六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【美術館には『お疲れ虫』が住んでいる】

2007-12-13 17:10:57 | よしなしごと
 美術館などには「お疲れ虫」が住んでいて、私はすぐそれにとりつかれる。要するに、展覧会というのはとても疲れるのだ。
 私は歩く方はさほど苦にならず、時間さえあれば、地下鉄の何区かぐらいは平気で歩く。 
 それなのに、距離としては大したことはない展覧会では予想以上に疲れるのだ。なぜなのかをかねてより疑問に思っていたのだが、過日、テレビでの番組でその謎が解けた。

 
              岐阜県立美術館
 
 要するに、この種の展覧会というのは、停まっては進み、また停まっては進むのだが、これが疲れを倍加するのだそうだ。
 いってみれば、車を小刻みに停車させ、また発進するを繰り返すと(渋滞時がそれであるが)、ガソリン消費量が急増するのと同じ理屈である。
 だから展覧会は通常の歩行に比べ倍以上、いやもっと多くの疲れをもたらす。
 その結果として、心身は疲れ果て、最後の方の展示物については落ち着いた状況下での鑑賞は不可能となり、場合によっては記憶にも残らない。

 
     愛知県芸術文化センター(この写真お気に入り)

 かつて、ローマはシスティーナ礼拝堂の有名なミケランジェロの天井画を観に行ったことがある。入り口を入ると、両側に千にも及ぼうかという宗教画が飾られた長い長い回廊を進む。はじめは丁重に見て行くのだが、だんだん疲れがつのりぞぞんざいになり、挙げ句の果てはそれらにチラッと視線を走らすのがやっととなる。

 もうすっかり食傷気味になり、早くここから出たいとい思う頃になって、やっと「真打ち」登場で、ラファエロなどのビッグネームの部屋があり、そして「おおとり」がミケランジェロの天井画なのである。
 もうこの段階ですっかり疲れ果てている。
 それでもせっかく来たのだから、しばらくゆっくり見ようとすると、警備員が立ち止まるなと叱りつける。
 何せここは世界中のお登りさんが押しかけ来て、立錐の余地もないのだ。

   
    三重菰野パラミタミュージアム・池田満寿夫の後期作品が常設

 かくて早々と外へ放り出されるのだが、貴重なものを観たという感慨より、ただただ疲れたという感が大なのである。
 果たせるかな、少し予習までして行ったくだんの天井画は、そこを観ようとしていたディティールもどっかへすっ飛んでしまい、虚しく手元の画集で確認するというありさまとなる。
 そして、皮肉なことに、最初の方に観た名もない人たちのものの方が印象に残っている始末なのである。

   
         ある写真展・昨年ウィル愛知にて

 展覧会がなぜ疲れるのかというテレビ番組に戻るが、そこでは疲れない裏技というか、この種の展覧会を鑑賞する達人を紹介していた。
 それによると、最初はどの作品の前でも立ち止まらず、すーっと歩きながら印象に残ったもののみを記憶に刻みつけるのだそうだ。
 そして、引き返しながら、その印象に残ったものの前にのみ立ち止まり、ゆっくり鑑賞するというのだ。そうすれば余分な疲れから解放されて、じっくり鑑賞できるというわけである。

 なるほど、それは全く理屈にかなってはいる。やってみようかなと少しは思った。

 
     昨年いまごろ、名古屋市美術館で開催していたもの

 しかし、しかしである。
 こちとらには、すーっと歩きながら印象に残ったものを選ぶという鑑識眼がもともと備わっていない。穴があくほど見つめてから、ア、これって面白いじゃんと思ったりするのだ。まあ、中にはチラッと観ただけで、ア、これ面白ろそうと思うものがあるが、それのみを重視してその他のものを捨てる勇気はなかなかない

 それにである、私の中の貧乏性が邪魔をする。
 せっかく入場料を払ったのだから、ひとつひとつ丁寧に観なければ損だと思ってしまうのである。
 考えてもみて欲しい。例えば、印象派の展覧会があったとして、すーっと通り抜けて、ゴッホとルノアールとモネなどの絵を数点だけ観て帰ってこられるだろうか?マネはどうするのだ。ドガは?セザンヌは?

