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【緊急レビュー】『いのちか原発か』を読む

2012-04-06 03:26:23 | 書評
 野田内閣がついに福井県の大飯原発の再稼働にゴーサインを出したようです。フクシマのちゃんとした検証も終わっていない段階で、暴挙という他はありません。
 
 これに関わる本をつい最近読みました。
 対談をまとめたものです。
 対談の一方は、原発事故以来、さまざまな情報が隠蔽され、御用学者による虚報のみが垂れ流されるなかで、何が起こっているのかを冷静に私たちに示してくれた京大原子炉研究所の小出裕章氏です。その後の事態の推移は、ほぼ小出氏のもたらした情報通りといっていいでしょう。

 対談のもう一方は、「海のある奈良」といわれるほど古刹、名刹が多い小浜で、本堂と三重塔が国宝という真言宗明通寺の住職、中嶌哲演氏です。
 この取り合せは、一方は最先端の科学者、一方は伝統的な宗派の仏教者ということですが、また、原子炉の基礎的な研究者と、それを応用した原発設置地点の住民というコントラストをも示しています。
 そしてその共通点は、1970年代の前半、日本各地に原発が設置され始めるころから、40年以上にわたって「反原発」を主張してきたということです。

 小出氏はこの間つとに名を上げてきましたので、ご存知の人も多いでしょうから、ここは中嶌師が地域と関わるなかで明らかになったことについて述べてみましょう。
 これにはもうひとつの理由があります。それは、先に見た小浜市こそまさに大飯原発の地元であり、その再稼働に抗議して中嶌師はつい先般、福井県庁に座り込む活動をしていたからです。

          

 福井県はよく原発銀座などといわれたりします。それは「もんじゅ」や「ふげん」(この殺人装置に文殊菩薩や普賢菩薩の名を冠することに仏教者の中嶌師は激しく抗議しています)を含め15基の原発を擁しているからです。
 しかし、それを詳しく見ると事態はそんなに単純なものではありません。
 福井県は嶺北(旧国名では越前)と嶺南(若狭)に分かれているのですが、15基の原発のすべてが嶺南にあるのです。これは立地条件というより、経済的な生産性などの地域格差にあります。
 先に中嶌師は、原発設置の地元だといいました。しかし、小浜には原発はありません。これは40年にわたる中嶌師らの運動が功を奏して、小浜市が原発誘致を断念したからです。

 しかし、とんでもないことが起こりました。
 小浜湾に突き出た半島の先っぽに、4基もの原発が作られたのです。たしかにそこは行政的には小浜市ではありません。しかし、これにより小浜市民の70%が原発の半径10キロ以内に包摂されることになってしまったのです。そしてこれこそが、再稼働ゴーサインが出た大飯原発なのです。

 なぜこんなことが生じたのでしょう。小浜は拒否し得たのに大飯が受け入れたのは、半島の集落で道路などのインフラ整備が小浜市よりもはるかに遅れていたからです。これは先に見た、嶺北ー嶺南の差異と同じ構造です。
 
 ようするに電力は、貧しい地帯に目をつけ、まずその地域のボスを接待漬けなどにして篭絡し、地域のインフラ整備の要求に乗る素振りで公民館や小公園を寄贈し、さらに大きなお土産があることを示唆してその地域全体をお金をねだる体質に染め上げてゆくのです。
 そして頃合いを見て原発設置を承認させるのです。
 これはヤクザが、まずはちょっとした快楽への欲望に付け入ってシャブを経験させ、次第にシャブ漬けにすることによって自分の資金源にする手口とまったく一緒です。

 しかし、それをもって現地の人達を責めることができるでしょうか。
 先に見たようにそこには地域そのものの貧困化が横たわっているのです。電力はそこに目をつけ原発を推し進めてきたのです。
 ようするに原発はこうした地域差別を利用し、そこへと危険を押し付けることによってさらにその差別を増幅するのです。

 その差別の構造は、そこでできた電力を誰が利用するかにも関わります。
 福井県の原発(もんじゅやふげんを除く)の13基のうち、実に11基が関西電力に所属し、その電力は全て関西へと送られるのです。その結果、関西地方の電力の実に60%は福井の嶺南地方の原発によって生み出されるのです。
 ようするに、福井の嶺南の、そのまた貧しい地域が負う危険の上に関西の産業や煌々たる不夜城の都市が君臨しているのです。
 かくして原発は、幾重にも折り重ねられた差別の構造の上になり立ち、それを日々増幅しつつあるのです。

 この書は、直接それを声高に語るのではなく、二人の日常的な実践が平易に述べられています。したがって上に述べたようなことは、中嶌師の淡々と語る現地の事情から私が読み取ったものです。
 小浜は、私がよく訪れたところで、懐かしい地名もたくさん出てきます。

 なお、小出氏についてはあまり触れませんでしたが、ただ一点、これは知っておいていいでしょう。
 というのは、フクシマは決して想定外の事故ではなく、まともな研究者はそれの起こりうることを知っていたということです。にもかかわらずその発言は事実上封じられてきました。
 それのみではありません。政官財ともに誰も「安全神話」など信じてはいなくて、事故を想定した措置をあらかじめ決めていたのです。

 以上はこの書の一端に過ぎません。その他、眼から鱗の事実がかなりあります。そして何よりも、昨日今日ではなく、40年以上前から反原発を貫いてきた二人の生きざまや立脚点に根ざした対話の迫力があります。

 大飯の原発再稼働を許すかどうかは、反原発の正念場になると思います。
 それは今後とも差別の構造を貧しい地域に押し付け続けることとなるのです。
 
  『いのちか原発か』小出裕章?中嶌哲演 (風媒社)1,200円+税

 






コメント (6)
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