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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「もっと光を!」でしょうか? 

2008-03-09 03:43:41 | よしなしごと
 私たちは光のないところではものを見ることはできません。
 心眼で見る?私にはとてもそんなことは出来ませんが、出来る方は「どうぞ」というほかありません。
 心で見るといっても、それは光のもとでものを見ることを前提とした比喩にしか過ぎないのではと思うのですが、そうばかりでもないようです。

 

 ただし、この心でものを見るといういい方は、東洋ないしは日本でのいい方と西洋でのいい方とでは少なからず異なるように思います。

 日本でのいわゆる心眼は、感覚を越えた感覚、水明の域に入った研ぎ澄まされた超感覚のようなものを意味しています。ですから剣の達人は、後ろから音もなく忍び寄る敵を容易に迎撃する事が出来るのです。
 このように感覚という物質的な領域を越えてしまった心眼というものは、どこか神秘的であります。

 一方、西洋では、心でものを見るという事は、理性の光のうちで見るということのようで、やはり感覚を越えて見えることを意味しますが、そのベクトルは先に見た日本の超感覚とは逆のように思われます。いってみれば、紫外線と赤外線に似た違いがあるようです。

     

 ところで、現実の光の方はどうでしょうか。
 一般的にいえば光が多ければ多いほど物事はよく見えるという事で、事実ある程度まではそうなのですが、しかしそれも限度を超えるとそうばかりでもありません。
 光の過剰は、時として私たちの目を眩ませ、見えなくさせてしまうのです。太陽を直視したり、そこへとレンズを向ける者は、イカロスがそうであったように、その光そのものによって目を焼き尽くされる事すらあるのです。

     

 いわゆる心眼においても、これは同様ではないでしょうか。
 研ぎ澄まされた感覚の光という比喩は、神秘へと至るといいましたが、さらにはそれはある種の狂気へと連続するともいえないでしょうか。
 一方、理性の光という比喩は一見、合理的でありながら、やはりその過剰においては狂気へと通じるのではないでしょうか。パラノイックな終始一貫への因果律的執着として・・。
 そしてここでは、一見、逆のベクトルである神秘と合理主義が繋がってしまうということが起こるように思うのです。

     

 こうして、心眼においての最先端は、ともに光の過剰として、かえって見えなくなったり、あるいは、ゴースト(写真などで正体不明の光が写る事)としての虚像を生じさせたりするのではないでしょうか。

 幸い、私は心眼とは縁がない凡庸な視野しかもっていませんので、そうした過剰な光の比喩からは免れていますが、写真の世界では時折過剰な光へとレンズを向ける事があります。そうするとホラ、ここに掲げたものたちのようによく見えなかったり、あるいは余分なゴーストが現れたりするのです。

 

 ところで、写真の世界では、光の過剰へと向けられたレンズは、同時に被写体での光の不足としていわゆる逆光になります。これは私のような初心者が犯しやすいミスですが、どうしてそんな事が起きるかというと、人間の目はある種の補正作用をもっていて、逆光でも見えるようにしてしまうので、その逆光に気付かずシャッターを押してしまうからです。

 ということは、工学レンズの精密さや心眼の摩訶不思議な力よりも、自然な眼差しの方がいいのではないかと、私のような凡庸な視野や視線しか持ち得ない者は、自分の立場を合理化してしまうのです。
 そして臆病にも決意するのです。過剰な光への挑戦は、写真の世界だけにしておこうと。





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