retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

有楽町線護国寺駅(大塚五丁目 開運坂)

2014-10-11 07:10:37 | Weblog
坂下通り、歩いていくと、しばらくして、南側に、上り坂。
開運坂、という名前。
「東京地下要塞」によると、この坂道も、坂下通りと、同じく、陸軍が、整備したそうだ。
すなわち、弾薬庫があるとすると、その、砲弾を、発射すべき、砲台が、近くにあるはず。
さらに言えば、砲台、高台になければならない。
とすると、高台に、あるべき、砲台への、上り坂が、必要、というわけ。
それで、陸軍が、開運坂を、整備したのだ。
でも、これだけ、地下道を、整備しているのなら、弾薬庫から、砲台までも、地下道に、すればいいような、気もするけど。
普通の、坂道を、作る、必要性は、あるのだろうか。
あまり深くは考えないことにして、開運坂、上ってみる。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚五丁目 往時の弾薬庫)

2014-10-10 04:47:02 | Weblog
弾薬庫というのが、そもそも、どういう、建屋なのか、よくわからないので、弾薬庫だ、と断定されてしまうと、そんなものかな、と思ってしまう。
ちなみに、「東京地下要塞」には、以下のように、書かれている。
すなわち、この建物に関しては、ゼンリンの住宅地図に記載されていず、近くの、交番で、聞いても、わからず、もちろん、近所の、住民も、わからない。
なんでも、住宅が建つ前から、この建物、建っていたのだそうだ。
本当に、ゼンリンの住宅地図で、調べたくなるが、面倒なので、やめておこう。
それよりも、画像から、少なくとも、数年前までは、あったようなので、行ってみればよかった。
もっとも、中を、覗いたとして、弾薬が、あろうはずもないのだけど。
残念ながら、更地になってしまった場所を、後にして、さらに、坂下通り、北西へと、歩いていく。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚五丁目 弾薬庫のあった場所)

2014-10-09 04:41:08 | Weblog
そろそろ、今回、もっとも、注目すべき、場所に、辿り着くはず。
だが、現れない。
何度か、行き来しているうち、やっと、気付く。
なくなっているのだ。
「東京地下要塞」によると、弾薬庫が、設置してあることになっている。
いつの間にか、なくなっているようだ。
もっとも、更地になった場所を、見てみるが、弾薬庫のわりには、建物の土台の部分は、とくに、なんの、痕跡もない。
頑丈に、作ってありそうな気がするけど。
それに、すぐ近くに、家並みが、あるが、大丈夫なのだろうか。
普通の土蔵だとは、思うが。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚五丁目 坂下交差点を過ぎた地点)

2014-10-08 04:52:14 | Weblog
少なくとも、坂下通りは、明治時代、開通したらしい。
そのような、道路の開通を、実現させたのは、明治時代の、再開発、「東京地下要塞」によると、市区改正、ということだ。
ただ、成果は、あまり、はかばかしくなく、やはり、本格的な、再開発は、大正時代から、昭和の、初め頃、となる。
都心と、郊外に、分けたのが、よかったのかもしれない。
「東京地下要塞」では、はかばかしくなかったのは、極秘に、地下道やら、地下鉄やらを、作っていたから、ということに、なっているのだけど。
そして、だから、坂下通りも、極秘の、地下道や、地下鉄と、結び付くだ。
もっとも、普通に考えれば、坂下通り、この先に、かつて、あった、巣鴨監獄のための、道路、という風にしか、思えない。
それに、再開発が、はかばかしくなかったのは、都心と、郊外を、分けず、様々な、施設が、集中してしまったからだろう。
坂下通りは、徐々に、カーブを描き、北西方向へと、向きを、変えていく。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚五丁目 吹上稲荷神社境内)

2014-10-07 05:37:54 | Weblog
鳥居を潜り、石段を上っていくと、境内。
変哲もない、神社だ。
創建は、江戸時代の、初め頃。
創建の地は、江戸城、なのだが、ずっと、江戸城に、あったわけでもない。
あちこちと、移転し、一頃は、護国寺境内に、あったときも、あったらしい。
最終的に、明治時代の末年、この地に、移っている。
その頃には、坂下通りも、開通していたのだろう。
ところで、「東京地下要塞」にも、吹上稲荷神社のことが、触れられているのだが、江戸城から、移転、となっている。
間違いではないけど、江戸城から、移転したのは、江戸時代の、前半、ずっと、以前のこと。
「東京地下要塞」のような、書き方をすると、なにか、坂下通りを、普通の道路に、偽装する目的で、急遽、江戸城にあった、神社を、移転させた、という風に、考えてしまうのだが。
坂下通りに戻り、再び、北へ歩く。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚五丁目 吹上稲荷神社の鳥居)

