retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

京浜急行線新馬場駅(南品川一丁目 海徳寺)

2013-07-21 07:09:08 | Weblog
目黒川の南岸には、海徳寺。
創建は、江戸時代になる前。
時代の、移り変わり、ということか。
当時は、江戸時代にはあった、東海道、まだ、開通は、していなかっただろう。
とすると、目黒川に架かる、橋も、なかったかもしれない。
あるとすれば、ここから、上流、居木橋。
当時、どうなっていたのか、もはや、わからない。
目黒川河口には、品川湊があったので、なにもなかった、というわけでもないのだろうけど。
江戸時代になると、湊は、北側の、江戸湊へ、移る。
ただ、そのかわり、東海道が、開通。品川宿も、設置され、寂れるということは、なかっただろう。
再び、橋を、渡って、目黒川の、北岸へ。
(2012年8月記)

京浜急行線新馬場駅(北品川二丁目 目黒川 鎮守橋を臨む)

2013-07-20 04:34:40 | Weblog
第一京浜を渡ると、景観は、一変する。
木々が、多く、生い茂る、昔の、風景。
昭和の時代に、取り残されたような街並みだ。
目黒川沿いを、東へと、歩いていく。
目黒川には、鎮守橋、そして、その向こうには、品川橋。
品川橋の方は、江戸時代、東海道が、通っていた、橋だ。
東海道が、開通した折、架けられたのだろう。
鎮守橋は、昭和の初め頃に、架けられた、ということだ。
目黒川北岸の、荏原神社のためらしい。
橋自体も、神社の、参道を、意識した、ちょっと、華やかな、デザイン。
荏原神社の、こんもりとした、鎮守の森、昭和の街並み、趣のある橋、そして、ゆったりと流れる、目黒川。
昔も、そうだったに違いないけど、今も、けっこう、風光明媚だな。
鎮守橋の西側、荏川橋を渡って、目黒川の、南岸に、行ってみる。
(2012年8月記)

京浜急行線新馬場駅(北品川三丁目 目黒川 東海橋と新馬場駅を臨む)

2013-07-19 04:50:54 | Weblog
これほどまでに、江戸時代、盛んだった、東海禅寺なのだが、今は、目黒川沿い、狭い、寺域。
明治時代になって、周囲を、かなり、削られてしまったらしい。
時代の、移り変わり、ということか。
さっき、訪れた、恐竜のいる、子供の森公園も、かつては、東海禅寺なのだが、でも、公園だから、それほど、変わりはないのかも。
山手通り、再び、東へ。
しばらくすると、南北に伸びる、第一京浜との、交差点。
南へ曲がり、そのまま、南へ。
すぐに、目黒川に架かる、東海橋。
目黒川沿い、少し、西に、歩いてみる。
川辺に、近付き、東側を、見やると、東海橋、そして、その、向こうには、京浜急行新馬場駅の、駅舎。
京浜急行、というと、もう、海岸は、近い。
(2012年8月記)

山手線大崎駅(北品川三丁目 東海禅寺)

2013-07-18 05:12:45 | Weblog
東へ、向かうと、すぐに、東海禅寺。
寺域そのものは、通りの奥、南側、目黒川沿いにある。
創建は、江戸時代の前半。
有名な沢庵和尚の寺院。
江戸名所図会を、見ると、かなり、広い。
一見しただけでは、どのくらい、広いのか、わからないくらいだ。
江戸名所図会によると、まず、第一京浜沿いの、岡の上に、品川神社、そして、その南側、岡の麓に、清徳寺。
さらに、その、南側には、もう、東海禅寺の、門が、ある。
入っていくと、巨大な、山門、そして、本堂。
南側には、目黒川が、流れ、目黒川には、要津橋が、架かる。
要津橋は、今も、あるが、橋を、渡った先に、南門、とあるので、目黒川は、東海禅寺の、寺域の中、流れていたのだ。
一方、本堂の、北側には、大きな、浴鳳池が、広がっている。
西側は、今の、山手線の、東側、東海禅寺の墓所が、あるあたりまでか。
ということは、このあたり一帯、ほとんどは、東海禅寺の、寺域だったことになる。
江戸時代は、かなり、東海禅寺、盛んな様子だったようだ。
(2012年8月記)

