retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

有楽町線東池袋駅(東池袋三丁目 サンシャインシティ 坂下通り)

2014-10-21 05:39:52 | Weblog
坂下通り、西へ西へと、歩いていくと、やがて、サンシャインシティ。
さっき、通ってきた場所、及び、サンシャインシティ、北側の、春日通りまでが、巣鴨監獄の、敷地だったようだ。
「東京地下要塞」に戻ると、なぜ、サンシャインシティを作ろうとしたのか、というと、すでに、地下道やら、地下鉄やらが、通っていて、再利用できる状態ではなく、仕方なく、それを、隠蔽するために、巨大な、建造物、サンシャインシティを、作った、ということになる。
たしかに、池袋駅に、近いとは思えず、むしろ、有楽町線の、東池袋駅の方が、近い、にもかかわらず、東池袋駅は、サンシャインシティの最寄駅、という感じではない。
池袋の街そのものが、北西側から、南東側に、移動しているとすれば、この場所に、巨大な施設を、作った、というのは、先見の明があった、ともいえるけど。
サンシャインシティに入り、地下へ。西へ進んで、東急ハンズから、地上に出る。
極秘地下道は、いいのだが、実際の地下道、池袋駅まで、作って欲しかったな。
サンシャイン60ストリートを通り、池袋駅へ。
山手線で、帰ることにする。
(2013年1月記)

有楽町線東池袋駅(東池袋四丁目 巣鴨監獄跡 坂下通り)

2014-10-20 03:28:58 | Weblog
踏切を過ぎると、すぐに、かつての、巣鴨監獄敷地跡。
今は、南側には、造幣局東京支局、北側には、小学校と区営グランド、となっている。
巣鴨監獄の敷地が、広がっていた頃は、ここまでが、坂下通り、ということだろう。
巣鴨監獄が、完成したのは、明治時代半ば頃。
住所は、巣鴨村、なのだが、巣鴨村、雑司ヶ谷村、小石川村の、境、つまり、どこからも、遠い、村外れの場所、に設置されている。
監獄なので、当たり前といえば、当たり前なのだが。
ただ、あまりにも、辺鄙な場所だと、それはそれで、危険なのかもしれない。
ということで、巣鴨監獄の入口に、直通する、坂下通りが、作られたのだろう。
なにか、ことが起これば、すぐに、対処できるように。
そんな、巣鴨監獄なのだが、昭和の初め頃、府中に、移転しており、跡地は、拘置所となっている。
都心と、郊外への、編成、ということか。
坂下通り、さらに、歩いていく。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(東池袋四丁目 荒川線踏切 坂下通り)

2014-10-19 08:09:03 | Weblog
しばらくすると、都電荒川線の、踏切。
鬼子母神までは、大正時代の終わり頃、開通している。
そこから先は、昭和の初め頃。
東京が、都心、郊外へと、再編されたことに、呼応しているのだろうか。
とすると、都心の、外縁部を、結んでいる、といえないことはない。
西側の、池袋駅は、すでに、完成していたが、そこから、郊外へ伸びる、西武線、東武線は、大正時代から。
都心、郊外への、都市の再編の時期、とすれば、妥当な、ところだろう。
踏切を、越え、池袋の街へと、進んでいく。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚六丁目 東池袋近く 坂下通り)

2014-10-18 08:03:57 | Weblog
歩いていくにしたがい、だんだん、街並みが、新しくなる。
町名も、文京区大塚から、豊島区東池袋へ。
池袋の街に、近付いていることを、実感する。
ただ、昔は、雑司ヶ谷村と、巣鴨村、だったのだ。
池袋は、はるか、北西側、板橋の方。
駅ができて、たまたま、池袋駅と、名前が、決まるまで、池袋とは、縁もゆかりもない土地。
しかも、雑司ヶ谷村、巣鴨村、さらに、南側、小石川村の、境、というkとで、なにも、なかったに、違いない。
昔のことを、思いながら、坂下通り、歩き続ける。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚六丁目 君の湯)

