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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




小田急新松田変電所。神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1357。2016(平成28)年4月22日

小田急新松田駅にある変電所。Googleマップに「秦野電気システム管理所松田事務所」とあるが、これは小田急の電気系統の点検などをおこなう部署のようだ。小田急小田原線が開通したのは1927(昭和2)年4月1日で、新町田駅もそのとき開業した。変電所はそれ以前に建ったわけなので、大正15年頃かと推定できる。
神奈川の近代建築>小田急新松田変電所』によると、RC造2階建、設計は小田急電鉄で、相武台前駅の変電所が同じ仕様による建物だそうだ。相武台変電所には建物の正面、2階の中央にアーチの出入口があるので、新松田変電所にもあったのを塞いでしまったのかもしれない、としている。また、近代建築では足柄上郡唯一のRC造の建物だという。
新松田駅の駅舎は平屋の寄棟屋根に破風のような屋根を乗せて、ちょっと古い駅舎にみえるが、1980(昭和55)年に建て直された割と新しいものだ。



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吉田町第一名店ビル。神奈川県横浜市中区吉田町4。2009(平成21)年4月5日

ぼくが「防火帯建築」という言葉を知ったのはわりと最近である。戦前築の建物を見て回っていた30年前には、目にはしていてもなんの関心も向かなかった。それが、街路に沿って長い、3・4階建てのビルが横浜の街の景観を特徴づけているらしいと気が付いて、ネットで調べてみると、横浜の戦後の復興に関わる歴史的な建物であった。気が付いた時には、すでに建て直された防火帯建築もかなりの数になったようで、それらを記録できなかったのが残念だ。
吉田町(よしだまち)には「吉田町本通り」に沿って4棟の防火帯建築が連続して並んでいる。伊勢佐木町の方から「吉田町第一名店ビル」「No1吉田ビル」「吉田町第二共同ビル」「吉田町第三共同ビル」。No1吉田ビルと第二共同ビルはくっついているから全部で3棟に見える。
吉田町第一名店ビルは『横浜の防火帯建築と戦後復興』によると、「8人の建築主と神奈川県住宅公社による共同再建型の併存住宅として建てられ昭和32年3月に入居が始まる」とある。また「数年前からバーや飲食店が入居するようになり通りの雰囲気がかわりはじめ、築50年を過ぎた古いコンクリート長屋を活かしたまちづくりが地元町内会・名店街会の若手メンバーを中心に進められている」ということで、写真では下りたシャッターが目立つが、これから変わっていくのかもしれない。




吉田町第二共同ビル。中区吉田町5
上左:2003(平成15)年2月8日
上右・下:2009(平成21)年4月5日








吉田町第三共同ビル。中区吉田町6。左: 2009(平成21)年4月5日、右:2003(平成15)年2月8日

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都南ビル。神奈川県横浜市吉田町10
左:1988(昭和63)年8月6日
右:2010(平成13)年7月8日

吉田橋側のイセザキモール入口からすぐ北が吉田町(よしだまち)で、都橋へ向かう通りに、タイル張りの外壁の風格のあるビルが建っている。都南(となん)ビルという元銀行だった建物だ。写真の側が表とすると、裏側の方が広い大通りに面しているのだが、1・2階の外装を改修しているので、こちらを正面と決める。
『日本近代建築総覧』では「都南ビル、中区吉田町1-10、建築年=昭和3年(1928)、構造=RC5階建、設計=西口為蔵、施工=山口組(長野県松本)」。昭和5年(1930)竣工が正しいらしい(『 YOKOHAMA xy通信>No.352』)。「都南貯蓄銀行本店」として建てられたもの。
既サイトによれば、都南貯金銀行は貯金銀行法により、神奈川県下の23の貯蓄銀行と4の普通銀行が合併して1921(大正10)年12月に弁天通に設立された。吉田町に本店を移したのが1928(昭和3)年。
1945(昭和20)年、大都市に残る9貯蓄銀行が合同し日本貯蓄銀行(協和銀行の前身)が設立されるが、都南貯蓄銀行は日本貯蓄銀行にはいかず、横浜興信銀行(後の横浜銀行)と合同して消滅した(横浜銀行>会社情報>歴史>創立90周年記念誌「地域とともに141年 横浜銀行の歩み」)。
写真の「静岡相互銀行」が都南ビルに横浜支店を出したのは1954(昭和29)年。1989(平成元)年8月 に普通銀行に転換、「株式会社静岡中央銀行」に商号変更した。静岡県沼津市に本店を置く第二地方銀行である。2005(平成17)年4月26日に磯子区丸山に移転した。

