六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

石原さんちの都銀って? そして、Qちゃん。

2008-03-11 10:47:52 | 川柳日記
    久々に川柳の登場です。
        題して「太陽の季節の黄昏」でしょうか。

            


        たこ足で足りず都税を食い散らす
        責任を転嫁してまた注ぐ税
        この銀行一体誰のためのもの
        勲章のつもりで作り大やけど 
        撤退を考えもせぬ老いの意地

     
        石原や浜の真砂は尽きるとも
           世に言い訳の種は尽きまじ


 

 そいでもって全く関係なくQちゃんの話です。

 高橋尚子さんは私の高校の後輩にあたります。
 先輩・後輩とか母校意識の希薄な私ですが、尚子さんは素直に応援していました。オリンピック優勝後の同窓会では、ミーハーよろしく握手をして貰いました。

 喜びも悲しみも、変に増幅された感情に流されないで、からっとして受け止めている彼女を好ましく思います。

 名古屋国際マラソンは、所用のため実況を見ることはできませんでした。今となってはそれがよかったと思います。
 あの彼女の痛ましい様子を見ていたら、いくら彼女がからっとしていても、こちらが泣けそうになったかも知れません。

 大輪の花が散りゆく様に立ち会っている感があります。

        駆け抜けよ花散る里に至るまで

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「もっと光を!」でしょうか? 

2008-03-09 03:43:41 | よしなしごと
 私たちは光のないところではものを見ることはできません。
 心眼で見る?私にはとてもそんなことは出来ませんが、出来る方は「どうぞ」というほかありません。
 心で見るといっても、それは光のもとでものを見ることを前提とした比喩にしか過ぎないのではと思うのですが、そうばかりでもないようです。

 

 ただし、この心でものを見るといういい方は、東洋ないしは日本でのいい方と西洋でのいい方とでは少なからず異なるように思います。

 日本でのいわゆる心眼は、感覚を越えた感覚、水明の域に入った研ぎ澄まされた超感覚のようなものを意味しています。ですから剣の達人は、後ろから音もなく忍び寄る敵を容易に迎撃する事が出来るのです。
 このように感覚という物質的な領域を越えてしまった心眼というものは、どこか神秘的であります。

 一方、西洋では、心でものを見るという事は、理性の光のうちで見るということのようで、やはり感覚を越えて見えることを意味しますが、そのベクトルは先に見た日本の超感覚とは逆のように思われます。いってみれば、紫外線と赤外線に似た違いがあるようです。

     

 ところで、現実の光の方はどうでしょうか。
 一般的にいえば光が多ければ多いほど物事はよく見えるという事で、事実ある程度まではそうなのですが、しかしそれも限度を超えるとそうばかりでもありません。
 光の過剰は、時として私たちの目を眩ませ、見えなくさせてしまうのです。太陽を直視したり、そこへとレンズを向ける者は、イカロスがそうであったように、その光そのものによって目を焼き尽くされる事すらあるのです。

     

 いわゆる心眼においても、これは同様ではないでしょうか。
 研ぎ澄まされた感覚の光という比喩は、神秘へと至るといいましたが、さらにはそれはある種の狂気へと連続するともいえないでしょうか。
 一方、理性の光という比喩は一見、合理的でありながら、やはりその過剰においては狂気へと通じるのではないでしょうか。パラノイックな終始一貫への因果律的執着として・・。
 そしてここでは、一見、逆のベクトルである神秘と合理主義が繋がってしまうということが起こるように思うのです。

     

 こうして、心眼においての最先端は、ともに光の過剰として、かえって見えなくなったり、あるいは、ゴースト(写真などで正体不明の光が写る事)としての虚像を生じさせたりするのではないでしょうか。

 幸い、私は心眼とは縁がない凡庸な視野しかもっていませんので、そうした過剰な光の比喩からは免れていますが、写真の世界では時折過剰な光へとレンズを向ける事があります。そうするとホラ、ここに掲げたものたちのようによく見えなかったり、あるいは余分なゴーストが現れたりするのです。

 

 ところで、写真の世界では、光の過剰へと向けられたレンズは、同時に被写体での光の不足としていわゆる逆光になります。これは私のような初心者が犯しやすいミスですが、どうしてそんな事が起きるかというと、人間の目はある種の補正作用をもっていて、逆光でも見えるようにしてしまうので、その逆光に気付かずシャッターを押してしまうからです。

 ということは、工学レンズの精密さや心眼の摩訶不思議な力よりも、自然な眼差しの方がいいのではないかと、私のような凡庸な視野や視線しか持ち得ない者は、自分の立場を合理化してしまうのです。
 そして臆病にも決意するのです。過剰な光への挑戦は、写真の世界だけにしておこうと。





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すぎたるは及ばざりしか春の菜園

2008-03-06 17:49:50 | よしなしごと
 近くの菜園にオバケがいるというので、さっそくカメラを持って出かけてみました。
 いた、いた。いましたよ。
 
     

 最初はこの巨大大根、通常のもののゆうに数倍はありそうです。
 
 

 これが通常のものです。
 一緒に撮れなかったのが残念だが、葉っぱのボリュームを比べていただくと前者がいかに大きいかが分かるのではないでしょうか。

 

 ついで、この黄色い泡だったようなもの。この黄色い部分を、緑色として想像していただくと分かるでしょう。
 そうなのです、取り残され巨大化し、今まさに花になろうとするカリフラワーなのです。
 もしかしたら、採種用に残されたのかも知れません。

 

 ついで巨大菜の花なのですが、お馬鹿な私は比較するものと一緒に撮らなかったので、これだけではその大きさが分かりませんよね。優に身の丈二メートルは越えていたといっておきましょう。

 いずれもその巨大さに圧倒されました。「過ぎたるは及ばざるが如し」で、いずれも食用としてはオーバータイムといったところでしょうか。
 
 

 帰りに路傍に咲く普通のタンポポを観てホッとしたものです。


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誠の道は恋人か女房の道?

2008-03-03 18:17:53 | 音楽を聴く
 あるところで、モーツアルトについての発表をしなければならないので、例によって付け焼き刃的な勉強をはじめているのですが、いろいろ読み漁っているうちに、面白いものに遭遇しました。
 
 それはモーツアルト学の権威、海老沢敏氏の「日本のモーツアルト受容」という論文(『進化するモーツアルト』樋口隆一編・著 所収 春秋社刊)に書かれているのですが、おそらく、彼の楽曲の最初の演奏は、1865年9月30日(維新前)に横浜で行われた英国の軍楽隊による歌劇、『魔笛』の序曲だとの事です。

 ここまではさもありなんといったところですが、ついで、モーツアルトの曲が広く一般に伝わった経緯に触れた箇所を読んでぶっ飛んでしまいました。

 明治政府の音楽教育の柱としての「音楽取調掛」(まるで麻薬取り締まりのような・・「掛」はそのまま)によって『小学唱歌集』が出されるのですが、その第三編に「誠は人の道」(里見義・作詞)としてモーツアルトの曲が採用されているというのです。
 その歌詞は以下のようなものです。

    まことは人の道ぞかし
    つゆなそむきそそのみちに
    こころはかみのたまものぞ
    露なけがしそそのたまを

 要するに、「誠は人の道であるから露ほども背いてはならない、心は神からの賜だから露ほども汚してはならない」という事です。
 この歌詞の意味からして、モーツアルトの作った多くのミサ曲か何かから採ったのだろうと最初は思いました。

               

 しかし、ぶっ飛ぶのはここからなのです。
 なんとこのメロディ、モーツアルトの晩年の歌劇『魔笛』(K620)に登場するパパゲーノの第二幕のアリアとして作曲されたもので、その曲名は「恋人か女房がいれば」というものなのです。
 その歌詞(ほぼ直訳)を以下に掲げてみます。


 恋人か女房がいれば

  彼女か女房を パパゲーノは欲しいんだ
  ああ そんな気立てのいい可愛い娘がいたら 
  まさにこのうえない幸せよ

  そうなりゃ飲み食い みなおいしくて 
  王様とだって肩を並べられるだろうさ
  人生を賢い人間として楽しみ まるで天国にいるようだろう

  彼女ひとりか女房ひとり おれの欲しいのはこれだけさ
  優しい小鳩がいてくれりゃ まさに幸せそのものよ

  ああ 誰も好いてはくれんのか 魅力的な娘たちの誰にも?
  どうか誰か この苦境から助けておくれ 
  さもないと本当に死ぬほどうらむぞ

  娘っ子か可愛い女房がひとり パパゲーノは欲しいんだ
  ああ やさしい小鳩がいてくれりゃ おれはまったく大喜びさ

  誰も俺を愛してくれないなら わが身をこがして死ぬまでよ
  それでも女性のくちびるがキスしてくれたら 
  そうしたら俺はきっとまた元気になるさ

            

