retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

有楽町線江戸川橋駅(早稲田南町 正法寺)

2015-09-20 06:26:06 | Weblog
しばらくすると、早稲田通りの、南側には、正法寺。
創建は、江戸時代初め頃、と思われる。
創建の地は、今、済松寺が、建っているあたり、だろうか。
しばらくして、この地に、移っている。
時期は、済松寺の、創建と、近く、なにか、関わりがあるのかも。
もともと、大友義延の屋敷があり、次いで、大橋龍慶の屋敷、さらに、済松寺、となっている。
もっとも、わかっているのは、そこまで。
今となっては、もう、歴史の彼方、わからない。
再び、早稲田通りを、西へ、歩く。
(2013年4月記)

有楽町線江戸川橋駅(早稲田町 龍善寺)

2015-09-19 08:15:48 | Weblog
鶴巻南公園の南側、早稲田通りに沿い、には、龍善寺。
創建は、江戸時代前半。
江戸時代になって、あたりが、開かれたことによるのだろう。
江戸時代の地図を見ると、寺域、北側に、もっと、広く、やはり、さっき、訪れた、鶴巻南公園は、龍善寺の、境内だったと、思われる。
江戸時代の地図によると、西側、南側に、さらに、寺院があるが、今は、もう、残っていない。
早稲田通りを、西へ、向かう。
(2013年4月記)

有楽町線江戸川橋駅(早稲田鶴巻町 鶴巻南公園)

2015-09-18 04:33:51 | Weblog
早稲田通りをわたり、北へ、街中、入っていく。
しばらくすると、鶴巻南公園。
高度成長期に入る頃、整備されたらしい。
敷地は、おそらく、寺領、だったのだろう。
明治時代初め頃の、地図を、見ると、今の、飯田橋、神楽坂、あるいは、江戸川橋駅あたり、から、町屋が、西に、伸びており、ここらへんが、その、辺境、だったようだ。
その、辺境が、寺町、になっていたのかもしれない。
南へ。再び、早稲田通り。
(2013年4月記)

有楽町線江戸川橋駅(弁天町 宗参寺)

2015-09-17 05:42:21 | Weblog
外苑東通りから西へ。街中に入る。
しばらくすると、宗参寺。
江戸時代になる前、創建。
すでに、江戸時代になる前から、このあたり、開かれる、基礎は、できていたのかもしれない。
もっとも、田園が広がり、住民が多く暮らし、といった変貌は、やはり、江戸時代を、待たなければならあかったようだが。
今度は、北へ。
東西に伸びる、早稲田通り。
(2013年4月記)

有楽町線江戸川橋駅(弁天町 外苑東通り)

2015-09-16 04:15:25 | Weblog
外苑東通り、さらに、南へ、歩いてみる。
今は、静かな通りだが、拡幅されれば、交通量の多い、幹線に、なるのだろうか。
ちなみに、外苑東通り、北側は、新目白通りまで、となっている。
そこから、春日通りまでは、未開通。
播磨坂を経て、西、本郷通りも、未開通。
その先は、言問通り。言問通りが、環状3号線。
おそらく、芝から、勝どきの方が、優先されるのだろう。
それ以外は、それから、ということになる。
まだまだ、ずっと、先のことだ。
(2013年4月記)

有楽町線江戸川橋駅(榎町 弁天町交差点)

2015-09-15 04:57:29 | Weblog
再び、外苑東通りに戻り、南へと、向かう。
やがて、東西に伸びる、早稲田通りとの、弁天町交差点。
ここから、南側、道幅は、普通の、道路となる。
交差点近くだけは、道幅が、広いようなので、いずれ、道幅を、広げるのだろう。
その先、靖国通りの北側、防衛省あたりから、道幅は、広くなる。
外苑東通り、というと、環状3号線。
いちおう、芝まで、伸びている。
予定として、トンネルで、勝どきまで、伸びるらしい。
いつのことなのか、将来のことなので、わからないけど。
(2013年4月記)

有楽町線江戸川橋駅(榎町 街中の活字店)

2015-09-14 03:43:06 | Weblog
外苑東通りから、東側、街中に、入ってみる。
街中には、活字店。
創業は、大正時代、ということだ。
あたりには、大日本印刷の、工場が、あるので、その関係なのかな。
それにしても、今に、残っているというのは、驚きだ。
高度成長期、バブル期までは、郊外、地方の、時代だったので、都心中心部は、むしろ、開発から、取り残され、昔が、残っていたものだが。
バブル崩壊後は、再開発は、都心に、集中し、今に、いたっているので、昔が、残っているのは、珍しい。
残るとすれば、テーマパークとして、ということだろう。
この店も、おそらく、テーマパークとして、残ったのかな。
(2013年4月記)

有楽町線江戸川橋駅(榎町 外苑東通り)

2015-09-14 03:40:39 | Weblog
本当に、そうなのか、どうかは、わからないのだが。
いずれにしろ、江戸時代の、画期、このあたりの、変貌を、象徴していると、思える。
さらに、西へ歩いていくと、南北に伸びる、外苑東通り。
道路が、できる前、南から、流れてくる、蟹川の、支流が、あったらしい。
支流は、すぐ、東へと、流れる、蟹川に、合流している。
とすると、済松寺は、その、合流地点の、南東側に、あったわけだ。
外苑東通りを、南へ向かう。
(2013年4月記)

有楽町線江戸川橋駅(榎町 済松寺)

2015-09-12 05:58:57 | Weblog
しばらく、歩いていくと、済松寺。
創建は、江戸時代前半。
あたりが、開拓された頃と、思われる。
ところで、済松寺の、境内には、鳳凰池、という池が、あるそうだ。
その池は、済松寺が、創建される前から、あったらしい。
どういうことだろうか。
鳳凰池は、見たところ、日本庭園の池として、設えられた池であり、だとすると、もともと、あったのは、鳳凰池だけではなく、日本庭園だったのだろう。
日本庭園、というと、大名屋敷。
実際、大名ではないものの、九州の、大友氏、大友義延の、屋敷があったそうだ。
その後は、大橋龍慶の屋敷。そして、済松寺、となっている。
おそらく、大友義延が、日本庭園を造り、大橋龍慶が、その、日本庭園を、整備したと、思われる。
そして、それが、済松寺の、境内に、残ったのだ。
(2013年4月記)

有楽町線江戸川橋駅(天神町 北野神社)

2015-09-11 04:36:10 | Weblog
実際、早大通りは、かなり、新しい通りらしい。
ただ、江戸川橋通りから、さらに、東へと、伸びていくとも、思えないけど。
南へ。街中に、入っていく。
しばらくすると、北野神社。
創建は、わからないが、おそらく、あたりが、拓かれた、江戸時代、と思われる。
明治時代初め頃の、地図を、見ても、天神町、となっているので、もともと、この地に、創建されたのだろう。
街中を、再び、西へ、歩いていく。
(2013年4月記)