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不二家伊勢佐木町店
神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1-6
2003(平成15)年2月8日

現在の店名は「不二家横浜センター店」である。「伊勢佐木町店」のほうが分かりやすいだろうと思うのだが、横浜の繁華街として伊勢佐木町がまず思い浮かぶのは古い人間になってしまった。今では伊勢佐木町のネームバリューはランクをだいぶ下げてしまった。「伊勢佐木町ブルース」のヒットは50年も昔のことだ。
建物は『日本近代建築総覧』では「不二家、建築年=昭和13年、構造=RC7階建、設計=A.RAYMOND、施工=戸田組」。『不二家HP』 では、伊勢佐木町店新築開店は1937(昭和12)年2月であり、階数も6階建て地下1階。
レーモンドによる「モダニズムの粋」と言われる外観は、とても戦前の建築とはみえない。伊勢佐木町に並ぶ戦後のビルと並んでも、それ以上に新しいビルに見えてしまう。レーモンドの起用が不二家の創業者・藤井林右衛門の企図だとすれば、まだだれも洋菓子など食べない時代にそれで事業を起こした先見性が、建物に現れたのかもしれない。
不二家のHPを見ていたら、「フランスキャラメル」の発売は1934(昭和9)年と出ていた。戦中もあのパッケージで売られていたとは思えないが、どんな経過で、復活したのはいつなのだろう? 今は発売していないから、なんの話か分からない人もありそうだ。

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第三イセビル。神奈川県横浜市中区長者町8。1988(昭和63)年8月6日

中村川の車橋から大岡川の長者橋への大通り(横浜市主要地方道80号横浜駅根岸線、横浜駅根岸道路、長者町通り)の長者町七丁目交差点の角に建つ小さな雑居ビル。「イセザキモール」の商店街の北東側入り口にあるイセビルと同じオーナーのもので、ちなみに第二イセビルが伊勢佐木町二丁目にあるそうだ。
塔屋が目立つビルで、それもアールデコ風なデザインで印象的だ。『ウィキペディア>イセビル』には「1956(昭和31)年度の助成で長者町七丁目に建設された」とある。第一イセビルは関東大震災復興の興建築助成株式会社の助成を受けたが、第三イセビルの助成というのは、戦後の横浜市建築助成公社から融資を受けたことを言っている。『横浜の防火帯建築と戦後復興 』では、昭和31年度融資で、大林組の施工。竣工当時の写真を見ると、塔屋の上の窓は時計がはめ込まれていたと判る。残念ながらいつのまにか撤去されてしまった。
長者町通りのビルの前にアーケードが残っている。第三イセビル竣工当時の写真に写っているものと同じらしい。今となると貴重なものかもしれない。



第三イセビル。2009(平成21)年4月5日

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イセビル(伊勢ビル)
神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1-3
上:2002(平成14)年1月14日
左:2010(平成22)年4月10日

イセビルはJR関内駅のほうから吉田橋を渡って「イセザキモール」の商店街に入る入口に建つ古いビル。地図では「第一イセビル」とあるのは、第二・第三イセビルがあるため。『日本近代建築総覧』では「伊勢ビル、建築年=昭和3(1928)年、構造=RC5階建(地下1)、設計=復興建築助成㈱、施工=三引建設」。5階が増築のように見えるが、竣工時にはキリンビヤホールだった。
『ウィキペディア』に項目があって、わりと詳しいことが判る。施主は横浜市会議員の上保慶三郎という人。横浜では復興建築助成株式会社の助成を受けて建てた建物は75件あり、その最初の建物。施工は東京・銀座の「三ツ引商事」で、耐震に留意して基礎に404本のアカマツの杭を打たせた。完成は1926(大正15)年としていて、『総覧』より2年繰り上がる。
近年の原状回復工事において、昭和初期に営業していた「カフェー・オリエント」の壁画と思われるもの、および1955年当時にダンスホール「白馬車」だったときと思われる壁画が発見された、という記述が興味深い。今頃はその壁画を生かした店が開店しているのだろうか?
屋上の「求心」の広告は1980年12月に現れ、2013年11月に撤去されたという。

