10月10日、地域の人達と大垣市の綾野地区に伝わる綾野祭りにでかけた。
ここの祭りの呼び物は、江戸の末期から伝わる五基の山車(正式には車偏に山 ATOKでもGoogleでも、また手書き文字パレットでも出てこない)が残っていることで、いずれも岐阜県指定の重要有形文化財に指定されている。
大垣市のそのまたさほど広くない地域に、五基もの、しかも年代物の山車が残っていることは驚嘆すべきことであるが、それには、地域ぐるみの聞くも涙、語るも涙の話があると地域の世話役の長老に伺った。それはまた後で述べる。
さて各地域で午前中に飾り付けを終えた山車は、午後一時から集落内を巡行してまわるという。そしてまたそれは祭りのパンフにもそう記されている。
それを楽しみにしていたのだが一向にそれらしい気配はない。
私たちはある山が蔵から引き出され、据えられているところにいたのだがそれも動き出す気配はない。そこでその山の差配をしているような長老に、「巡行はしないのですか」と尋ねた。
すると彼いわく、「以前はそうしていたのだが、今は交通事情からして車が通れないというクレームが来て、巡行できない」とのこと。
そういわれれば、集落内の道路は中型車がやっと通れるぐらいで曲がりくねっていて、むかしのままなのだ。この狭い地域を五基の山車が巡行したら、車は通れないだろう。
それでも、最近までは、祭りのためならと集落全体が耐えていたのだが、現今は祭りなどわれ関せずという人もいて、クレームが増えたのだろう。ちょっと寂しい話ではある。
巡行しないということなので、ついでにその長老にいろいろ話を聞いた。
私の疑問は、江戸時代からという割には見て回った山車のどれもがそうした古さを感じさせず、新造のもののような輝きをはなっていることであった。それについての話がちょっと触れた地域ぐるみの感動物語だったのだ。
この地区は西濃の輪中のなかで、時折、杭瀬川の反乱に悩まされてきたところだ。そういえば、今でもこの集落のちょっと低い箇所の家は石垣の上に建っている。そこで昔は、祭りが終わると山車をバラして、集落の二階家に収納したというのだ。
これがまず、水との闘いである。
ついであの戦争である。もちろん、祭りどころではない。それどころか、各地で伝統のある山車が焼失したと話が伝わり、この集落は分解したものの疎開などあらゆる手をつくしてこれを守ろうとした。
これが火との戦いである。
上を新幹線が・・・
こうしてばらばらにされたものがやっと再び形をなしたのは戦後の昭和二〇年代の終わりごろであったという。それでも、失われた部分はかなりあり、修復は並大抵ではなかったという。もちろん経費もだ。
これらの山車が江戸時代から続くものであることが認められ、県の重要有形文化財に指定され、補助金が出ることになった。それをもとに、残っていた図面などを参考に、近隣の宮大工や仏具屋を総動員してやっと今日の姿を取り戻すことができたというのだ。
しかし、将来にはまだまだ問題がある。先程、ちょっと触れた交通事情による巡行中止は寂しいものがある。そこへもってきて、後継者の問題がある。写真で見るように、子どもたちについては積極的な育成がまあまあの成果を挙げているようだが、青年層の参加が寂しいというのだ。
そんな話を聞いているうちに、三時が近づき、五基の山車が白鬚神社へ集結する時がやってきた。私たちが待機していたのは、神社に一番近い山車蔵で、ここで神社へと進む全部の山車を見ることができた。
山車の運行の見どころのひとつは、カーブを回るところだが、ここの山車はさほど重量がないとみえて、前輪を固定したまま、山車の後部を持ち上げてヨイショッと回る方式だ。
こうして縦に並んだ山車は、神社手前で勢揃いし、境内へ入る順番を待つ。ちょうどその辺りを新幹線が走っていて、江戸の文化の上を疾走するという面白いコラボが見られる。掲載した写真にもそれがある。
順次、神前に入った山車は、そこでその山車特有の奉納芸を披露する。オーソドックスな人形の舞いや、人間が獅子に変身するからくりもある。そしてこの地区特有の瓢箪鯰も見ものだ。これは翁が瓢箪で鯰を捕らえようとするもので、翁の瓢箪が振り下ろされる途端、鯰はひらりと反転して逃げまわる。この連続がいかにもユーモラスだ。
奉納芸を終えた山車は今度は境内に横一列に整列する。