2014-10-17 05:37:47 | Weblog
近所に、柔道家が、住んでいて、そして、講道館が、春日に、あって、ということで、地下道を、通っていた、という話が、でてきたに、過ぎないのかも。
日記等の、引用が、ないので、そんなところだろう。
などと、考えながら、歩いていると、通りの、南側には、君の湯。
おそらく、高度成長期あたり、できたのかな。
昭和の、初め頃には、まわり、市街化されているようだが、それほど、古くはないのだろう。
坂下通り、さらに、北西と、歩いていく。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚六丁目 柔道家の説明板)

2014-10-16 04:52:37 | Weblog
しばらく、歩いていくと、またしても、説明板。
裏道の割には、説明板が、多いな。
今度は、著名な、柔道家。
「東京地下要塞」によると、さる柔道家が、ここらへんに、住んでいて、後楽園近くの、講道館に、通うために、地下道を、使っていた、ということだが。
まだ、丸ノ内線も、都電も、通っていないとすれば、歩いて、通っていたことになる。
といっても、地下道を、通ったとして、近道になるわけでもないし、地下道を、わざわざ、使う理由があるのだろうか。
それ以前に、柔道家が、なぜ、陸軍の、極秘地下道の、使用を、許可されていたのか、不明だ。
再び、坂下通り、北西へと、向かう。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚六丁目 坂下通り)

2014-10-15 04:59:25 | Weblog
坂下通りを、北西へと、歩く。
たしかに、すぐ、北側を、平行するように、春日通りが、伸びていて、なんで、このような、通りが、あるのか、妙な、感じはするな。
明治時代の初め頃の、地図を見ると、坂下通り、音羽川が、流れていたようだ。
音羽川の、谷地だったわけだが。
その谷地の、北側斜面を、上ると、すでに、春日通りが、通っている。
春日通りに対する、ひっそりとした、裏道、という感じだろうか。
そんな、坂下通りを、さらに、北西へと、歩いていく。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚五丁目 開運坂の説明板)

2014-10-14 05:39:34 | Weblog
坂の途中、開運坂に関する、説明板。
「東京地下要塞」で、つっこみが入るほど、本当に、要領を得ない、説明。
これをもって、陸軍が、勝手に、坂道を、作ってしまったので、説明が、曖昧になっていると、結んでいるのだけど。
陸軍のことは、置いておくとして、推定は、できるように、思える。
開運、という、名前から、思い浮かぶとすれば、やはり、神社、ではないかな。
また、坂道が歩けど、上りきったところ、どこにも、通じていないのは、この、坂道が、神社境内への、上り坂、だったからとも、推定できる。
とすると、某銀行の、社員寮は、神社の、境内の、跡地に、建っている、わけだ。
実際、さきほど、訪れた、吹上稲荷神社も、同じような感じ。
昔の地図を、見てみないと、なんともいえないけど。
坂を、下り、再び、坂下通りへ。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚六丁目 大塚坂下公園)

2014-10-13 08:03:10 | Weblog
某銀行社員寮の、西側に、行ってみる。
西側には、大塚坂下公園。
坂下、となっているが、坂の上、あるいは、坂の、斜面にある、公園だ。
「東京地下要塞」によると、東京湾に、進入した、外敵を、攻撃するために、こうした、高台に、砲台を設けたのだそうだ。
もっとも、ひとたび、砲撃があれば、記録にも、残るに違いなく、そうした、記録がないのであれば、砲台があったとしても、活用されたことは、一度も、ないのだろう。
それ以前に、東京湾に、外敵が進入、なんてこと、明治維新の頃、黒船来航ぐらいしかなく、砲撃の機会は、なかったに違いない。
いや、そもそも、砲台など、あろうはずもないのだが。
開運坂に戻り、坂を、下っていく。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚六丁目 護国寺北側の塀)

2014-10-12 07:07:14 | Weblog
開運坂を、上っていくと、某銀行の、社員寮に、突き当たる。
坂を、上っても、どこかに、行き着けるわけでもないようだ。
仕方がないので、某銀行社員寮を、迂回していく。
そこを、過ぎると、護国寺の北側。
高台にある、普通の、住宅地。
寺院が、直近にあるためか、高台ではあっても、閑静な、山手住宅地、というわけでも、なさそうだ。
しばらく、歩き回ってみたが、砲台の、痕跡のようなものは、見当たらない。
当たり前だけど。
北へ。もと来た道を、引き返す。
(2013年1月記)