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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

政治の音楽化? 音楽の政治化?

2006-09-15 17:04:27 | よしなしごと
 以下は、友人の日記に私が付けたコメントですが、これをもって今日の日記と致します(いわゆる手抜きですね)。
 前提となっているのは、ショスタコーヴィチの音楽を巡って、政治と音楽、あるいは芸術という問題です。
 
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 絵画のような視覚的なものについては、かつての日本の戦意高揚絵画のように、割合分かりやすいものもありますが、それとても作家は反戦や戦争の悲惨さを念頭に描いたかも知れないとすれば、明確なポスター(それすらも?)を除いては、断定しにくいものがありますね。

 ここでは、表現されたものを巡ってと同時に、内面ー外面といういわば不可能性の領域にも関わることになります。

 ショスタコーヴィチの場合の日記のゆれなどにそれを見ることは出来るのですが、音楽そのものからの感得は困難なように思います。


苦悩する(しすぎ?)ショスタコーヴィチ


  ある党派が好んで使った旋律などの使用などはわかりやすく、これはショスタコの後期のシンフォニーなどにも聴くことが出来ます。しかし、これとてもその使用が即その政治意識への同化とは断定できない面があります。

 ショスタコの当面した問題は、いわゆる「社会主義リアリズム」の問題で、党建設、ソ同盟建設の課題(典型)をまっすぐに表現しろというものでした。それらはいわば、起承転結を持ったひとつの物語(勝利へ!)ではければならなかったのです。
 
 従ってまず、形式としての抽象は拒否されます。いわゆる「雪解け」後でも、抽象絵画を観たフルシチョフが、「こんなものはロバの尻尾で描いたものだ」と評したのは有名な話です。

 ショスタコの場合も、マーラー譲りの独特の感興の表現が批判され、もっとクッキリした分かりやすいものを要請されたのでしょう。はっきりしたことは分かりませんが、5番もその点で批判をされたようです。


自作一番を演奏するマーラー(戯画)

 
 反対に、亡命先から帰国したプロコフィエフなどは、いわゆる新古典派様式による「分かりやすい」曲を作り歓迎されました。(だからといって彼を否定的に評価しようとは思いません。)

 芸術そのものをイデオロギー運動の一翼として強力に位置づけるスターリニズムやナチズムは、芸術家に与える抑制と強要という点では突出していますが、しかし、一般的にいって、芸術そのものが常に何らかの制約のもとにあるのであり、敢えていえばその制約を糧とするものであるとするならば、その意味では、ショスタコは、20世紀の偉大な音楽家であったと思います。

 おまけですが、かねがね**さんがお触れになっていらっしゃるハイデガーの「哲学」と「政治思想」との関連においても「近くて遠い田舎道」のようなものですから、芸術の問題となるとさらに迂回路が・・。

ちなみに今年は、ショスタコーヴィチ生誕100年記念イヤーです(1906~1975)。
コメント (2)
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