こうして昼の部は終わり、あとは宵祭になる。
各山車に満艦飾の提灯が灯され、また芸が披露され、人間の舞いなども加わるようだ。
「ようだ」といったのは昼の部が終わったところで帰途についたからだ。
養老鉄道の西大垣駅から綾野地区まで歩いたのと、集落内をほっつき歩いたのとで、歩行数は15,000歩、約八キロを歩いたことを示していた。
しかし、ちょっとのんびり、日常とは違う世界で遊んだこともあって、さほどの疲れは感じなかった。
写真を整理しながら、改めて長老から聞いた話を反芻するのだった。
*このお祭りの公式HPは以下にあります。
http://www.ogakikanko.jp/event/ayanomaturi/#menu02
ここの祭りの呼び物は、江戸の末期から伝わる五基の山車(正式には車偏に山 ATOKでもGoogleでも、また手書き文字パレットでも出てこない)が残っていることで、いずれも岐阜県指定の重要有形文化財に指定されている。
大垣市のそのまたさほど広くない地域に、五基もの、しかも年代物の山車が残っていることは驚嘆すべきことであるが、それには、地域ぐるみの聞くも涙、語るも涙の話があると地域の世話役の長老に伺った。それはまた後で述べる。
さて各地域で午前中に飾り付けを終えた山車は、午後一時から集落内を巡行してまわるという。そしてまたそれは祭りのパンフにもそう記されている。
それを楽しみにしていたのだが一向にそれらしい気配はない。
私たちはある山が蔵から引き出され、据えられているところにいたのだがそれも動き出す気配はない。そこでその山の差配をしているような長老に、「巡行はしないのですか」と尋ねた。
すると彼いわく、「以前はそうしていたのだが、今は交通事情からして車が通れないというクレームが来て、巡行できない」とのこと。
そういわれれば、集落内の道路は中型車がやっと通れるぐらいで曲がりくねっていて、むかしのままなのだ。この狭い地域を五基の山車が巡行したら、車は通れないだろう。
それでも、最近までは、祭りのためならと集落全体が耐えていたのだが、現今は祭りなどわれ関せずという人もいて、クレームが増えたのだろう。ちょっと寂しい話ではある。
巡行しないということなので、ついでにその長老にいろいろ話を聞いた。
私の疑問は、江戸時代からという割には見て回った山車のどれもがそうした古さを感じさせず、新造のもののような輝きをはなっていることであった。それについての話がちょっと触れた地域ぐるみの感動物語だったのだ。
この地区は西濃の輪中のなかで、時折、杭瀬川の反乱に悩まされてきたところだ。そういえば、今でもこの集落のちょっと低い箇所の家は石垣の上に建っている。そこで昔は、祭りが終わると山車をバラして、集落の二階家に収納したというのだ。
これがまず、水との闘いである。
ついであの戦争である。もちろん、祭りどころではない。それどころか、各地で伝統のある山車が焼失したと話が伝わり、この集落は分解したものの疎開などあらゆる手をつくしてこれを守ろうとした。
これが火との戦いである。
上を新幹線が・・・
こうしてばらばらにされたものがやっと再び形をなしたのは戦後の昭和二〇年代の終わりごろであったという。それでも、失われた部分はかなりあり、修復は並大抵ではなかったという。もちろん経費もだ。
これらの山車が江戸時代から続くものであることが認められ、県の重要有形文化財に指定され、補助金が出ることになった。それをもとに、残っていた図面などを参考に、近隣の宮大工や仏具屋を総動員してやっと今日の姿を取り戻すことができたというのだ。
しかし、将来にはまだまだ問題がある。先程、ちょっと触れた交通事情による巡行中止は寂しいものがある。そこへもってきて、後継者の問題がある。写真で見るように、子どもたちについては積極的な育成がまあまあの成果を挙げているようだが、青年層の参加が寂しいというのだ。
そんな話を聞いているうちに、三時が近づき、五基の山車が白鬚神社へ集結する時がやってきた。私たちが待機していたのは、神社に一番近い山車蔵で、ここで神社へと進む全部の山車を見ることができた。
山車の運行の見どころのひとつは、カーブを回るところだが、ここの山車はさほど重量がないとみえて、前輪を固定したまま、山車の後部を持ち上げてヨイショッと回る方式だ。