 
      「あれから17年オグリキャップは元気です」
        内藤律子写真展・名古屋 13日まで


 かくて、真面目に最初からひとつひとつを見つめ、その結果、最後の方には何があったかも分からないまま朦朧として出口へと吐き出され、そうして吐き出されたことにホッとしたものを覚えるのだ。

 何ともしまらない話であるし、それが歳と共につのるのだから難儀なことである。


コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【アメリカ村とテント村@白川公園】

2007-12-11 17:09:15 | 想い出を掘り起こす
 白川公園は名古屋の中心地に近く、市の科学博物館や美術館、グラウンドなどを備えた公園である。
 この公園は、けっこうおおきな樹木もあり、うっそうとした箇所もあって歴史を感じさせる面もあるが、その実、さほど古い公園ではない

 戦前は普通の街並み(白川町)であったが、名古屋大空襲の折り焼け野原となっていたものを、戦後進駐してきた米軍によって接収された歴史を持つ(1945年)。
 その後、そこはキャッスル・ハイツと言う米軍の住宅地となった。いわゆるアメリカ村である。

 

 私がそこをはじめて訪れた時、まだそこは、鉄条網で囲まれたアメリカ領であった。ほどよい間隔をもって建てられた住宅群は、白い板壁に緑の柱と言った典型的なアメリカンカラーのもので、それらが芝生に囲まれていて、その芝生の上には、子供のための遊具やブランコなどがしつらえられていた。
 そして、いかにもアメリカンといった子どもたちが、甲高い英語(当たり前か)で遊び回っていた。
 このエリアで、黒人を見た記憶はあまりない。当時の将校用の住宅地であったのだろうか。

 
 
 私たち敗戦国の「現地人」は、鉄条網の外から戦勝国アメリカの生活様式を珍しげに眺めているのだが、あまり長い間佇んでいると、銃を持って巡回しているMPたちが近づいて来て、威嚇するのであった。
 まさか撃ちはしまいとは思うのだが、その頃、どこかの米軍練習場で、薬莢を拾うおばさん(金属が貴重な収入源だった)を、「ママさん、カムオン!」と呼び寄せておいて撃ち殺すという事件があったりして、結構恐いものがあった。

 このアメリカ村は日本が51年のサンフランシスコ条約で独立した後も続くのだが、1958年、やっと日本側へ返還されることになり、その後に作られたのがこの公園なのである。
 だからこの公園の歴史は約半世紀ということになる。

 

 その後、冒頭に述べたような諸施設が整えられるのであるが、バブルの崩壊期のころから、この公園と隣接する「百メートル通り」の中央分離帯は、いわゆる路上生活者のメッカとなった。いわゆるテント村の出現である。
 
 市の美術館の近くに貼られた幾つかの青テントのひとつには、明らかに時計マニアの人が住んでいて、そのテントの回りには様々な形状の時計が飾られ、近くの樹木には複数の柱時計が掛けられていた。
 森の中の柱時計群は、まるでメルヘンかダリの描く絵のような感じがしたものだ。

 しかし、2005年、機動隊も動員した大がかりな撤去作業により、彼らの全ては排除されることとなった。

 
 
 今、公園は静謐である。
 しかし、樹間を透かして見ると、戦火に炎上する街並み、占領、そして接収、その後の高度成長、その崩壊による格差の拡大とテント村、それを排除して進む社会的不公正のの隠蔽などという歴史のエポックがほの見えるのではなかろうか。
 
 その意味では、私の写真は幾分きれいごとに過ぎるのかも知れない。
 しかし、これを撮るとき、上記のような想い出が駆け巡っていたことは事実なのである。

 *写真はいずれも白川公園にて。 12月8日 開戦記念日に。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【プチ紅葉の歴史と六の時事川柳】

