私が少年時代から青年時代を過ごした実家は、JR岐阜駅のすぐ南にある。
そこから数分東に進むとそのJRの東海道線、高山線と名古屋鉄道のいわゆる名鉄本線(岐阜/豊橋間)がクロスするところがある。
今は地上を車が走り、その上を名鉄が走り、さらにその上をJRが走っているが、これは岐阜市南部の人たちの長年の悲願であったJRの高架化が1997年に実現した結果である。その前は、JRは平地を走り、名鉄はその上を走っていたが、この付近にあったけっこう交通量の多かった踏切りは貨物列車の編成作業などもあって、開かずの踏切りとして知られていて、人も車もいつも長い間待たされた箇所である。
電車を見るのが単純に好きな「ゆる鉄」の私は、その頃からここで東海道線を走る国鉄列車と名鉄電車のコラボを見るのが好きだった。
とにかく電車が好きだ。ウィーンヘいった折にも、その真っ赤なトラムに乗りたくて、ホテルからわざわざ二駅分歩いてそれに乗ったのはいいけれど、降りる段に、どこでどう運賃を払っていいかわからなくて、乗客(老人が多かった)に向かってコインをかざして「どこ?」と身振りで訊いたが、みんなこぞって、いいから降りろ降りろとの手振り身振り。おかげで、オーストリアには未だに借金がある。
先般、岐阜駅の構内に用があった際、久々にこのポイントに来てみた。これらの写真はその際、約20分ほどの定点観測の結果である。JR線は、高架で高さもあるため、一番南側を走るものしか捉えることはできなかった。
下が一般道路、その上に名鉄、最上階はJRの三層構造
名鉄線は、5種類の異なる電車を捉えることができたと思う。殆どの車両に乗ったことがあるが、今回、初めて、お、と思った車両もあった。今度、乗る機会があったらこれに乗ってみたいものだ。
この名鉄線のガードを支えるレンガと石積みは戦前からのもの
日本中、どこの電車もとてもカラフルになった。これはいいことだ。私がものごころついた頃(戦中戦後)から1950年代まで、鉄道電車は国鉄も私鉄もほとんどくすんだ茶色か草色(日本色でいう御召茶色)だった。そしてそれらの色は、私には「戦時の色」として記憶されている。
だから、全国のJR、私鉄がこぞってカラフルであることは平和のありようともいえる。
これらが、「国防色」に一元化されないよう祈りつつ、私の「ゆる鉄」は続く。
最上階をJR東海道線の電車が駆け抜けた
そう、インターシティを快適な電車が結び、都市の路面を装いを凝らしたカラフルなトラムが走る、これは「ゆる鉄少年」の夢であり、かつ平和の象徴なのだ。
原爆投下後のヒロシマで、最初に動いた市街電車は、わずか数日後、徴用された女学生たちに依って、運転も運営も確保されたというエピソードを思い起こし、その少女たちを密かに恋している私なのだ。