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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




化研病院の集会所。千葉県市川市国府台6-1。2006(平成18)年4月2日

「集会所」としたが、実際はなんだか知らない。写真左の赤い屋根が前回の診療棟。診療棟としたのも、あるいは研究所だったかもしれない。
昔は結核といえば大変なもので、徳富蘆花の『不如帰』や堀辰雄の『菜穂子』に書かれて、ぼくは読んでいないが、有名だからなんとなく知っている。高原のサナトリウムに転地療養が必要、という感じだ。化研病院の周辺は今は住宅地で、北総線の開通で都心と直結してしまったが、戦前は農村で転地療養にふさわしい場所だったのだろう。


化研病院の集会所。2006(平成18)年4月2日(以下の写真も)
一見したところ礼拝堂のように見える。患者のための娯楽室か面会室だったのかもしれない。昭和14年の病院開設から間のない時期の建設だろうから、戦前の洋風の建物である可能性もある。


古い病棟。


古い病棟の後方部分。


さらに後ろに、開設時の第1病棟だろうか。

作家の水上勉が化研病院のすぐ向かいに住んでいたことがある。昭和32年9月から34年10月までの2年間である。化研病院は北総線矢切駅からすぐの所にあり、駅前広場に「水上勉氏旧居跡」の碑が建てられている。以下は水上の『私版東京図絵』から引用。
…松戸の下矢切へ越したのは鈴木義勝夫妻のお世話だった。当時の下矢切は畑の多い坂上にあって、鈴木夫人の里である式場病院の台地に隣接していた。六畳に四畳半ふた間しかない木造バラックだったが、生まれて初めて一軒家に住めたのでうれしかった。下矢切から国府台まで歩き、バスで市川駅に出、国電で御茶ノ水で降り、あとは地下鉄で繊維経済研究所のある日本橋人形町まで通った。その松戸の一軒家で、私は既製服の行商をしていたので、その暇を見て「霧と影」七百枚を書き上げた。……松戸の家の下に県警の射撃練習場が出来た。私の家は的にあたる崖の上の畑に建っていたので、屋根の樋に散弾がたまるほど、毎日、激しい鉄砲の音がした。


追記(2010.09.13)

1・2枚目写真の「集会所」とした建物は霊安室だというコメントを頂いて、文章のほうも訂正しようと思いながらそのままになっている。キャプションを訂正すると本文も変える必要があるので、この追記で霊安室であることを言って済ませることにする。
先日は、版画家の奥山儀八郎の作品にこの霊安室を描いた『化研霊安室 生と死と』という作品があることを別の人から教えられた。1955年制作の木版画で、松戸市が持っていて松戸市の「デジタル美術館>奥山儀八郎」で見ることができる。この版画と同じく入り口を正面から撮ったスナップがあるので追加して掲載する。

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コメント
 
 
 
この建物は (とと)
2007-12-07 00:39:23
はじめまして。
ととと申します。
いろいろとネット上を探索していたらこちらのページにたどり着いたものです。
この、集会場となっている建物はですね、娯楽室でも集会場ではなくて霊安室です。
いやー・・・しかし、工事中で危なかったでしょう。
よく入れたなぁと思いました。
もう少し詳しく書こうとも思いましたが一応ここの職員なのでちょっとまずいかなぁと感じたのでやめます。
すみません。
 
 
 
>とと様 (流一)
2007-12-07 11:54:40
わざわざの情報提供、ありがとうございます。
霊安室とは思い至りませんでした。病院ならたいてい設置していますね。化研では開院当初から、当時としては立派な別棟で建てていたわけですね。結核に対する当時の考え方が類推できるような気がします。
撮影時は日曜日だったかもしれません。工事は行なってなく作業員も見かけませんでした
 
 
 
奥山儀八郎 《化研霊安室 生と死と》 (松戸の儀八郎)
2010-09-11 11:47:15
1954年から松戸の下矢切に住んでいた版画家である奥山儀八郎が《化研霊安室 生と死と》という版画を残しています。版画で描かれている霊安室は、屋根の形や瓦模様、入口の形が掲載されている写真と同じです。(入口は色だけ違いますが) 私は版画の方からこのHPに到達したのですが、とても興味深く読ませていただきました。有難うございました。(URLは松戸市の公式HPで、儀八郎の版画が掲載されています)
 
 
 
追記 (流一)
2010-09-13 11:35:46
奥山儀八郎の版画についてご教授頂き、ありがとうございます。
霊安室であること、奥山儀八郎の作品にこの建物を描いたものがあることを追記しました。
私は叔父の家で矢切の渡しのモノクロの版画を見ていて奥山儀八郎の名前は聞いています。あるいは奥山義人の版画だったかもしれません。奥山版画工房の前もたまに歩いたりします。
『化研霊安室 生と死と』は下矢切に移って来た翌年の作品ですね。当時はまだ農村に近かったと思いますが、儀八郎はものめずらしさで近所を歩き回っていたようですね。
 
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