retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

南北線白金高輪駅(白金四丁目 西光寺)

2013-12-21 07:30:44 | Weblog
三光坂を下りきると、西側には、西光寺。
創建は、江戸時代の初め頃。
創建の地は、麻布、六本木あたりらしい。
しばらくして、この地に、移ってきている。
ちなみに、江戸名所図会、氷川明神を示す、絵図の中にも、西光寺は、載っている。
西光寺の前にある、三光坂(絵図では、三鈷坂)も、載っているのだが、三光坂の、謂れになった、専心寺は、載っていない。
専心寺の場所には、報恩寺、という寺院が、描かれている。
名前が代わったのか、変遷があったのか、わからない。
江戸名所図会の、氷川明神の、絵図だが、三光坂の、その先、北へ、向かうと、古川に架かる、相模殿橋がある。
今の、四之橋だ。
その、四之橋の、袂近くには、鷺森神明宮という、神社が、描かれている。
こちらは、もう、今は、ない。
どうして、なくなったのか、いつ、なくなったのか、わからない。
時代は、動いていく、ということか。
(2012年10月記)

南北線白金高輪駅(白金二丁目 専心寺)

2013-12-20 06:10:43 | Weblog
格式高そうな、豪邸の、建ち並ぶ、山の手。
急な、下り坂、ぐんぐんと、下っていく。
まるで、下界に、戻るような、気分。
坂の、中腹、東側には、専心寺。
創建は、江戸時代の、初め頃。
境内の、三葉の松から、この、坂道は、三葉坂、と呼ばれたらしい。
今は、三光坂。
そういえば、専心寺は、他の寺院のように、移転してきたわけではなく、最初から、この地に、あるようだ。
当時は、何もない、崖地だったのだろうな。
再び、三光坂を、下る。
(2012年10月記)

南北線白金高輪駅(白金二丁目 白金竹友クラブ)

2013-12-19 06:09:28 | Weblog
南へと、歩いていくと、桜田通りに、出る。
桜田通りを、南へ。
すぐに、西へと伸びる、目黒通り。
玉名川は、そこから、さらに、南へと、遡るのだが、もう、道がないので、遡ることは、できない。
実は、その先、八芳園があり、その中に、玉名池、というのがあるそうだ。その、玉名池が、玉名川の、水源らしい。
機会が、あったら、見てみようと思う。
南側、八芳園は諦めて、北側の、上り坂を、上ってみる。
上り坂なので、そちらにも、水源があるのかな、と思ったのだ。
それに、木々が、鬱蒼としていて、いかにも、泉が、湧き出しているようにも、見えるし。
高い塀に沿って、北西へ。坂を、上っていくと、門があり、白金竹友クラブ、とある。
どうも、公園のようでは、ないらしい。
さらに、坂を上っていくと、豪邸が、建ち並ぶ、閑静な、山の手住宅地。
住宅地の中、北へ、進む。
今度は、下り坂、坂道、三光坂。
(2012年10月記)

南北線白金高輪駅(白金二丁目 立行寺)

2013-12-18 06:11:44 | Weblog
白金アエルシティを過ぎて、さらに、南へと、歩いていく。
いちおう、道路は、玉名川に、沿うように、伸びているらしい。
しばらくすると、東西に伸びる、恵比寿に至る、通り。
この道、都心とは、思えないような、長閑な、感じなのだ。緑も多く、昔と、変わらない。
そんな、通りを過ぎ、南へ歩くと、すぐに、道路の、西側、立行寺。
創建は、江戸時代前期。
しばらくして、この地に、移転している。
江戸の町の、拡大によるのだろう。
建てたのは、有名な、大久保彦左衛門、ということだ。
そして、玉名川は、立行寺山門の前を、流れていたらしい。
さらに、南へ。
玉名川の、流路を、辿る。
(2012年10月記)

南北線白金高輪駅(白金一丁目 白金アエルシティの裏通り)

2013-12-17 06:14:28 | Weblog
鄙びた商店街のような道を、南へ。
すぐに、整備された、白金アエルシティ。
煌びやかな、街並み。白亜の建物。
もっとも、それは、東半分のみ。
通りを、境にして、西側は、普通の街並み。
一頃に比べれば、整備された、街並みは、西へと、広がりつつあるのだが。
それでも、何か、不思議な感じではある。
ただ、それは、近未来的な場所と、時代に取り残された場所の、同居、という、ほのぼのとした、不思議さ、でもない。
消え行く場所と、残る場所、という感じかな。
何か、寂しい、感じではある。
再び、南へ、向かう。
(2012年10月記)