2007-12-09 17:41:26 | 川柳日記
  

 わが家の玄関先の鉢植えである。
 銀杏は、かつてもっと大きな木でもう少しで銀杏がなるところを、隣の田圃の持ち主から、銀杏の葉っぱは繊維が固く田圃に悪いからやめて欲しいとクレームがあり、泣く泣く伐った際に小さな木を残したもの。
 いつもはもう少し鮮やかな黄色になるのだが今年はいまいち。

 南天は、かつて店をやっていたころ、年末になると地区を縄張りとしている組のアンチャンが、縁起物だから買えといってくるのを断っていたところ、年が明けてから、売れ残ったからと言って持ってきたので、二束三文で買ったいろいろ盛り合わせの鉢植えの中の一本。
 その組も、大手の全国区とドンパチの末、死者を何人か出し、解散させられてしまった

 両方とも、20年ほど頑張っているが、こちとらに盆栽などの心得が全くないため、ただ植わっているという自然児。
 根元に生えた草も、少し面白いので抜かずに共生させている。

 こんな些細なものにも、それなりの歴史や想い出があるものだ。




<今週の川柳もどき>  07.12.9

  再延長歳費は自腹なら許す
   (国会一月半ばまで延長?
     一日三億かかるとか)

  そのたびに子を振り回す文科省
   (やれゆとりだ、いや詰め込みだ)

  金で買ううちは浄化は期待薄
   (温室効果ガス排出量)

  身内から根拠がないと声が出る
   (ブッシュのイラン侵攻に対し
    米機関核装備は放棄と報告)

  それでもなお自由のための銃ですか
   (米で相継ぐ乱射事件)

  三蔵の足跡辿る投機熱
   (中国の次はインドだそうです)

  二割打者ではグランドに残れまい
   (船場吉兆八割が偽装
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【南京ハゼから「時間」が見える】

2007-12-07 12:11:27 | よしなしごと
 前に、日記に、「あるはある」・「ないはない」が、「あるはない」・「ないがある」になるということが、時間という「できごと」であると書いた。
 この一見ちんぷんかんぷんな言い方を、やはり前にも登場したわたしの定点観測、南京ハゼの変貌を通じて立証しようと言うのが今回の目論見である。

 

 などという回りっくどいいかたはともかく、まずは、一〇日間を隔った同じ南京ハゼの樹をご覧頂きたい。
 11月24日に撮影したそれは、まだ紅葉が未完のまま、白い果実を弾けさせていた。
 最初の写真がその折りの姿である。
 そして約一〇日を経た姿が以下である。

 
 
 今年は気候のせいか、すっかり紅葉することなく、既に大半の葉が散ってしまっていた。例年なら、全ての葉が、深い赤紅色に染まった後に散るのだが、惜しいことである。

 

 その代わり、別のショーが用意されていた。すっかり葉がなくなった梢近くで、つがいのキジバトがその実をついばんでいたのだ。
 どちらが雄で、どちらが雌かは分からない。どちらも懸命にお食事中なのであった。

 

 さて、冒頭に戻ろう。
 葉の大半が散ってしまっていた。これが一〇日前に比べて、「あるはない」という事態が出現したことになる。
 鳩がやってきた。これが「ないはある」という事態の表れである。
 そしてこれが、「時間というできごと」の中味である。
 なんだか、マギー一門のマジックのようになってきた。

 

 めげずに続けよう。肝心なことは、この時間の推移、例えば季節の輪廻は、似通っていながら毎年異なり、常に人の予測を大なり小なり裏切ると言うことである。
 その意味でも、「あるがなくなったり、ないがあったり」することとなる。
 ここに私たちが、何か「全体的なもの」、例えば法則性のようなものに汲み尽くされはしないという時間の面白さ、あるいは、私たちが歴史を持ちうる根拠がある。
 
 そしてそれに、そっと名付けてみる。「自由の可能性」と・・。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【フォトエッセイ】映画・散策・「外堀カツ」

