retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

中央線四谷駅(若葉二丁目 若二商店街)

2013-10-21 05:23:04 | Weblog
鮫川流路跡、北へ北へと、歩いていく。
かつては、商店街だったのだが、今、その、痕跡は、ないようだ。
ところで、このあたり、それ以前は、どうだったのだろう。
明治時代、一帯は、東京三大貧民窟の、一つだったらしい。
しかも、それら三つの中では、最大の、貧民窟。
ちなみに、残り、二つは、今の、上野駅あたりと、浜松町駅あたり。
谷底、さらに言えば、火葬場もあった場所。
貧民窟は、江戸時代から、あったらしいのだが、江戸名所図会には、そういうこと、いっさい、載っていなかったな。
そういうものなのかもしれない。
徐々に、上り坂となる道、さらに、北へ。
(2012年9月記)

中央線四谷駅(若葉三丁目 若二商店街)

2013-10-20 07:33:12 | Weblog
住宅地の中、北へ。
実は、この通り、ちょっと前は、若二商店街、という商店街だったらしい。
おそらく、高度成長期ぐらいまでは、あったかも。
ここだけではなく、どこも、同じだっただろうけど。
バブルの頃の、地図を、見ると、それでも、まだ、この先、商店街は、残っていたようだ。
商店街、衰えたとはいえ、まだ、バブルの時期まで、豊かだったので、かろうじて、存続していたのだろう。
などと考えながら、首都高新宿線、JR中央線の高架を、潜って、北側へ。
今は、普通の、住宅地。でも、かつては、谷底、という雰囲気だったのかな。
そういう場所には、下町ができて、商店街なども、開かれたりするものなのかもしれない。
さらに、北へと、歩いていく。
(2012年9月記)

中央線四谷駅(南元町 鮫河橋碑)

2013-10-19 05:49:18 | Weblog
住宅地、北へ歩くと、すぐに、東側、小さな、祠、せきとめ稲荷神社。
みなみもと町公園の、西側、あるいは、公園内の敷地なのかな。
「せきとめ」は「咳止め」なのだろうけど、おそらく、「堰止め」が、語源、かもしれない。
とすると、鮫川を、堰き止めてできた、池が、あったのかも。
そのような、話はないので、なんとも、いえないけど。
ところで、この、鮫河、という地名、どういう謂れが、あるのだろう。
実は、まったく、わからない。
江戸名所図会に、載っているので、江戸時代からだとは、思う。
ただ、江戸時代の前半からは、火葬場があったりして、あまり、賑やかな、場所とは、言えないのだが。
鮫川の流路跡に、沿って、北へと、歩く。
(2012年9月記)

中央線四谷駅(南元町 みなみもと町公園)

2013-10-18 05:22:22 | Weblog
鮫河橋坂、南へ南へと、下っていく。
下りきったところ、緑の、多い場所。
みなみもと町公園がある。
高度成長期の頃、整備されたらしい。
それ以前は、すぐ、南側に、広がる、迎賓館、あるいは、赤坂離宮の、関わりなのか、学習院の用地だったりしたようだ。
あたりは、赤坂川、別名、鮫川の、谷地。
さっきの、四谷周辺の、高台とは、対照的。
とくに、迎賓館の、煌びやかな、建物とは、別世界。
ただ、学習院の用地、ということなら、まだ、迎賓館の、雰囲気はあったのかな。
かつての、鮫川に沿って、北へ、歩いてみる。
(2012年9月記)

中央線四谷駅(四谷一丁目 四谷見附公園)

2013-10-17 05:26:15 | Weblog
外堀通り、南へ。
迎賓館の手前で、通りは、二つに、分かれる。
西側、南西へ、伸びる通り、西側には、四谷見附公園。
完成したのは、大正時代。
迎賓館が、赤坂離宮だった頃、その一部として、整備されたらしい。
赤坂離宮についてだが、江戸時代、紀州藩中屋敷だった場所に、明治時代終わり頃に、作られている。
外観は、まさに、ヨーロッパの宮殿そのもの。
豪華絢爛、煌びやか。
明治時代、日本の頂点、というところか。
四谷見附公園を後にして、さらに、南西へ。
坂を、下っていく。
(2012年9月記)

中央線四谷駅(四谷一丁目 四谷見附橋)

2013-10-16 06:10:29 | Weblog
東京駅で、中央線。
中央線は、いったん、北側へ、大きく、弧を描きながら、進んでいく。
路線が、江戸城の、外濠に、沿っているからだ。
江戸城の、外側、ぐるっと、大きく、弧を描く。
そうして、しばらくすると、四ッ谷駅。
ホームから、階段を上がると、改札があり、地上へ。
外濠の、縁なので、ホームが、地上より、下にある。
東西に伸びる、新宿通り。
外濠に架かる橋は、四谷見附橋。
もっとも、橋の下を、見ても、埋め立てられてしまったので、水面が、あるわけではない。
窪地が、あるばかりだ。
外濠の西側、南北に伸びる、外堀通りを、南へ、向かう。
(2012年9月記)

