美術館などには「お疲れ虫」が住んでいて、私はすぐそれにとりつかれる。要するに、展覧会というのはとても疲れるのだ。
私は歩く方はさほど苦にならず、時間さえあれば、地下鉄の何区かぐらいは平気で歩く。
それなのに、距離としては大したことはない展覧会では予想以上に疲れるのだ。なぜなのかをかねてより疑問に思っていたのだが、過日、テレビでの番組でその謎が解けた。
岐阜県立美術館
要するに、この種の展覧会というのは、停まっては進み、また停まっては進むのだが、これが疲れを倍加するのだそうだ。
いってみれば、車を小刻みに停車させ、また発進するを繰り返すと(渋滞時がそれであるが)、ガソリン消費量が急増するのと同じ理屈である。
だから展覧会は通常の歩行に比べ倍以上、いやもっと多くの疲れをもたらす。
その結果として、心身は疲れ果て、最後の方の展示物については落ち着いた状況下での鑑賞は不可能となり、場合によっては記憶にも残らない。
愛知県芸術文化センター(この写真お気に入り)
かつて、ローマはシスティーナ礼拝堂の有名なミケランジェロの天井画を観に行ったことがある。入り口を入ると、両側に千にも及ぼうかという宗教画が飾られた長い長い回廊を進む。はじめは丁重に見て行くのだが、だんだん疲れがつのりぞぞんざいになり、挙げ句の果てはそれらにチラッと視線を走らすのがやっととなる。
もうすっかり食傷気味になり、早くここから出たいとい思う頃になって、やっと「真打ち」登場で、ラファエロなどのビッグネームの部屋があり、そして「おおとり」がミケランジェロの天井画なのである。
もうこの段階ですっかり疲れ果てている。
それでもせっかく来たのだから、しばらくゆっくり見ようとすると、警備員が立ち止まるなと叱りつける。
何せここは世界中のお登りさんが押しかけ来て、立錐の余地もないのだ。
三重菰野パラミタミュージアム・池田満寿夫の後期作品が常設
かくて早々と外へ放り出されるのだが、貴重なものを観たという感慨より、ただただ疲れたという感が大なのである。
果たせるかな、少し予習までして行ったくだんの天井画は、そこを観ようとしていたディティールもどっかへすっ飛んでしまい、虚しく手元の画集で確認するというありさまとなる。
そして、皮肉なことに、最初の方に観た名もない人たちのものの方が印象に残っている始末なのである。
ある写真展・昨年ウィル愛知にて
展覧会がなぜ疲れるのかというテレビ番組に戻るが、そこでは疲れない裏技というか、この種の展覧会を鑑賞する達人を紹介していた。
それによると、最初はどの作品の前でも立ち止まらず、すーっと歩きながら印象に残ったもののみを記憶に刻みつけるのだそうだ。
そして、引き返しながら、その印象に残ったものの前にのみ立ち止まり、ゆっくり鑑賞するというのだ。そうすれば余分な疲れから解放されて、じっくり鑑賞できるというわけである。
なるほど、それは全く理屈にかなってはいる。やってみようかなと少しは思った。
昨年いまごろ、名古屋市美術館で開催していたもの
しかし、しかしである。
こちとらには、すーっと歩きながら印象に残ったものを選ぶという鑑識眼がもともと備わっていない。穴があくほど見つめてから、ア、これって面白いじゃんと思ったりするのだ。まあ、中にはチラッと観ただけで、ア、これ面白ろそうと思うものがあるが、それのみを重視してその他のものを捨てる勇気はなかなかない。
それにである、私の中の貧乏性が邪魔をする。
せっかく入場料を払ったのだから、ひとつひとつ丁寧に観なければ損だと思ってしまうのである。
考えてもみて欲しい。例えば、印象派の展覧会があったとして、すーっと通り抜けて、ゴッホとルノアールとモネなどの絵を数点だけ観て帰ってこられるだろうか?マネはどうするのだ。ドガは?セザンヌは?