2007-12-05 18:00:12 | フォトエッセイ
 初冬のうららかな日、名古屋パルコの上にあるセンチュリーシネマで、『転々』という映画を観た。
 実は、好きな俳優のオダギリジョー小泉今日子が出ているというので行ったのだが、驚いたのは三浦友和が完全に化けていたことである。
 エッ、エッ、エッ、これが友和?私から山口百恵を奪い、テレビでは賢げな顔をした刑事かなんかを演じているあの友和?
 オダギリジョーもキョンキョンも食ってるじゃん!友和の演じるキャラクターでこの映画がもってるじゃん!映画も結構面白い。へんにこまごまと、あるいは小賢しく状況を説明しないところがいい。
 嬉しい発見であった。

 
        エンゼルパークからTV塔を臨む

 こんな映画のあとに、即、現実に戻るには惜しいではないか。だから歩くことにした。
 パルコを出て東側に、エンゼルパークという公園がある。
 公園といっても、南北に走る道路に挟まれた広い中央分離帯のような箇所である。
 名古屋の、ほぼ、ど真ん中であり、車の喧噪や人の行き交いも忙しく決して静かな空間とは言い難いが、なぜか不思議に落ち着くのだ。どうしてだろうか。

 

 この辺りは、TV塔ができると同時に整備が始まった。約半世紀前、私の学生時代である。その頃はまだ、土砂がそのまま露呈している部分もあり、殺伐としていた。
 しかし、私と同時代に学生生活を過ごした人のかなりの部分が、ここに関する想い出を共有しているはずである。

 

 というのは、往時は政治の季節であり、学生層がそうした政治課題に積極的にコミットしていたから、何かがあるとデモ行進をした。その折の集合地点や解散地点がこの辺りであったのだ。
 先程述べたように、その頃は幾分殺伐としていたのだが、それはあながち私の心象風景のせいばかりではない。

 

 殺伐とした状景が落ち着いたものに変わったことについては何が違ってきたのだろうかをTV塔に向かって、つまり南から北に向かって歩きながら考えた。
 思い当たったことのひとつは、あの頃植えられた樹木が生長し、緑が確実に増えているということである。写真で見るように、樹木のグリーンベルトが、街の喧噪を和らげている。そしてそれが、名古屋駅前などの機能一辺倒の街並みとは違う点なのだ。

 

 そんなことを考えながら、フラフラ散策し、お目当てのTV塔まで辿り着いた。そして、その直下のカフェテラスでコーヒーなど飲んだのだが、実は、その後、もう少し先まで歩いたのだった。
 もう、陽が傾いていたのでそこから先の写真はない。
 TV塔を過ぎるとセントラルパークと名前を変える。そしてこの広大な中央分離帯は、名古屋城の外堀にぶつかって終わるのだが、その辺りには想い出がある。

 
      キーボードとボーカルの街頭ミュージシャン
 
 実は、名古屋城の敷地内に私が行っていた大学の学部があり、その近くには、いろいろな大学の学生が集まった名古屋学生会館という寮のようなものがあった。東京でいえば、かつての九段の学生会館である。
 その辺りにたむろしていた私たちは、近隣の安い飲み屋を見つけては飲みに出かけた。その店は、さきに述べた私の散策の終点近くにあった。
 外堀の近くにあったので、その名も「外堀カツ」。

 
左手に見える観覧車。都心のそれで話題になったが、乗ったことはない。一緒に乗ってくれる相手募集中(ただし、女性に限定)。

 お目当ては、一杯何十円かの燗酒と一本五円の串カツであった。それと、食べ放題のキャベツの角切りも加えねばなるまい。
 「外堀カツ」というぐらいだから、トンカツもあったのかも知れないが、私たちのターゲットはもっぱら五円の串カツとただのキャベツであった。

 
   右手、せいの高いのがNHK名古屋、低い方が愛知芸術文化センター

 この串カツが語りぐさである。竹串に、ミミズのような肉がらせん状に巻かれ、その外に分厚いメリケン粉とパン粉のころもが付いているといった代物なのだ。
 これを巧く食するには、技術が要った。お上品にやんわりかぶりつくと、ころもだけが口中に入り、肉は竹串にしがみついたままなのだ。

