代である。現在も商売を続けているのかどうかは分からないが、撮影時であっても、よくやっていられるなあ、と思ったものだ。にわか雨のときに傘が売れるぐらいではないかと思ってしまうがそうでもないのだろうか。大黒屋のことではないが「うちは家賃が入るから売れなくてもいいの。なにかやってないと呆けちゃうから」と言う人がよくいると聞く。
右の空地には「和合電機商会」があったようだ。


大黒屋履物店。2003(平成13)年10月23日
看板がなくなったが商品は置いてある。

看板建築の民家
1988(昭和63)年4月10日

場所は忘れたが台東3丁目だったと思う。建物上部に洋風のレリーフがある。


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東宝食堂ビル。千代田区有楽町1-6。1986(昭和61)年8月17日

車の行き交う大通りは晴海通り。日比谷シャンテの方へ入る角に戦前のビルと思われる東宝食堂ビルがあり、その1・2階には「サンマルコ」という店が入っている。


純喫茶タクト、薪屋そば。有楽町1-6。1986(昭和61)年5月18日

タクトの左は「割烹一松」。タクトはいつごろまで営業していたのだろう? 建物はつい最近まで蔦に覆われて残っていた。


東宝食堂ビル。2004(平成16)年2月7日

隣の第二日比谷ビルにはルノアールが相変わらずがんばっているが、飲食店が事務所に取って代わってきている。
asabata氏の「都市徘徊blog>有楽町・東宝食堂ビル」で、解体直前の2006年2月の写真と、屋上に「アサヒビール」の広告を載せた1998年1月の写真を見ることができる。
2007年3月に建て変わった「有楽町東宝ビル」は地上5階、塔屋1階で規模は東宝食堂ビルとあまり変わらない。建て直す必要があったのだろうか?


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有楽座。千代田区有楽町1-2。左:1984(昭和59)年9月

設計:阿部美樹志、施工:竹中工務店、竣工:1935(昭和10)年。
1935年6月に演劇劇場として開館し、戦後の昭和24年8月から洋画のロードショー館になったという。外観がなまこ壁を取り入れた和風なのは日本の大衆演劇を上演する劇場として建てられたからだった。
劇場の南側にオフィスビルがくっついているが、一体の建物なのかどうか不明。「歴史的建築総目録DB」では「4階建て」だが、『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年)では「10階建て」としている。
再開発によって建物の取り壊しが始まる1984年11月にいったん閉館した。
写真左下で「生まれて半世紀!さよならフェスティバル」のチケットを販売している。ネットオークションで売り出されているパンフレットを見ると、10月13日から日比谷映画、10月20日から有楽座で開催されている。

有楽座。左:1984(昭和59)年5月3日、右:同年9月

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日比谷映画劇場。千代田区有楽町1-2。1984(昭和59)年4月

設計:阿部美樹志、施工:竹中工務店、竣工:1934(昭和9)年。
「阿部美樹志」をネット検索して情報を拾ってみると、コンクリート工学の方で有名らしい。高架鉄道や橋の設計者として名前が出てくる。建物では阪急デパート、墨田区太平の精工舎の工場、八重洲の東京建物本社ビルなど。
昭和21年3月、復興院総裁になっている。震災復興院というのもあったから戦災復興院ともいうらしいが、1945(昭和20)年11月、幣原喜重郎内閣のときに設置され、1948(昭和23)年1月に内務省国土局と統合して建設院に、後に建設省となる。(ウィキペディア参照)


日比谷映画劇場。1984(昭和59)年4月

劇場の建物の後は円形で、屋根はドーム状だった。後ろからも写真を撮っておけばよかったのだが、「なくなるから撮っておこう」と、1・2枚も撮れば気が済んだのだった。当時はぼくの頭にはまだ「近代建築」の概念はなかったようだ。
ぼくは「007ゴールドフィンガー」をここで観たのだが、1965年のことらしい。そんなものを観てないで、街の建物を見て歩けばよかった。


国策ビル。有楽町1-3。1984(昭和59)年9月

昭和30年代に建築されたビルではないかと思う。映画の看板が懸かっているがこのビルに映画館があるわけではない。左からスカラ座、みゆき座、日比谷映画、○○プラザの広告。1階に「東宝三番街」とある。飲食店街になっているらしい。
現在は日比谷シャンテ前の広場になった。

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東京宝塚劇場(東京宝塚ビル)。千代田区有楽町1-1。1983(昭和58)年10月

設計:竹中工務店(石川純一郎)、施工:竹中工務店、竣工:1933(昭和8)年。
宝塚少女歌劇団の東京の根拠地として建設された。株式会社東京宝塚劇場は1932年8月に阪急電鉄の小林一三が設立し、後に東宝になる。劇場のオープンは1934年1月1日。この後、有楽座、日本劇場、帝国劇場を所有して日比谷一帯を傘下に納め、浅草と築地の松竹と東京の興行界を二分するようになる。
戦後は米軍に接収されてアーニーパイル劇場と称した。その期間は1945年12月24日から1955年1月27日。
日比谷スカラ座のオープンは1955(昭和30)年。
年中、宝塚歌劇をやっていたのかと思っていたが、商業演劇や歌手芝居、ミュージカル等の方が多く、宝塚歌劇は年数回だったという。
解体工事は1998年1月からだったらしい。(ウィキペディアを参照)
ビルの角から東側面に「東京寶塚劇場」の文字を置いているが、1986年の写真ではなくなっている。


スカラ座入口。1992(平成4)年3月20日
日比谷スカラ座はビルの7・8階にあったようだ。写真中央に「紫禁城の落日」の看板が懸かっている。映画ではなく宝塚歌劇団のミュージカルだ。

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大阪ビル2号館。千代田区内幸町1-2。1986(昭和61)年5月18日

左写真はビルの裏側。奥に1号館が見えている。
右写真はビル後方から見た東の側面。バックの高層ビルは第一勧業銀行本店(現みずほ銀行本店)。高層ビルに建て変わる以前のビルは、日本勧業銀行本店として1929年に建てられた古典様式のビルで、大阪ビルと同じ渡辺節の設計だった。


大阪ビル1号館の裏側。1986(昭和61)年2月2日
すでにフェンスで囲まれている。裏通りの写真を2枚記録していたが、1号館裏側の上部も撮っておけばよかった。

正面玄関
1986(昭和61)年2月2日

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