retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

都営浅草線馬込駅(上池台四丁目 貝塚坂)

2014-07-21 06:53:40 | Weblog
環状7号線を挟んで、南側、上り坂、貝塚坂、となる。
貝塚、という名前から、どこか近くに、貝塚、があったのだろう。
馬込貝塚、というのが、それらしい。
南東側には、貝塚公園、もあり、おそらく、そのあたり、かな。
特定の場所、というよりも、一帯で、貝塚や、遺跡が、出土するのかもしれない。
高台で、暮らしやすく、太古の、昔から、生活が、あったのだろう。
そのわりに、古い寺社は、ないようだが。
それに比べて、北側の高台には、古い寺社がある。
古い、道路が、北側の、高台を、東西に、伸びていることと、関係があるのだろうか。
歴史とは、不思議なものだ。
貝塚坂を、さらに、上っていく。
(2012年12月記)

都営浅草線馬込駅(中馬込一丁目 環状7号線)

2014-07-20 07:04:41 | Weblog
夫婦坂を下りきると、そこには、東西に伸びる、環状7号線。
実際、谷筋は、もう少し、手前になるが。
こうして、谷がある、ということは、かつて、川があった、ということになる。
ただ、どういう、川が、流れていたのか、ということは、今となっては、わからない。
環状7号線についてだが、東側、馬込駅の方は、早くも、昭和の初め頃には、開通している。
第二京浜との、立体交差は、日本初の、インターチェンジ、だそうだ。
だが、西側については、その後、工事は、凍結されてしまった。
工事が、再開されるのは、高度成長期。
その工事も、北側まで。
そこから先は、また、さらに、時間がかかる。
そんな、環状7号線を渡り、さらに、南へ向かう。
(2012年12月記)

都営浅草線馬込駅(北馬込一丁目 夫婦坂)

2014-07-19 06:44:36 | Weblog
南へ、歩いていくと、下り坂。
夫婦坂、という名前。
下りきったところから、今度は、上り坂が、はじまるので、こういう、坂を、夫婦坂、というらしい。
だとすると、反対側の、坂道も、夫婦坂、になるはずだが、どうなのだろう。
話は、変わるが、さっき、歩いてきた、東西に伸びる道、品川道、という、かなり、古い道、ということだ。
古い道、というと、鎌倉街道、なのだが、鎌倉街道は、たいてい、南北に伸びている。
だが、この、品川道は、東西に、伸びている道。
おそらく、南北に伸びる、鎌倉街道を、結んでいたのだろう。
夫婦坂を、下って、南へと、歩いていく。
(2012年12月記)

都営浅草線馬込駅(北馬込一丁目 北馬込本通り協和会)

2014-07-18 05:08:22 | Weblog
途中、西へ曲がり、そのまま、西へ西へと、歩いて行く。
高台の、住宅地が、続く。
今、歩いている道、実は、古い、道だったらしい。とすると、ここらへん、昔から、開けていたのだろう。
高台なので、暮らしやすかったに違いない。
住宅地、歩いていくと、やがて、北馬込本通り商店街の、入口。
昔からの、道ではあっても、商店街は、この先の、長原駅の、駅前商店街だろう。
西へは、進まず、南へ。
そのまま、南へ向かう。
(2012年12月記)

都営浅草線馬込駅(北馬込二丁目 馬込本通り協栄会)

2014-07-17 23:02:00 | Weblog
縁日通り、歩いてくと、徐々に、店が、多くなり、馬込本通り商店街、となる。
このまま、行くと、その先には、荏原町駅。
駅前商店街、となるようだ。
駅が、できたのが、昭和の初め頃。
商店街が、できたのも、その頃、だろうか。
ただ、その先、駅北口に、八幡神社があり、その門前町が、南に、伸びていたのかもしれない。
そして、宗福寺、天祖神社まで、門前町が、伸びていたのだ。
それらが、合わさって、縁日通り、と呼ばれたのかも。
そんな、馬込本通り商店街を、さらに、北へ、向かう。
(2012年12月記)

都営浅草線馬込駅(北馬込二丁目 宗福寺)