 
              TV塔近くの噴水
 
 だから、前歯でガキッと串に当たるまで噛み込み、しかる後、キッと肉を噛みきって、クイッと串を抜くのである。そうすると、ころもとそれに相当する肉とが口中に残る仕掛けである。
 私はそれを、二回目に行ったときに会得した。
 当時は、「親父、今日のミミズは固いな」などと皮肉めいたことを言ったりしたが、今にして思うと、いくら当時でも五円は破格であり、その企業努力は称賛に値する
 おかげで、どっかに金が落ちていないかとうつむいて歩いていた私のような者にも、串カツという代物が食えたのだった。

 この店、親父とかみさんの二人だけの店であったが、結構夜遅くまでやっていた。しかし、親父は飲み過ぎや酔っぱらいには厳格であった。限度を越えていると判断したら、もう酒は出さなかった。かくいう私も、アウトを宣告されたことがある。
 ある時、どこかの野暮天がアウトの宣告を無視し、金ならあるから飲ませてくれと訴えたことがあった。
 親父曰く、「そんなに金が要らんのなら、金だけ置いてとっとと帰れ」。これには感服した。

 初冬の散歩の報告のつもりが、思わぬ懐古談になってしまった。
 半世紀前、まだ、私が紅顔の美少年だったころの想い出である。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師走の風景と六の時事川柳

2007-12-03 16:16:43 | 川柳日記
 当地では、師走は割合暖かく始まりました。
 しかし、今日、三日目は冷たい雨が降っています。

 
          カフェテラス@名古屋TV塔下

    
        寒空の中動かぬ母娘@名古屋エンゼル・パーク

 
        コンサートホールへの途上にて@岐阜


 
<今週の川柳もどき> 07.12.3

  逮捕者が次官止まりで残る膿
  おねだりが過ぎ奥方も縛に付く
  喚問を逃れてもなお罪の影
   (防衛省汚職の底深さ)

  功績は全国初の女性知事
   (大阪太田知事三選断念)

  笑顔綻びて出てくる鷹の爪
   (東国原知事、徴兵制はないぜ

  これでもう千秋楽とはゆかぬはず
   (大相撲、殺人事件はどうなった)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

左手が奏でる音楽、館野 泉

2007-12-03 11:37:55 | 音楽を聴く
 久々のクラシックコンサート。
  
  於:岐阜サラマンカホール
  ドレスデン歌劇場室内管弦楽団 & 館野 泉(ピアノ)
  指揮:ヘルムート・ブラニー
      12月2日

 館野氏は、ご承知のように60年代半ばからフィンランドを拠点として活躍してきたピアニスト。ピアノのー奏者としてばかりではなく、フィンランド国立シベリウス・アカデミーの教授を務めるなど、北欧と日本を結ぶ架け橋として活躍してきた。
 その澄み切った叙情豊かな演奏は、世界中に広いファンを持ったが、02年、脳溢血により右半身不随に陥る

 しかし、04年、左手のピアニストとして復帰する
 そして、そんな彼のために、間宮芳生、林光、末吉保雄、吉松隆、谷川賢作など、日本の作曲家たちが曲の提供を申し出る。
 それはまるで、20世紀前半、第一次世界大戦で右手を失った、パウル・ヴィトゲンシュタイン(哲学者、ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは彼の弟)のために、当時の作曲家たちが左手のための曲を書いたのに似ている(もっとも著名なのは、モーリス・ラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』か)。

 

 さて、館野氏の演奏に戻るが、曲は、吉松隆の新曲『左手のためのピアノ協奏曲/ケフェウス・ノート』で、ケフェウスとは秋の夜空に浮かぶ五角形の星座だという。この五つの星が、館野氏の五本の指を象徴していることは見やすい。

 演奏が始まった。もちろん、ハンディを背負った人の演奏という聴き方、観方は失礼であろう。彼の左手は、私の左右の手はむろん、凡百のピアニストの両手以上の音楽を紡ぎ出すことができるのだから。

