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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




六軒長屋。墨田区京島2-21。2013(平成25)年4月11日

曳舟たから通りと東武亀戸線の間を通っている旧道の、「平成福順」の長屋があった四叉路から東へ行くと、両側とも古そうな民家が並んでいる。左写真の奥の左側に「区立京島南公園」がある裏通りだ。右写真はその奥から振り返ってみた写真。
一軒一軒が改装されているが、古い航空写真を見ると、六軒長屋のようだ。左写真の手前から4軒目で建物の切れ目のように見える家が、二階が後退している元の長屋の形をとどめている。他の5軒は2階の前面は増築部分と思われる。
右写真の右奥(電柱の後ろ)の看板建築風の家は、1968年の地図で「都民組合南吾嬬分配所」、1985年のでは「八百六商店」。その家の右(フレーム外)は、1968年の地図ででは「中野鮮魚」となっている。昭和40年頃には八百屋と魚屋が並んでいたらしい。
京島南公園は1963(昭和38)年11月の開園で、それ以前は工場があった。戦前の地図には「製菓会社」とある。



三軒長屋。京島2-20。左:2013(平成25)年5月5日右:2013(平成25)年4月11日

1・2枚目写真の向かい側。右写真手前の柵は京島南公園。古い航空写真を参照すると三軒長屋らしい。

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東武亀戸線の踏切際の民家。墨田区京島2-22。2013(平成25)年4月11日

曳舟たから通りと東武亀戸線の間を通っている旧道の、「平成福順」の長屋があった四叉路から南へ行くとじきに東武亀戸線の踏切を渡る。写真はその踏切の手前にあった長屋と民家。左写真は京島側から、右は押上側からの撮影。



東武亀戸線の踏切際の民家。墨田区京島2-22。2013(平成25)年4月11日

左の家は住宅地図で「新開磁気」。正面は二軒長屋のように見えるが奥に長いアパート式の建物で、建物左横に外階段を付けていて直接二階へいけるようになっていたようだ。最近、建て直された。右写真の民家は現存。

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民家。墨田区京島2-15。2013(平成25)年4月11日

六軒長屋の南側にある古い民家。その民家の横に路地が入っていて、民家の隣は古い二軒長屋。路地は鍵型に曲がり、その角も古い二軒長屋。これら3棟はいずれも戦前からの建物だ。路地は東武亀戸線と平行していて、その間は今は真新しい一戸建て住宅が並んでいる。そこには1985年の地図では「昭和スプリング製作所」という工場があった。



二軒長屋。京島2-15。2013(平成25)年4月11日

路地は奥でクランク状に続いている。その角の二軒長屋と、写真右は1枚目写真の民家との間の二軒長屋。写真左奥の、路地を横切る黄色の線は2段の階段。元々低湿地だったこんな場所に階段があるのが意外である。手前が文字通り一段低い場所だったということになりそうだが、階段の向こう側は長屋などを建てる際に盛土をしたのかもしれない。あるいは階段の手前に沼でもあったのだろうか? この路地はストリートビューで入っていけるので興味のある方はそちらでご覧いただければと思う。

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六軒長屋。墨田区京島2-15。2013(平成25)年4月11日

曳舟たから通りと東武亀戸線の間を通っている旧道の、「平成福順」の長屋があった四叉路から踏切の方へ向かった通りにある六件長屋。戦前だったら東京モスリンなどに勤める工員などが入居したのだろうか、と想像できる。航空写真で見ると屋根は綺麗に葺き直されているようで、まだしばらくは取り壊さずに使っていくように見える。中に「竹野製作所」がある。木材木製品製造業で、昭和36年の工場許可証が貼ってある。はたして現在も営業しているのだろうか。




上:六軒長屋。竹野製作所の左に「貸家」の貼紙がある1軒がある。
左:裏の六軒長屋
京島2-15。2016(平成28)年6月12日

竹野製作所の六軒長屋の裏にもう1棟、六軒長屋がある。用もないのに裏の路地などには入りづらいが、1枚だけ写真を撮って退散した。航空写真で見ると、屋根は一軒一軒がバラバラに葺き直している。

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花火屋酒店。江戸川区東小岩5-26。2018(平成30)年1月14日

千葉街道の総武線ガードの南、500mほどのところに平成24年に新たに建てられた「小岩図書館」がある。その向かい側に平家ながら銅板葺きの看板建築といっていい建物の酒屋がある。店舗の右、街道に面した日本家屋が住居だろうか。店舗の左、横丁の方に見えるのが倉庫らしい。
アウト・ドアめし>第14回「花火屋酒店 和傘の村のベルギービール」小岩で世界を体験しよう(2012.01.25)』に以下のように店の歴史が記されていた。「もとは和傘屋の屋号で、明治の頃は、傘屋で、昭和から酒を扱うようになった。/この辺は、水田が広がり、農閑期副業から始まった和傘作りが、大正末には傘屋の集落となるほど賑わいを見せた。/近くの善養寺には、傘職人川野竹松の碑がある。その関係する川野商店(和傘問屋)は現在、江戸東京たてもの園に移築されている。/この店は、昭和8年に建てられた。」
和傘は小岩の地場産業だったらしい。花火屋の名前も川野というらしいのだが、川野竹松や江戸東京たてもの園に移築された川野商店と関連があるのだろうか?