2014-07-16 04:44:11 | Weblog
縁日通りを、北へ北へと、歩いていく。
かつては、縁日のような、賑やかさが、あったのかもしれない。
しばらく、歩いていくと、通りの、西側に、宗福寺。
創建は、江戸時代の、直前頃か。
とすると、このあたりが、開拓されたのも、江戸時代の初め頃、ということになる。
北側にかけて、高台になっているので、そちらは、早くから、開けていたはずだが。
まだ、こちらは、開けていなかったのだろう。
江戸時代を、待たなければ、ならなかったわけだ。
話は変わるが、縁日通りの、縁日、というのは、宗福寺、あるいは、さっき、通ってきた、天祖神社、の縁日、なのかもしれない。
その、縁日通り、さらに、北へと、歩いていく。
(2012年12月記)

都営浅草線馬込駅(北馬込二丁目 天祖神社)

2014-07-15 05:08:36 | Weblog
階段を上ると、南北に伸びる、縁日通り。
こちらも、立体交差。
クルマも通れるような、インターチェンジではないが。
環状7号線を、掘割に、したので、このような、立体交差になったのだろう。
掘割にしたのは、やはり、東側の、第二京浜のためかな。
昭和の初め頃、それほどに、交通量があったものなのか、わからないけど。
ただ、もし、平面交差で、環状7号線が、開通していたなら、後年、たとえば、高度成長期、掘割に、作りかえなければ、ならなかったのは、間違いない。
将来性が、あった、ということだ。
縁日通りを、北へ向かう。
途中、通りの、東側に、天祖神社。
創建は、わからないが、江戸時代、と思われる。
(2012年12月記)

都営浅草線馬込駅(中馬込二丁目 環状7号線に架かる新馬込橋)

2014-07-14 04:42:32 | Weblog
環状7号線を、西に進むと、すぐに、陸橋。
新馬込橋、と呼ばれている。
昭和の初め頃に、架橋されたようだ。
とすると、環状7号線、このあたり、開通したのは、昭和の、初め頃、ということになる。
実際、さっき、通ってきた、環状7号線と、第二京浜との、立体交差、そちらも、昭和の初め頃、完成していて、日本初の、インターチェンジ、なのだそうだ。
ちなみに、高度成長期頃の、街並みの、写真集を、見てみると、この、新馬込橋、載っていた。
まったく、当時のまま。
ただ、まわりの景色が、かなり、田舎びている。
陸橋だけが、そのままで、まわりが、変わった、のだろうけど。
陸橋の、袂にある、階段で、陸橋の、上に、行ってみる。
(2012年12月記)

都営浅草線馬込駅(中馬込二丁目 環状七号線と第二京浜の立体交差)

2014-07-13 07:12:20 | Weblog
東へ東へ、歩いていくと、しばらくして、南北に伸びる、昭和通りとの、交差点。
都営浅草線、宝町駅がある。
まだ、ここらへんまで、再開発は、及んでいないようだが。
いずれは、再開発、押し寄せてくるのかもしれない。
ちなみに、昭和通り、開通したのは、名前の通り、昭和の初め頃。
おそらく、街並みが、形成され始めたのも、その頃、なのだろう。
まさに、昭和の、忘れられた、街並み、というわけか。
宝町駅で、浅草線に、乗る。
馬込駅で下車。
地上に出ると、南北に伸びる、幅広で、交通量の多い、第二京浜。
南に、歩くと、すぐに、東西に伸びる、環状7号線。
環状7号線が、下を、通り、立体交差になっている。
ここらへんの、環状7号線、昭和の初め頃に、開通しているので、このあたりも、昭和の初め頃の、街並み、ということか。
(2012年12月記)

銀座線京橋駅(京橋二丁目西地区再開発)

2014-07-12 07:07:25 | Weblog
中央通りの西側、広範囲、工事中。
京橋二丁目西地区再開発、ということだ。
ちょっと前、来たときは、以前の、街並みだったのに。
もう、あらかた、街並みに、なくなり、広大な、工事現場になっている。
バブルの頃までは、昭和の、忘れられた地域。
都心への、再開発集中が、始まった頃も、まだ、昭和の街並みだったのだが。
東京駅西側、丸の内、大手町の、再開発が、東京駅の、東側にまで、広がった、という感じかな。
どこまで、このような、再開発が、続くのだろうか。
東西に伸びる、鍛冶橋通りを、東へと、向かう。
(2012年12月記)