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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

待つ・待つとき・待てば

2008-03-19 16:37:49 | よしなしごと
 子供は待つことを知りません。
 その欲望をすぐに満たすことを要求します。
 それに対し、その充足には待つことが、つまり迂回することが必要だと教えるのが教育であるのかも知れません。大人は待ちます。まるで、人生とは待つことだともいうかのように・・。

 

 バスや電車を待ちます。
 宝くじが当たるのを待ちます。
 恋しい人がこちらを向いてくれるのを待ちます。
 降りかかっている災いが除かれるのを待ちます。
 努力した成果の実りを待ちます。
 季節が変わって自然が変化するのを待ちます。
 夜が明け日が昇るのを待ちます。

 でも、じっと待っているそれらはほんとうに来るのでしょうか。
 
 上に述べた例の中でも、確実に来そうなものと、必ずしもそうでないものもあります。
 しかし、確実に来るものというのはあるのでしょうか。
 それ自身、一定の限度や条件のうちにおいてではないでしょうか。

 

 電車は確実に来るのでしょうか?
 そう、脱線事故や天災による支障がない限り。
 季節や昼夜の交代は確実でしょうか?
 そう、あと45億年後に地球の寿命が終わるまでは。
 ただし、その途中の他の天体との衝突などによる異変は不確定です。

 反面、宝くじはなかなか当たりません。
 努力すれば報われない場合も多々あります。
 降りかかった災いはなかなか取り除かれません。
 しかし、宝くじは誰かには当たっています。
 (残念ながらそれは私にではないのですが)
 努力が報われた人もいます。
 (私の場合、多少はといった程度ですが)
 災いが転じて福となった人もいます。
 (私の場合はそういう見方をすればそうかなといった程度です)

 

 こうしてみてくると、待つという行為の中には、かなりの不確定な要因があることが分かります。ある種の長いスパーンでみた場合は可能であったり、逆に、短いスパーンの中でのみ可能であったりもします。

 しかし、これが待つことの面白さであり、そこにおいて物語や、あるいは歴史が生まれる可能性があるような気がします。
 これはおそらく、科学がいくら発達しても残る分野ではないでしょうか。科学はひとつの系を想定して法則性を打ち立てますが、私たちの現実は幾重もの複雑な要因が錯綜していて、それらすべてを読み込むことは不可能だと思います。

 もし、未来がすべて予測され、待つことが確実に起こるとき、そこには人間に関するいかなる物語も、そして歴史も残されてはいないでしょう。

 
        この写真のみ昨年名古屋駅で撮したもの

 むかし、笑い話に、未来予測が発達したら、明日、どこで火事が起こるのかが分かる、従って予め消防自動車がそこに待機すればよい、というのがありましたが、このパラドックスは、それぐらいなら火事そのものを生じさせないようにすればよいということでした。
 
 ことほどさように、待つということは、期待と、にもかかわらずそれが裏切られるかもしれないという境界の間にある行為なのではないでしょうか。
 だから私たちは待つのではないでしょうか。

 さてと、宝くじでも買いに行きましょうか(笑)



コメント (3)
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