こうして縦に並んだ山車は、神社手前で勢揃いし、境内へ入る順番を待つ。ちょうどその辺りを新幹線が走っていて、江戸の文化の上を疾走するという面白いコラボが見られる。掲載した写真にもそれがある。
順次、神前に入った山車は、そこでその山車特有の奉納芸を披露する。オーソドックスな人形の舞いや、人間が獅子に変身するからくりもある。そしてこの地区特有の瓢箪鯰も見ものだ。これは翁が瓢箪で鯰を捕らえようとするもので、翁の瓢箪が振り下ろされる途端、鯰はひらりと反転して逃げまわる。この連続がいかにもユーモラスだ。
奉納芸を終えた山車は今度は境内に横一列に整列する。
こうして昼の部は終わり、あとは宵祭になる。
各山車に満艦飾の提灯が灯され、また芸が披露され、人間の舞いなども加わるようだ。
「ようだ」といったのは昼の部が終わったところで帰途についたからだ。
養老鉄道の西大垣駅から綾野地区まで歩いたのと、集落内をほっつき歩いたのとで、歩行数は15,000歩、約八キロを歩いたことを示していた。
しかし、ちょっとのんびり、日常とは違う世界で遊んだこともあって、さほどの疲れは感じなかった。
写真を整理しながら、改めて長老から聞いた話を反芻するのだった。
*このお祭りの公式HPは以下にあります。
http://www.ogakikanko.jp/event/ayanomaturi/#menu02
収穫を終えた田んぼ道を練り歩く山車と疾走する新幹線。
四季の伝統と現代時間が交差する面白い対比ですね。
それから山車の上から体を折り曲げ、懸命に手を延ばす着物姿の子供たち。
何を求めているのか、いろいろ考えます。
表情もいいし。私はこれがいちばん好きです。
それにしても、交通事情とクレームによる巡行中止。
ああ、ここでも。
巡行がないのはいかにも残念ですね。また宵祭までおいでになれなかったのがまたまた惜しい。
でも15000歩もお歩きになったのですからそれ以上はやはり無理することになりますね。
新幹線の乗客には思いがけないアトラクションだったことでしょう。こちらも楽しませていただきました。
子どもたちはお菓子をねだっていたのだと思います。役割を与えられて、杓子定規にそれに従うのではなく、極めて自然に振舞っているのがいかにも観光ずれしていない地域のお祭といった感じでした。
巡行は、五基のうち一基のみだったそうで、地域の人たちも残念がっていました。
祭りや運動会が騒音扱いされる時代になったのですから、神輿や山車もそうした人にとっては、交通妨害でしかないのでしょうね。
また、それらが集合する白鬚神社というのが農道から伸びた参道の先にぽつねんとある田んぼの中のまさに鎮守様といった風情でとても良いのです。周りに民家を含め、建物は何もありません。一番近い建造物が写真でもご覧になれるような新幹線という皮肉な風景なのです。あれは境内の鳥居付近から、こちらへやってくる山車を撮ったものです。
15,000歩は老齢の身にとっては確かに疲れましたが、楽しみを求めての徘徊でしたので、心地よいものが残りました。
宵宮までいることができなかたのは、家事の都合で主夫たるもの致し方なかったのです。
俳優の綾野 剛は、ここの出身?
上の記事、別のSNSに載せたところ、やはり女性の方から、全くおなじ質問を頂きました。
したがいまして、全く同じ返答をさせていただきます。
「綾野剛について、綾野地区との関連はよくわかりません。両親の在住は岐阜市で、父は繊維製品の卸業だったようですが、かつて一世を風靡した岐阜の繊維産業が衰退してゆく時期に倒産し、その後、父母が離婚したため母に育てられたようです。その母は、岐阜の柳ヶ瀬で今でもスナックのママさんをしているようですが、その店は知りません。
なお、毎年、正月に彼は、岐阜へ帰省し、母の店で過ごすのだということです」
ついでですが、そのSNSでは、まさにドンピシャリ、あの祭りの鯰山車で笛を吹いていて、子どもたちへもそれを教えているという男性から、丁重なお礼の言葉があり、やはり、集落内の巡行ができなくなったことをとても嘆いていました。
ただし、五基の山車のうち、彼の乗る鯰山車のみは巡行を決行したとのことでした。拍手です。
伝統行事が、騒音や交通妨害扱いされる効率重視社会ってなんてギスギスしたものかと改めて思い知らされました。