2014-10-06 04:52:19 | Weblog
そもそも、東京砲兵工廠、昭和の初め頃には、移転して、跡地に、後楽園球場ができている。
極秘の、地下通路や、まして、地下鉄が、あったとしても、あまり、意味がないなあ、などと、考えては、いけないものなのかもしれないが。
さらに言うと、この、坂下通り、作ったのは、「東京地下要塞」によると、陸軍、ということに、なっている。
本当に、そう、断定して、いいものやら。
たしかに、軍隊ともなると、様々な、施設を、広範囲に、所有し、それらを、自前で、整備しているようにも、思えるので、道路の、一つぐらい、作っても、おかしくはない、とも、思えるけど。
工事の、発注先、なんて、もう、残っていないだろうなあ。
発注先、陸軍、という資料が、あったりすると、驚きなのだが。
といっているうちに、しばらくすると、通りの、西側には、吹上稲荷神社の鳥居が、見えてくる。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚五丁目 坂下通り)

2014-10-05 07:57:10 | Weblog
坂を、下りきると、北に伸びる、坂下通り。
富士見坂の下の、通り、というわけか。
春日通りと、平行するように、池袋まで、伸びている。
何の変哲もない、通りなのだが、「東京地下要塞」という書籍によると、重要な、通りであるらしい。
どういうことか、以下、簡単にまとめてみる。
すなわち、今の、十条駅南西側、石神井川沿い、戦前、陸軍火薬工場があったのだが、そこと、豊島区役所、今、サンシャインシティがある、巣鴨監獄、坂下通り、そして、今、東京ドームがある、陸軍工場、東京砲兵工廠、それらを、極秘の、地下道、あるいは、地下鉄が、結んでいた、というのである。
さて、本当なのだろうか。
本当だったら、とても、興味深いのであるが。
そんな、坂下通り、北へ、歩いてみる。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚四丁目 本伝寺)

2014-10-04 07:09:59 | Weblog
不忍通りに戻り、東へ。
すぐに、通りの、北側には、本伝寺。
創建は、江戸時代の、前半ぐらい。
護国寺と、同じ頃だろう。
ところで、鎌倉街道は、今の、池袋、そして、皇居あたりを、南北に、伸びていて、それらを、結ぶ、通りが、このあたり、江戸時代の前、室町時代、開通したらしい。
そういうわけで、江戸時代から、こうして、寺院が集まり、家並みも、増えていったのかな。
さらに、明治時代、住宅地になり、山手になっていったのだろう。
もっとも、今回は、そちらの方に、行く予定はないので、また、不忍通り、南へ。
富士見坂を、下っていく。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚三丁目 大黒湯)

2014-10-03 05:37:16 | Weblog
春日通りを、南へ、歩くと、すぐに、通りの、東側には、大黒湯。
戦後、すぐに、できた、銭湯だ。
銭湯が、古い、ということは、街並みも、古い、ということだろう。
実際、明治時代初め頃の、地図を見ても、春日通り沿い、すでに、家並みが、描かれている。
明治時代初め頃、家並みがあるとすると、おそらく、江戸時代から、賑やかだった、ということだろう。
護国寺が、近くにあり、街道筋、だったからかな。
護国寺から、南へ伸びる、音羽通りの方が、家並みが、江戸の、中心まで、伸びているので、護国寺の、門前町、ということでも、あったのかもしれない。
春日通りを、今度は、北へ向かう。
(2013年1月記)

有楽町線護国寺駅(大塚三丁目 春日通り)

2014-10-02 05:38:08 | Weblog
坂を、上がっていくと、南北に伸びる、春日通り。
尾根になっている。
明治時代初め頃の地図を見ると、すでに、春日通りは、通っているので、江戸時代には、開通していたはずだ。
不忍通り、富士見坂も、護国寺が、できた頃、江戸時代の、前半頃、開通していると思う。
ただ、春日通りの方は、尾根道になっているので、ひょっとしたら、もう、少し、古いのかもしれない。
尾根道、というと、鎌倉街道。
鎌倉時代まで、遡らなくとも、江戸時代の前、戦国時代、室町時代、ぐらいだろうか。
(2013年1月記)