…松戸の下矢切へ越したのは鈴木義勝夫妻のお世話だった。当時の下矢切は畑の多い坂上にあって、鈴木夫人の里である式場病院の台地に隣接していた。六畳に四畳半ふた間しかない木造バラックだったが、生まれて初めて一軒家に住めたのでうれしかった。下矢切から国府台まで歩き、バスで市川駅に出、国電で御茶ノ水で降り、あとは地下鉄で繊維経済研究所のある日本橋人形町まで通った。その松戸の一軒家で、私は既製服の行商をしていたので、その暇を見て「霧と影」七百枚を書き上げた。……松戸の家の下に県警の射撃練習場が出来た。私の家は的にあたる崖の上の畑に建っていたので、屋根の樋に散弾がたまるほど、毎日、激しい鉄砲の音がした。
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ととと申します。
いろいろとネット上を探索していたらこちらのページにたどり着いたものです。
この、集会場となっている建物はですね、娯楽室でも集会場ではなくて霊安室です。
いやー・・・しかし、工事中で危なかったでしょう。
よく入れたなぁと思いました。
もう少し詳しく書こうとも思いましたが一応ここの職員なのでちょっとまずいかなぁと感じたのでやめます。
すみません。
霊安室とは思い至りませんでした。病院ならたいてい設置していますね。化研では開院当初から、当時としては立派な別棟で建てていたわけですね。結核に対する当時の考え方が類推できるような気がします。
撮影時は日曜日だったかもしれません。工事は行なってなく作業員も見かけませんでした
霊安室であること、奥山儀八郎の作品にこの建物を描いたものがあることを追記しました。
私は叔父の家で矢切の渡しのモノクロの版画を見ていて奥山儀八郎の名前は聞いています。あるいは奥山義人の版画だったかもしれません。奥山版画工房の前もたまに歩いたりします。
『化研霊安室 生と死と』は下矢切に移って来た翌年の作品ですね。当時はまだ農村に近かったと思いますが、儀八郎はものめずらしさで近所を歩き回っていたようですね。