「あれから17年オグリキャップは元気です」
内藤律子写真展・名古屋 13日まで
かくて、真面目に最初からひとつひとつを見つめ、その結果、最後の方には何があったかも分からないまま朦朧として出口へと吐き出され、そうして吐き出されたことにホッとしたものを覚えるのだ。
何ともしまらない話であるし、それが歳と共につのるのだから難儀なことである。
私は歩く方はさほど苦にならず、時間さえあれば、地下鉄の何区かぐらいは平気で歩く。
それなのに、距離としては大したことはない展覧会では予想以上に疲れるのだ。なぜなのかをかねてより疑問に思っていたのだが、過日、テレビでの番組でその謎が解けた。
岐阜県立美術館
要するに、この種の展覧会というのは、停まっては進み、また停まっては進むのだが、これが疲れを倍加するのだそうだ。
いってみれば、車を小刻みに停車させ、また発進するを繰り返すと(渋滞時がそれであるが)、ガソリン消費量が急増するのと同じ理屈である。
だから展覧会は通常の歩行に比べ倍以上、いやもっと多くの疲れをもたらす。
その結果として、心身は疲れ果て、最後の方の展示物については落ち着いた状況下での鑑賞は不可能となり、場合によっては記憶にも残らない。
愛知県芸術文化センター(この写真お気に入り)
かつて、ローマはシスティーナ礼拝堂の有名なミケランジェロの天井画を観に行ったことがある。入り口を入ると、両側に千にも及ぼうかという宗教画が飾られた長い長い回廊を進む。はじめは丁重に見て行くのだが、だんだん疲れがつのりぞぞんざいになり、挙げ句の果てはそれらにチラッと視線を走らすのがやっととなる。
もうすっかり食傷気味になり、早くここから出たいとい思う頃になって、やっと「真打ち」登場で、ラファエロなどのビッグネームの部屋があり、そして「おおとり」がミケランジェロの天井画なのである。
もうこの段階ですっかり疲れ果てている。
それでもせっかく来たのだから、しばらくゆっくり見ようとすると、警備員が立ち止まるなと叱りつける。
何せここは世界中のお登りさんが押しかけ来て、立錐の余地もないのだ。
三重菰野パラミタミュージアム・池田満寿夫の後期作品が常設
かくて早々と外へ放り出されるのだが、貴重なものを観たという感慨より、ただただ疲れたという感が大なのである。
果たせるかな、少し予習までして行ったくだんの天井画は、そこを観ようとしていたディティールもどっかへすっ飛んでしまい、虚しく手元の画集で確認するというありさまとなる。
そして、皮肉なことに、最初の方に観た名もない人たちのものの方が印象に残っている始末なのである。
ある写真展・昨年ウィル愛知にて
展覧会がなぜ疲れるのかというテレビ番組に戻るが、そこでは疲れない裏技というか、この種の展覧会を鑑賞する達人を紹介していた。
それによると、最初はどの作品の前でも立ち止まらず、すーっと歩きながら印象に残ったもののみを記憶に刻みつけるのだそうだ。
そして、引き返しながら、その印象に残ったものの前にのみ立ち止まり、ゆっくり鑑賞するというのだ。そうすれば余分な疲れから解放されて、じっくり鑑賞できるというわけである。
なるほど、それは全く理屈にかなってはいる。やってみようかなと少しは思った。
昨年いまごろ、名古屋市美術館で開催していたもの
しかし、しかしである。
こちとらには、すーっと歩きながら印象に残ったものを選ぶという鑑識眼がもともと備わっていない。穴があくほど見つめてから、ア、これって面白いじゃんと思ったりするのだ。まあ、中にはチラッと観ただけで、ア、これ面白ろそうと思うものがあるが、それのみを重視してその他のものを捨てる勇気はなかなかない。
それにである、私の中の貧乏性が邪魔をする。
せっかく入場料を払ったのだから、ひとつひとつ丁寧に観なければ損だと思ってしまうのである。
考えてもみて欲しい。例えば、印象派の展覧会があったとして、すーっと通り抜けて、ゴッホとルノアールとモネなどの絵を数点だけ観て帰ってこられるだろうか?マネはどうするのだ。ドガは?セザンヌは?
「あれから17年オグリキャップは元気です」
内藤律子写真展・名古屋 13日まで
かくて、真面目に最初からひとつひとつを見つめ、その結果、最後の方には何があったかも分からないまま朦朧として出口へと吐き出され、そうして吐き出されたことにホッとしたものを覚えるのだ。
何ともしまらない話であるし、それが歳と共につのるのだから難儀なことである。
お話のテレビは見なかったですが、私も美術展では同じ方法をとっています。
予備知識無しでとにかく一通り見ていきます。そのうちで気になるものをとりあえずチェックして置き、全部終わったらもう一度最初から、今度はお目当てのものに直行して、じっくり見ることにしています。
そのころにはだいぶ疲れているので、イスとかがあれば、座って。
最近気になったこと。
德川美術館は床が木製ですので、女性のハイヒールの音がやけにうるさいのです。何とかならないものか。
しかし、現実に疲れ果てるのですから、今後はそうしたスキルを身につけたいと思います。
そういえば仕事でワインの試飲会へ出入りしたことがあるのですが、始めから全部飲んだら酩酊してしまうので、まずは口に含んで味見をしてから吐き出し、そうしながら、お気に入りやポケットマネーでは滅多に飲めないものを記憶しておいて(いじましい)、そこへと戻ってきて、今度はは本当に飲む、そうした要領ですね。
とはいうものの、小生もそうした券を欲しがる一人なので何をか言わんや、でありますが。