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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

図書館へ 珍しく美術関連書も借りる

2015-10-17 23:49:35 | 日記
 県立図書館へ。まず読了したミラン・クンデラの最新訳小説、『無意味の祝祭』と韓国の思想家、李珍景の『不穏なるものたちの存在論』を返却。
 前者は、一見、無意味なモノたちが、それでも無価値や全き無ではなく、どうしようもなくマテリアルに炙りだしてしまう「意味」のようなものが描かれている。エピソードとしては「スターリンと24羽のヤマウズラ」をめぐる話がおもしろかった。
 
 後者は、題名通り、「不穏なるものたち」を介して、存在、ないしは存在するということに迫ろうとするもの。クンデラの「無意味」とはやや違って、こちらは曖昧模糊としてその正体がよくわからないままに、私たちを不安にさせたり落ち着かせないものたちが主題。
 「存在論」の名の通り、ハイデガーなどを意識してはいるが、存在論という哲学のうちでももっとも抽象的で難解と思われる分野が、こんなに具体的に今日的、かつ政治的なテーマに結びついてしまっていいのかと驚くような展開がある。しかしながら、それがこの著の真骨頂といえる。
 この韓国の思想家の論じる範囲はとても広く、しかも、今日的課題に肉薄したものといえる。ほかにも好著があるようだから、もっと翻訳されてもいいのではないか。雑誌掲載の論文以外、単著としてはこれが最初の翻訳だという。

              

 返却のあと、いつもの様に新着図書のコーナーに足を運んだら、いきなり、『戦争画リターンズ 藤田嗣治とアッツ島の花々』(平山周吉 芸術新聞社)が目に飛び込んできて、迷わずゲット。
 ちょうど15日前の2日に、この図書館に隣接する県立美術館で、「小さな藤田嗣治展 レオナール・フジタからの贈り物」(11月1日まで)を観たばかりだったのだ。
 その際、彼のいわゆる「戦争画」責任事件(そのため彼は追われるように日本を離れた)が頭にあり、その追及型の非難のみでは検証しきれない問題があったのではないかとの思いがつきまとっていたので、この書は渡りに船のように思えたのだった。
 付け加えるなら、その美術展を観た日は、私にとってとても楽しい一日だったので、その余韻を噛みしめる意味もある。

           
                藤田嗣治「アッツ島玉砕」


 もう一冊は、ハンナ・アーレントの『カント政治哲学講義録』(訳:仲正昌樹 明月堂書店)で、これは私がアーレントに触れ始めたかなり早い時期に一度読んだのだが、どうも、時期が早すぎて消化不良の向きがあるので再読しようと思ったのだった。
 というのは、この書は、第一部「思考」、第二部「意志」まで書かれたところで彼女の死亡によって中断された遺作の大著、『精神の生活』の第三部「判断」になる予定の部分で、いわば彼女の最後の最後の文章であるにもかかわらず、まだ入門段階だった私がそれに飛びついたのだったから消化不良は避けがたいものだったといえる。
 これを読み終えたら、『精神の生活』(これも既読だがやはり消化不良)の方にも再チャレンジして見ようと思う。

 もう一冊借りた。『ジェンダー・トラブル』などの著作があるジュディス・バトラーとマルクス主義やフェミニズム、ポストコロニアル批評の脱構築的読解を行っているガヤトリ・スピヴァクの対談『国家を歌うものは誰か? グローバル・ステイトにおける言語、政治、帰属』(訳:竹村和子 岩波書店)で、パラパラっとみた範囲でもかなり刺激的なようである。
 ここにもまた、アーレントを対象にしたかなりの対話があるようだ。

 うちにもまだ、私が手を付けるのを待っている本が何冊かある。
 時間が足りない。といいながらも随分無駄な過ごし方もしていて、とても読書三昧とはいえない。
 なんでこんなに移り気なのだろう。
 もう、そろそろ落ち着いてもいい年頃なのではないのかい(←自分)。

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