 とはいえ、視覚は正直で、彼の下げられたままの右手がどうしても目に入り、彼が隻腕であることに気付かされてしまう。
 しかしである、その音楽を傾聴して行く内に、やがて、そんなことはどうでも良くなり、その音の織りなす世界にドンドン引き込まれて行く。もはや、私たち聞き手にとっては彼がどの腕で引いているかはどうでも良くなる。

 繰り出す音色もいい。そしてその音量に於いても、相手が室内楽団とはいえ、そのフォルテシモの部分でも堂々と渡り合い、ホール全体を音の洪水へと誘う。
 吉松の曲は明快である。館野のよどみのない演奏と相まって、会場を完璧にひとつの流れの中に溶け込ませて行く。

 

 やや、余韻を残すかたちで曲は終演する。
 ひとつのあでやかなものが纏め上げられたという感慨と共に、もう少し聴いていたい気持ちが残る。 

 モーツアルトやバッハ、ヴィヴァルディに挟まれたプログラムは、字面の上では違和感があったが、実際の演奏に際してはそんなものは杞憂であったことを言っておこう。

 

 なお、ドレスデンのアンサンブルは素晴らしい
 聴き慣れた曲が今ひとつ輝いて聞こえる。
 アンコールに、ハイドンの交響曲『告別』の第4楽章を演奏したが、この曲をライブで聴くのは初めてで、改めて、その視覚上の面白さを味合わせてくれた。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師走と季節の感じ方。あなたは?

2007-12-01 04:32:23 | よしなしごと
 もう師走である。
 現世から取り残されているような私でも、師走と聞いただけで何やら忙しくなったような気がするから不思議である。これまでゆっくり流れてきた時間が、ここへ来て急に密度を濃くし、速度を上げはじめた感がするのだ。

 確かに、現実に年内中に済ませなければならないこと、済ませておきたいことなどがある。しかし、そうかといって実際に急に忙しくなったわけではないのである。

 

 私に関していうと、若干のお歳暮の手配(これとて送る先は年々減っている。来る方も減っているのだがこれは減って欲しくない)と、年賀状の作成と宛名書きぐらいが具体的な作業といえる。
 他に、特別な今年の都合としては、今勉強しているある思想家について、一応年内に一区切りを付けてしまい、年が改まったら、四月ににある会で報告するレポートに向けての勉強をはじめようと思っている。

 まあ、こうした行動予定などはともかく、この時期、ひとはどんな風に季節を感じるのだろうか。朝晩や戸外での寒さはそのひとつであろう。
 自然の彩りなどもそうではあろうが、とくに雪に出くわしたりしない限り、あまり確たるものはないのではないだろうか。

 これは、私の狭い範囲での見聞だが、上の写真のようにまっ赤なモミジが頑張っているかと思うと、その次の写真のように、なんと今なおアサガオも健在である(いずれも11月30日撮影)。

 


 というようなことになると、名古屋駅前に勤めている知人が言っていたのだが、駅のイルミネーションが点灯されると、「ああ、冬がやってきた」と感じるというのは実感であるのだろう。

 自然の推移が幾分怪しくなりはじめ、ひとの居住環境などから季節を感じるものが減少した今、そうした人工的なものが季節を告げているのかも知れない。

 

 しかし、本来は季節の変動がまずあって、それにひとの行事や仕草などが合わせられたことからいうと、なんだか奇妙な感じがしないこともない。時間というものを、一本の線上を過去から未来へ移動しているポイントのようなものとして表象し、それは測定可能なものだとする理解からする今日的な現象といえるのかも知れない。

    

 にもかかわらず、一方で、私たちはそうでない時間を知っていて、それが繰り返されながらも様々な差異をもつ季節という出来事の受容を可能にしているのだろうと思いたい。


時間についての一見分
 普通は、「あるはある」、「ないはない」であるが、時間に於いては「あるがない」、「ないがある」ことが生じる。
 普通は、「A=A」、「B=B」であるが時間に於いては「A=B」が可能になる。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする