写真を撮していて、何か反射するものに向かってシャッターを押すと、自分の姿が写る事があります。
最近、「さんこの日記」という私の友人が飼っている猫の日記を掲載したブログを見ていたら(これって分かります?猫が日記を書いているのですよ)、その飼い主である「おばママ」という人がポルトガルへ旅行した際に撮した写真に、撮し手の陰がクッキリ写っているのを見つけて、そういえば、私の過去に撮した写真の中にも同様なものがあって、これは載せられないなぁとボツにした事を思い出しました。
でも、考えてみれば撮る者が撮られているというのも面白いではないかと考え直し、敢えてそれらを掲載してみようと思います。
まあ、考えてみたら、見る者は同時に見られているのですから、そうした双方向性を反省する上でも、面白いかも知れませんね。
最初はエスカレーターの上部が鏡になっているところです。
カメラを構えた私がばっちり写っています。
次は、窓の向こうがごちゃごちゃした工事現場というところを撮したものです。
一番大きく写っているのが私で、片足を上げてまるで「シェー」をしているように見えますが、それは光の反射や屈折のいたずらです。
これは意識的に自分の陰を撮ったものです。ちょうどアングルからいって大魔神のように写るのです。
最初に書いた「さんこの日記」のところの「おばママ」も、大魔神になっていました。
最後は洗面所を撮ったものですが、カメラと腕だけで私は逃げています。
トイレの盗撮ではありませんよ。前に、「トイレの考現学」というシリーズで様々なトイレを紹介した折の一枚です。
さて、私にお会いになった事がない皆さん(ほとんどの方がそうですが)、私に対してどんなイメージをお持ちになったでしょうか。
最近、「さんこの日記」という私の友人が飼っている猫の日記を掲載したブログを見ていたら(これって分かります?猫が日記を書いているのですよ)、その飼い主である「おばママ」という人がポルトガルへ旅行した際に撮した写真に、撮し手の陰がクッキリ写っているのを見つけて、そういえば、私の過去に撮した写真の中にも同様なものがあって、これは載せられないなぁとボツにした事を思い出しました。
でも、考えてみれば撮る者が撮られているというのも面白いではないかと考え直し、敢えてそれらを掲載してみようと思います。
まあ、考えてみたら、見る者は同時に見られているのですから、そうした双方向性を反省する上でも、面白いかも知れませんね。
最初はエスカレーターの上部が鏡になっているところです。
カメラを構えた私がばっちり写っています。
次は、窓の向こうがごちゃごちゃした工事現場というところを撮したものです。
一番大きく写っているのが私で、片足を上げてまるで「シェー」をしているように見えますが、それは光の反射や屈折のいたずらです。
これは意識的に自分の陰を撮ったものです。ちょうどアングルからいって大魔神のように写るのです。
最初に書いた「さんこの日記」のところの「おばママ」も、大魔神になっていました。
最後は洗面所を撮ったものですが、カメラと腕だけで私は逃げています。
トイレの盗撮ではありませんよ。前に、「トイレの考現学」というシリーズで様々なトイレを紹介した折の一枚です。
さて、私にお会いになった事がない皆さん(ほとんどの方がそうですが)、私に対してどんなイメージをお持ちになったでしょうか。
>見る者は同時に見られているのですから、
「・・なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵もまたなんじを見入るのである」同時に、「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」という言葉が浮かんだりしました。事実であるといえば事実であったり、事実ではないといえば事実ではなかったり。でも事実は事実としてあるのだとも。・・・色即是空、空即是色でしょうか。
2枚目のお写真、以前に拝見したときは気づかなかったのですが、いわれてみれば「シェー」をしているようにも見えますね!
自分の影が写ってしまうのは、初心者のやることなのでしょうが、こういう風に、解釈して頂くと、何となく許されたような、市民権を得たような。
思いがけないものが、写ってしまった時の、面白さは、陶芸の火のまわりや、薬の溶け具合いの偶然がもたらす思ってもいなかった効果に、ほんの少し似ているのかな。なんて思ったりして。
興味深く読ませていただきました。そして、ここには真実がある、と思いました。
景観工学の中村良夫氏の文章の中に次のような記述があります。
「人間の視野には、どんな場合でも、手・足などの自己の身体像の一部が映っていることは、とくに注意されてよい。少なくとも、鼻の先は必ず見えている。」
意識して確かめてみますと、確かに鼻の先が見えます。
そして、この文章は、次のように続いていました。
「視野中のその身体像は、(中略)空間の広がりのなかで自分がここにいるという意識を形成する。」
だとすると、アルフレッド・ヒチコックが自作の中に自分の姿をかならず挿入していたのは、ただのいたずらではなかったのではないか。
森村泰昌は名画の中の人物に自身を代入した写真を撮り続けていますが、これもまた、真剣勝負をしているのではないか。
触ることができない鏡の中の自分、追いつくことのできない自分の影と対比しながら思いをはせている次第です。