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加賀町警察署。神奈川県横浜市中区山下町203。1987(昭和62)年8月9日

現在の加賀警察署の庁舎は1996(平成8)年3月の完成。写真は旧庁舎を横浜公園北東角の向かいの玄武門から中華街への通り(北門通り)から撮ったもの。肝心の庁舎の正面を撮った写真がないから、中華街へと歩いて行ってしまって、そのまま撮るのを忘れたのだろうか? 当日でなくても撮る機会はあったと思うが、縁がなかったというしかない。『週刊 横濱80’s>加賀町警察署』 で、1981年撮影の素晴らしい写真が見られるのでご覧いただきたい。
『かながわの近代建築』(河合正一著、神奈川合同出版、かもめ文庫、昭和58年、630円)によると、写真の建物は1926(大正15)年5月の竣工、開庁式は6月10日。RC3階建、設計者は不明、施工は清水組。横から見た感じは、震災復興期の電話局の建物にありそうな外観だ。「昭和20年5月の大空襲で四周は灰燼に帰したが、この建物は書庫を失った外は存続した」。戦後は「進駐米軍の横浜地区MP本部が置かれ、左右翼をそれぞれが使い分けて共用した」という。



加賀町警察署。1987(昭和62)年8月9日

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日東倉庫日本大通倉庫。神奈川県横浜区中区日本大通14。1987(昭和62)年8月9日

三井物産横浜ビル」の裏にあった、その倉庫。三井物産ビル(現・KN日本大通ビル)と同じ遠藤於菟の設計で1年早い明治43年の建築。『日本近代建築総覧』では「日東倉庫日本大通倉庫(旧三井物産倉庫)、建築年=明治43年、構造=煉瓦造3階建、設計=遠藤於菟、施工=直営、備考=リンテル独立柱,屋根スラブがRC,地下1階,○(おすすめ品)」。
三井物産横浜ビルは日本で最初の鉄筋コンクリート造のオフィスビルとして、建築史の面で重要な建物で、それと一体で建てられた倉庫も、やはり建築史上で重要である。また、横浜の歴史を語るのに、生糸貿易ははずせないわけで、その具体的な形で残っていた倉庫は歴史的な面でも価値があった。
三井物産>会社情報>あゆみ>馬越恭平』に倉庫から馬車で生糸を運び出している写真が載っている。キャプションは「馬越恭平は旧三井物産横浜支店長として、生糸の輸出に尽力した。横浜支店での生糸の出荷作業」。



日東倉庫日本大通倉庫。2002(平成12)年1月14日

はまれぽ.com>旧日東倉庫の歴史を探る!』によると、「日東倉庫株式会社」は1959(昭和34)年2月に、三井物産株式会社から倉庫営業部門を分離独立させた会社。2013(平成25)年に「ケン・コーポレーション株式会社」の所有に替わって、三井物産横浜ビルは同年10月に「KN日本大通ビル」と名称が変わった。ケン・コーポレーションは昭和47年に設立された不動産売買の会社。
2014年5月に生糸倉庫の解体が横浜市に通告され、8月に神奈川新聞で報じられてから保存活動が活発になったようだ。「旧三井物産横浜支店生糸倉庫を壊して欲しくない人々の会」や日本建築学会、横浜市の働きかけは無視されて、2014年11月から翌年にかけて倉庫は取り壊された。現在は時間貸しの駐車場だ。そうなると当然三井物産横浜ビルのほうも取り壊しになるのではないかと心配になる。

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神奈川県産業組合館。神奈川県横浜市中区海岸通1-2。1991(平成3)年7月28日

横浜市記者発表資料』(旧神奈川県産業組合館を横浜市歴史的建造物として認定することになり、横浜市都市整備局都市デザイン室が平成 25 年 1 月に作成したその発表資料)によると、「旧神奈川県産業組合館」は、「神奈川県産業組合」(現在の農協(JA)の前身)の本部事務所として、1938(昭和13)年に建てられ、最近まで「神奈川県中央農業会館別館」として使われてきた建物。設計・施工は清水組、RC造3階建(一部地下1階)。
写真では「神奈川信用農協」の袖看板で、玄関上の文字は右から書きで「神奈川縣産業組合館」らしい。『はまれぽ.com>…旧神奈川産業組合館とは?』に竣工当時のビルの写真が載っている。そこに写っている文字のままである。2002年に撮った写真では、この文字は削り取られている。また、パラペットの穴が塞がれている。
同サイトによると、後ろの5階建てのビルは1961(昭和35)年に建った「神奈川県中央農業会館」。現在は2棟のビルが「JAグループ神奈川ビル」として建て替わった。2012(平成24)年8月に着工し、2014(平成26)年5月に竣工。2012(平成24)年6月に「旧神奈川県産業組合館」を歴史的建造物として保存・復元するように横浜市から要請があり、2013(平成25)年1月に横浜市の定める歴史的建造物として認定された。「JAグループ神奈川ビル」の一部として外壁などを保存・復元され、中は建物の歴史を伝える「JAギャラリー」となっているそうだ。



神奈川県産業組合館。2000(平成12)年7月9日

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横浜銀行協会。神奈川県横浜市中区本町3-28。1987(昭和62)年8月9日

1936(昭和11)年竣工、RC造4階地下1階、設計は大熊喜邦と林豪蔵、施工は清水組。
『かながわの近代建築』(河合正一著、神奈川合同出版、かもめ文庫、昭和58年、630円)によると、外観の特徴として「鉄筋コンクリートの表面は、擬石盲(めくら)目地仕上げで、テラカッタの装飾が豊富に用いられている。テラカッタのデザインは極めて入念、多様、彫りの深い華麗なもので、全国でもこれほどのものは多く見られない。正面は7本の列柱が組み込まれ、狭い柱頭飾りが取り付けられている。玄関車寄せは単純な構成であるが、巧みなデザインである。大通りに続く側面の取り扱いはやや異なるが、二条の窓を落とし込んだ縦溝と同じく三条の縦溝が強いアクセントをつけており、三条の部分の上には、三角形の飾りが取り付けられて側面の構成として完璧である」としている。
大熊喜邦(おおくま・よしくに、1877-1952年)は国会議事堂の建設を統括した建築家。『ウィキペディア』には「1907年(明治40年)、大蔵省臨時建築部技師に就任し、各国の議事堂建築の調査や、議事堂建設予定地の敷地調査にあたる。一貫して官庁営繕に従事したが、最大のものが1920年に着工した国会議事堂である。計画は矢橋賢吉のもとでまとめられたが、実質的に設計に当った人物として、一般に大熊と吉武東里の名が挙げられる。1927年、議事堂上棟式が終った直後に矢橋が急逝。以後は大熊が大蔵省営繕管財局工務部長に就任し、営繕組織を率いて建設を進めた」とある。
林豪蔵(1897~1975)は永く横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)教授を務めた人で、大熊の娘婿。『かながわの近代建築』には「前者(大熊)はむしろ名前を貸した程度で、実質的には林豪蔵の数少い作品の一つで傑作である」としている。


横浜銀行協会、裏側
2002(平成12)年1月14日

横浜銀行協会は関東大震災で被害を受けた「横浜銀行集会所」を建て直したものだ。旧建物は1905(明治38)年に遠藤於菟の設計の、セセッシオン風の当時としては斬新なデザインが有名になった建物だ。昭和11年に建ったビルも横浜銀行集会所の名称だった。
戦後は米軍に接収されて、将校クラブとして使われた。昭和28年に返還されたときに「横浜銀行協会」「横浜銀行倶楽部」の表札を揚げた。
4階は昭和40年の増築によるもの。『かながわの近代建築』には「昭和40年10月には、四階が創和建築設計の手で増築されたが、同社の吉原慎一郎社長は、原設計者林豪蔵の意を体して、銅板葺きの庇面とともに、創建時のままかと思われるほど巧みにまとめ上げている。この部分には、横浜手形交換所が置かれている」とある。
この建物を横浜でのアール・デコ建築の代表のように言われることがある。直線で構成されたデザインがアール・デコと結びつくわけだが、ぼくはあまりピンとこない。建物の上部に多く施されたテラコッタの装飾の扱いは、オットー・ワグナーのそれを連想させる。そうするとセセッシオン? なんだかむしろ離れてしまったかもしれない。

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