東西線大手町駅(逓信総合博物館)

2013-10-15 04:52:08 | Weblog
南北に伸びる、中央通りを、北へ。
交差点、北東側には、逓信総合博物館。
完成したのは、高度成長期の頃。
日本の、未来への発展を、象徴するような、博物館だ。
だが、その未来を、手にした現在、実は、閉館されるらしい。
跡地には、このあたりの、例に洩れず、高層オフィスビルの予定。
丸の内から、大手町、北側へと、高層ビル街は、広がり続けている。
日本橋川にまで、達したわけだが、それ以上、広がるのだろうか。わからないけど。
すぐ、東側は、山手線、中央線。
車窓からは、いつも、大手町の片隅、という感じだったな。
そういう場所も、再開発され、きれいに、整備される。
いったい、こうした、都心の、集積、どこまで、突き進んでいくのだろう。
まったく、わからない。
逓信総合博物館を、後にして、東京駅に向かう。
(2012年9月記)

東西線大手町駅(丸の内永楽ビルディング)

2013-10-14 07:12:09 | Weblog
高田馬場駅から、東西線。
大手町駅で下車。
地上に出ると、東西に伸びる、永代通り。
永代通りの、南側には、丸の内永楽ビルディング。
最近、完成した、高層オフィスビルだ。(工事中はこちら
この高層ビル以外にも、続々と、建設中。
あるいは、すでに、完成した、高層ビルもある。
いったい、いつからだろうと、思ってしまう。
バブルの頃は、それほどでも、なかったのに。
始まったのは、バブルが崩壊した後の、景気のよい頃だろうか。
世界同時不況で、一時、滞ったが、その後、また、続々と、建設されている。
そして、それが、今に、至っているのだ。
あとは、どうなっていくのだろう。
集中して、建っているので、バブルの頃のように、拡大しない。とすれば、どこかで、限界が、あるはずなんだけど。
もう、わからないな。
(2012年9月記)

銀座線銀座駅(銀座四丁目 銀座シネパトス)

2013-10-13 06:39:45 | Weblog
西船橋駅周辺が、交通の要衝であるにもかかわらず、再開発されないのは、一帯が、古い、歴史を、持つからなのかもしれない。
どうかわからないが、いずれにしろ、あまり、昔とは、変わらないので、なんとなく、ほっとする。
西船橋駅から、東西線。日本橋駅で銀座線に乗換える。
銀座駅で下車。
南東に伸びる晴海通りを、南東へ。
すぐに、映画館、銀座シネパトス。
なぜか、道路の下に、ある。
かつては、三十間堀川に架かる、三原橋、だったのだが、三十間堀川が、埋め立てられ、橋の下の、空間が残り、その空間が、映画館に、なったらしい。
さっそく、館内へ入る。
上映されていたのは、「駅 STATION」。
懐かしい映画だ。お約束のシーンでは、館内、笑いも、起こったりする。
ゆっくり、走っていく列車は、人生。
駅があれば、その列車は、しばし、そこで、停車する。
でも、その停車は、やはり、一時的。再び、走り出す、列車。
後に、過ぎ去っていく、駅。
駅は、思い出なのだろうか。
そういえば、銀座シネパトス、近々、閉館になるらしい。
銀座シネパトスも、過ぎ去っていく、駅。
そういうことかもしれない。
映画が終わった後、足早に、銀座駅へ。
(2012年9月記)

東西線西船橋駅(西船橋駅北口駅前広場)

2013-10-12 07:10:51 | Weblog
江戸名所図会を見ると、このあたり、宝成寺、そして、葛飾明神社が、描かれている。
現在の、宝成寺は、京成電鉄の、北側にあり、葛飾明神社は、南側。
それらを、結んでいる、道路が、あったようだ。
もっとも、江戸名所図会からは、どうも、位置関係が、判然としない。再び、訪れ直した方が、いいのかも。
ちなみに、現在の、葛飾神社は、勝間田公園の、西側にある。
とすると、江戸時代、勝間田の池の、西側に、葛飾明神社があったはずなのだ。
でも、勝間田の池、西側の畔にあったのは、熊野神社。
ただ、その、熊野神社は、今は、ない。
いったい、どうなっていることやら。
やはり、もう一度、訪れた方が、いいようだ。
などと、考えているうちに、千葉街道を、越え、再び、西船橋駅近く。
もう、帰ることにする。
(2012年9月記)