南北線白金高輪駅(白金一丁目 古い家屋)

2013-12-16 05:23:04 | Weblog
新古川橋を渡り、南へ。
すぐに、通りの、西側には、古い家屋。
すぐ近くには、煌びやかな、再開発地、白金アエルシティがあるのだが。
タイムスリップしたような、不思議な、光景。
この、古い家屋、おそらく、高度成長期の初め頃に、建てられたと思う。
当時、いや、この間までは、こうした、古い家屋が、あたりには、たくさん、あったのだ。
昭和の、取り残された、一帯。
昔は、それなりに、賑やかだったのだろうな。
高度成長が終わり、鄙びた場所になる。
そして、最近になって、一帯は、一気に、再開発され、新しくなった。
この、古い家屋を、残して。
さらに、南へと、歩いていく。
(2012年10月記)

南北線白金高輪駅(南麻布二丁目 西福寺)

2013-12-15 07:21:21 | Weblog
新古川橋を渡り、南へ、向かえばいいのだが、その前に、ちょっと、北へ。
明治通りを、渡ると、通りの、北側には、西福寺。
創建は、江戸時代前半、というところか。
当時、一帯は、大名屋敷が広がるのみ。
それ以前は、何も、なかったのだろう。
ただ、さらに、それ以前、太古の昔、台地になるので、暮らしは、あったようだ。
近くには、古川の、流れもあるし。
暮らしやすかったのだろう。
今は、山の手住宅地。
閑静な、高台。
再び、通りを、渡り、南へ。
新古川橋を、渡る。
(2012年10月記)

南北線白金高輪駅(白金一丁目 新古川橋)

2013-12-14 07:22:24 | Weblog
首都高目黒線、高度成長期に、完成してる。
河川の上、高架を、作りやすかったのかな。
古川の北には、古川に、沿うようにして、明治通り。
明治通りを、西へと、歩く。
しばらくすると、新古川橋。
昭和の初め頃に、架けられたらしい。
橋の、袂、実は、南から、流れてくる、玉名川の、合流地点になっている。
橋が、掛けられた頃は、まだ、玉名川、流れていたのだろう。
当時は、とても、長閑な、場所だったのかもしれない。
今回は、この、玉名川を、遡ってみる。
(2012年10月記)

南北線白金高輪駅(三田五丁目 首都高目黒線の高架)

2013-12-13 06:09:04 | Weblog
北へ北へと、歩いていくと、西側には、白金アエルシティ。
ちょっと前に、完成した、煌びやかな、再開発地。
この一帯では、都心に、再開発が、集中する、端緒に、なったと記憶する。
それ以前は、どうだったのだろうか。
昭和の、忘れられた、鄙びた、住宅地。
谷地は、たいてい、そうだったと、思う。
いまでも、その、痕跡が、あちこちにあって、古い、店舗や、住宅があり、懐かしい。
といっても、もう、なくなっていくのだろうけど。
そんな、一帯を、通り過ぎ、さらに、北へ。
しばらくすると、古川。
そして、その上空には、首都高目黒線の高架。
昭和の、景観としては、この首都高の、高架が、残るだけかもしれない。
(2012年10月記)

都営浅草線高輪台駅(高輪一丁目 源昌寺)

2013-12-12 06:10:15 | Weblog
桜田通り、北へ歩くと、すぐに、通りの、東側には、源昌寺。
創建は、江戸時代の初め頃。
創建の地は、今の、四ッ谷駅北東側、六番町。
程なくして、この地に、移転している。
かくのごとく、江戸時代、あたりには、寺院が、集まり始めるのだが。
一帯は、樹木谷。名前からして、幽谷な、感じ。
昔の、鎌倉街道は、ここから、少し、東側の、南北に連なる、尾根。
尾根西側の、谷地だったのだろうか。
谷地といっても、急峻ではなく、緩やかなのかもしれない。
今も、そういう地形だ。
桜田通り、再び、北へ、歩く。
(2012年10月記)