洋館付き住宅。東小岩5-23。2018(平成30)年1月14日

花火屋の裏手に残っていた古い民家。昭和22年の航空写真には、写真の民家の右に2棟、民家の裏のアパートのところに3棟、同じような家が並んでいる。その6棟は戦前に建てられた建売住宅か借家だと思われるが、そのうちの1軒が今に残っているわけだ。

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旅館敷島。江戸川区東小岩5-6。2005(平成17)年3月19日

柴又街道の、総武線のガードと千葉街道(東小岩四丁目交差点)との中間あたりを東へ入ったところ。写真左の車が止まっている道路は、柴又街道のすぐ東を平行に通っている裏道。柴又街道は盛土をして通したためだろうが、そこに出る道路は坂道になっている。そのためか、写真の辺りに立つと低湿地にいる実感があり、裏道には用水路が流れていたような感じがしてくる。後で昭和初年の地図を見ると、裏道に沿って川の表記があった。
写真の屋敷は右に門があり、門の右に、写真では切れてしまったが「旅館敷島」の看板が出ている。下の写真は上の写真の左奥から撮ったもの。
現在はここに6棟の建売住宅が建った。下写真手前の平屋の民家は裏の2棟を含めて残っている。


民家、旅館敷島。東小岩5-6。2005(平成17)年3月19日



民家。東小岩5-6。2005(平成17)年3月15日

2枚目写真の民家の手前は、現在は駐車場になっているが、そこに建っていた民家ではなかったかと推察した。写真右奥へ行くと2枚目写真になるという見当だ。

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桶新氷室。江戸川区南小岩3-18。2005(平成17)年3月19日

千葉街道の小岩郵便局交差点の南東角。小岩中央通り五番街を南へ延長した通りとの交差点である。その通りは「小岩用水」の流路を埋めて造った道路で、ベニスマーケットが建ってしまった五番街の埋め立ては昭和37年であるが、延長通りはそれ以前に埋め立ては完了していたと思われる。昭和38年の航空写真では、下小岩用水(千葉街道のすぐ西をほぼ平行する。一部は下小岩親水緑道に)と千葉街道の間のわずかな部分が未開通だ。
「桶新氷室」とその左の平屋の建物とは今も残っていて、「東不動産」は廃業したようだが桶新氷室は続いている。
平屋の洋風な看板建築が目を引く。両側面まできちんと造ってある。どんな商売をしていたのか分からないのが残念だ、



平屋の看板建築。南小岩3-18。2005(平成17)年3月19日

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やまちゃん鮮魚店。墨田区京島2-15。2013(平成25)年4月11日

平成順福の長屋があった四つ角のもう一方の角。左奥が押上の方向(南西)で、75mほど先で東武亀戸線の踏切を渡る。
写真右奥の緑色の日よけを出しているのが魚屋の「やまちゃん」。建物はトタン張りの二軒長屋だ。元は四軒長屋だったらしい。やまちゃんの右の家はそれを建て替えたのだと思う。
角の家は1985年の地図にはなんの商売か分からないが「(高砂屋)」という店の名前が書いてある。

下の写真は四つ角の北にある平屋の民家。正面右手に店舗にした部分がある。こういう形は不動産屋に多い。


民家。京島2-20。2013(平成25)年4月11日

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左:羽塚メッキ工業、右:民家。墨田区京島2-16。2013(平成25)年4月11日

曳舟たから通りの南の旧道は四ツ目通りとの角に、昭和12年まで屠獣所(場)があったので、地元の人はこの辺りの旧道を「場通り」といったという(『八広の爺ちゃん>押上小学校』)。明治末の地図に「寺島屠獣場」とある。
四つ目通りから旧道に入って東へ行くと、安食屋豆腐店の長屋のすぐ先で旧道は二股に分かれる。その間に挟まれた場所が明治の地図で「請地葭沼」とあり、「字葭沼」という地名も周辺に散在している。低湿地帯(京島2丁目交差点の標高が-0.8m)のこの辺りは、工場が進出してくる以前は沼などは方々にあったと思われるが、この近所に「葦沼」という沼があったのだろう。

写真は3枚とも、二股から南の道を行った沿道で目に付いた古い家。「羽塚メッキ工業」は1985年の地図から。「民家」は建て替わっている。



平成福順。京島2-16。2004(平成16)年1月24日

直交していない四叉路がある。川の流路、あるいは沼との関係でそうなってしまったのだろうか。その角にある家は改装されていて判りにくいが三軒長屋かと思う。「平成福順」は肉まんなどを製造販売している店。現在は右の2軒が建て直された。

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平屋の三軒長屋。墨田区京島2-13。2013(平成25)年4月11日

虎橋通りから路地を入ったところで、写真左奥に写っている二階建ての家(阿内製作所)の裏にもう1軒家があって、その家の裏は東武亀戸線が走っている。戦前の、虎橋通駅があった頃なら駅のすぐ裏という立地だったわけだが、今は京成曳舟駅や東武の曳舟駅まではちょっと歩く。少し遠いが押上駅に出てしまうのがいいのかもしれない。



木村理化学製作所。京島2-12。2013(平成25)年4月11日

平屋の長屋と同じ路地にある長屋。1階の軒先が食い違っているのは右の家の方が下に垂れてしまったのかと思う。古い航空写真では元は四軒長屋で、写真左の家は長屋の左2軒を建て替えたものらしい。

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