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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

左手が奏でる音楽、館野 泉

2007-12-03 11:37:55 | 音楽を聴く
 久々のクラシックコンサート。
  
  於:岐阜サラマンカホール
  ドレスデン歌劇場室内管弦楽団 & 館野 泉(ピアノ)
  指揮:ヘルムート・ブラニー
      12月2日

 館野氏は、ご承知のように60年代半ばからフィンランドを拠点として活躍してきたピアニスト。ピアノのー奏者としてばかりではなく、フィンランド国立シベリウス・アカデミーの教授を務めるなど、北欧と日本を結ぶ架け橋として活躍してきた。
 その澄み切った叙情豊かな演奏は、世界中に広いファンを持ったが、02年、脳溢血により右半身不随に陥る

 しかし、04年、左手のピアニストとして復帰する
 そして、そんな彼のために、間宮芳生、林光、末吉保雄、吉松隆、谷川賢作など、日本の作曲家たちが曲の提供を申し出る。
 それはまるで、20世紀前半、第一次世界大戦で右手を失った、パウル・ヴィトゲンシュタイン(哲学者、ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは彼の弟)のために、当時の作曲家たちが左手のための曲を書いたのに似ている(もっとも著名なのは、モーリス・ラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』か)。

 

 さて、館野氏の演奏に戻るが、曲は、吉松隆の新曲『左手のためのピアノ協奏曲/ケフェウス・ノート』で、ケフェウスとは秋の夜空に浮かぶ五角形の星座だという。この五つの星が、館野氏の五本の指を象徴していることは見やすい。

 演奏が始まった。もちろん、ハンディを背負った人の演奏という聴き方、観方は失礼であろう。彼の左手は、私の左右の手はむろん、凡百のピアニストの両手以上の音楽を紡ぎ出すことができるのだから。

 とはいえ、視覚は正直で、彼の下げられたままの右手がどうしても目に入り、彼が隻腕であることに気付かされてしまう。
 しかしである、その音楽を傾聴して行く内に、やがて、そんなことはどうでも良くなり、その音の織りなす世界にドンドン引き込まれて行く。もはや、私たち聞き手にとっては彼がどの腕で引いているかはどうでも良くなる。

 繰り出す音色もいい。そしてその音量に於いても、相手が室内楽団とはいえ、そのフォルテシモの部分でも堂々と渡り合い、ホール全体を音の洪水へと誘う。
 吉松の曲は明快である。館野のよどみのない演奏と相まって、会場を完璧にひとつの流れの中に溶け込ませて行く。

 

 やや、余韻を残すかたちで曲は終演する。
 ひとつのあでやかなものが纏め上げられたという感慨と共に、もう少し聴いていたい気持ちが残る。 

 モーツアルトやバッハ、ヴィヴァルディに挟まれたプログラムは、字面の上では違和感があったが、実際の演奏に際してはそんなものは杞憂であったことを言っておこう。

 

 なお、ドレスデンのアンサンブルは素晴らしい
 聴き慣れた曲が今ひとつ輝いて聞こえる。
 アンコールに、ハイドンの交響曲『告別』の第4楽章を演奏したが、この曲をライブで聴くのは初めてで、改めて、その視覚上の面白さを味合わせてくれた。




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