 思わず目眩がするような落差ではありませんか。
『魔笛』というオペラは多様性に富んでいて様々な解釈が可能なのですが、上の歌に関する限り、「恋人か女房が欲しい」とズバリ請い願う歌ですし、パパゲーノという人物像自体が、このオペラではエロスや生への謳歌に満ちた側にいるといって良いのです。要するに快楽主義者なのです。
 このパパゲーノの快楽追求からモラルの枠がとれて、よりポジティブになると『ドン・ジョバンニ』に至るかも知れません。
 それが「誠の人の道」として唱われてしまうのです。

 ここに、日本における外来文化のハチャメチャな摂取の様相を見て取る事は易いようにも見えます。
 しかし、海老沢氏は公正にも、こうしたちぐはぐな現象は日本に限らず欧米にもあった事であり、むしろ、そうした現象そのものの輸入がこの曲の摂取の仕方なのだと指摘しています。

<photo src="10584626:2193518976:l">

 だとすると、こうしたパターンとは一体何なのでしょうか。
 多分これは、近代国民国家の形成の時期にあたり、国民の啓蒙のためには各国ともに、なんでもかでも利用したという痕跡なのではないでしょうか。
 なんでもかでもといいましたが、歌となるとやはり唱いやすく親しみやすいメロディがふさわしいと思われます。そこで、『魔笛』の中でももっとも唱いやすく親しみやすいこのアリアが登場したのでしょう。

 こうした内容と歌詞のちぐはぐさにつては、先頃、1)海外進出へのアジテーションと、2)軍隊内の歩兵の本領と、3)革命への決起を呼びかける歌とが同じメロディで唱われる「歌のリサイクル」という小文にまとめておきましたので参照してみて下さい。

 http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080208

 なお、先に見た「誠は人の道」には、さすがに、モーツアルト作曲とは明記されていなかったということです。

            

 ここまで書いて思い出したのですが、何も明治まで遡らなくとも、私自身、中学時代に音楽の時間に似た体験をしています。
 詳しくは忘れましたが、それは「夏の海」とか「浜辺」の歌で、原曲はヴェルディのオペラ、『リゴレット』の中のもっとも有名なアリア、「女心の歌」だったのです。
 そうです、あの、「風の中の羽根のように いつも変わる女心・・・」という歌なのです。

 私は当時、それを知っていました。多分、ラジオで聴いた田谷力三の浅草オペラ時代の歌を知っていたからです。
 ですから、音楽の時間にもし指名されたら、「夏の海がなんたら・・」という歌詞ではなく、「女心」の方で唱ってやろうと密かに思っていました。
 それが実現しなかったのは、指名されなかったのか、それとも私の日和見のせいだったのか、今となってはもう思い出す事が出来ません。
 

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【写すものが写る】

2008-03-01 02:12:10 | よしなしごと
 写真を撮していて、何か反射するものに向かってシャッターを押すと、自分の姿が写る事があります。
 
 最近、「さんこの日記」という私の友人が飼っている猫の日記を掲載したブログを見ていたら(これって分かります?猫が日記を書いているのですよ)、その飼い主である「おばママ」という人がポルトガルへ旅行した際に撮した写真に、撮し手の陰がクッキリ写っているのを見つけて、そういえば、私の過去に撮した写真の中にも同様なものがあって、これは載せられないなぁとボツにした事を思い出しました。

 でも、考えてみれば撮る者が撮られているというのも面白いではないかと考え直し、敢えてそれらを掲載してみようと思います。
 まあ、考えてみたら、見る者は同時に見られているのですから、そうした双方向性を反省する上でも、面白いかも知れませんね。

 

 最初はエスカレーターの上部が鏡になっているところです。
 カメラを構えた私がばっちり写っています。

 

 次は、窓の向こうがごちゃごちゃした工事現場というところを撮したものです。
 一番大きく写っているのが私で、片足を上げてまるで「シェー」をしているように見えますが、それは光の反射や屈折のいたずらです。

     

 これは意識的に自分の陰を撮ったものです。ちょうどアングルからいって大魔神のように写るのです。
 最初に書いた「さんこの日記」のところの「おばママ」も、大魔神になっていました。

 

 最後は洗面所を撮ったものですが、カメラと腕だけで私は逃げています。
 トイレの盗撮ではありませんよ。前に、「トイレの考現学」というシリーズで様々なトイレを紹介した折の一枚です。

  さて、私にお会いになった事がない皆さん(ほとんどの方がそうですが)、私に対してどんなイメージをお持ちになったでしょうか。

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