山手線大崎駅(北品川三丁目 区立子供の森公園)

2013-07-17 06:07:50 | Weblog
山手通りを、南へ。
すぐに、山手線の、高架を、潜る。
また、再び、目黒川に、沿うようにして、山手通りは、向きを、東へ。
今度は、東海道線の、高架を、潜る。
しばらく、歩いていくと、通りの南側、区立子供の森公園。
名前の通り、木々が多い。
そして、その、木々の間には、いくつもの、恐竜の、オブジェ。
本当に、恐竜が、佇んでいるようで、楽しい、仕掛けだ。
恐竜というと、バブルが崩壊して以降、ずっと、人気がある。
昔、恐竜のイベント、幕張に行ったことを、思い出すなあ。
幕張の、巨大過ぎる、イベント会場が、まさに、巨大な、恐竜と、重なる、イメージ。
そんな、昔のことを、思い出しながら、公園の、森を、出て、東へと、向かう。
(2012年8月記)

山手線大崎駅(北品川五丁目 居木橋)

2013-07-16 03:54:24 | Weblog
高層ビルは、建つとすれば、二棟ぐらいだろうか。
完成したら、再度、訪れてみよう。
目黒川、西岸を、南へと、歩いていく。
高層ビルが、建ち並んでいるが、以外にも、緑が多い。
さらに、南へと、進むと、東西に伸びる、山手通り。
目黒川には、居木橋が、架かる。
珍しい、名前だが、由来は、わからない。
ひょっとすると、かなり、古い橋、なのだろうか。
目黒川の、河口には、太古の昔、品川湊が、あったのだが、その、品川湊と、国府、今の、府中を、結ぶとすれば、居木橋を、通ったかもしれないからだ。
また、一帯の地名も、今は、大崎だが、本当は、居木。
昔から、ある名前だと、本当に、その、由来は、わからなくなってしまう。
居木橋を、渡り、東へ。
山手通りは、すぐに、南へと、向きを、変え、目黒川の、東岸を、沿うように、伸びている。
(2012年8月記)

山手線大崎駅(北品川五丁目再開発工事現場)

2013-07-15 07:19:57 | Weblog
高田馬場駅で山手線。
大崎駅で下車。
久しぶりのような気がする。
あれだけ、高層ビルが、建ってきたのに、ここにきて、落ち着いてきたから、訪れる機会が、減っているのだ。
いつものように、駅東側、ペデストリアンデッキ。
大崎ニューシティへ。
昔は、頻繁に、訪れたものだなあ。
大崎ニューシティの東側に出ると、南へと、目黒川が、流れている。
目黒川の、さらに、東側を、見やると、広範囲、工事中。
北品川五丁目再開発の工事現場だ。
まだまだ、大崎駅周辺の、再開発は、続いている。
もっとも、これが、最後、かもしれない。
そう考えると、ちょっと、寂しい気持ちがするけど。
とりあえずは、今、少し、再開発は、続く。
(2012年8月記)

京王線笹塚駅(笹塚一丁目 笹塚駅前再開発)

2013-07-14 04:56:17 | Weblog
幅広で、交通量の多い、甲州街道。上空には、首都高新宿線の高架。
京王線の代田橋駅が、近くにあるとは、感じられない。
そういえば、和泉明店街は、この近く。
駅前商店街だったわけだ。
和泉川跡を、辿ったとき、通った、六号通り、十号通り、というのも、それぞれ、幡ヶ谷駅、笹塚駅の、駅前商店街なのかもしれない。
さらに、東へ東へと、歩いていく。
実は、代田橋駅でも、よかったのだが、駅は、どこだろうと、思っているうちに、通過してしまったのだ。
歩いていくうち、また、ちょっと、賑やかな感じ。
甲州街道を、渡って、南側に、行ってみる。
すると、はたして、笹塚駅前、だった。
気付かなかったら、このまま、新宿付近まで、歩いたかもしれない。
さっそく、京王線笹塚駅へ。
すると、駅南側で、広範囲、工事中。
どうやら、再開発が、始まるらしい。
始まったら、今度は、笹塚駅を、訪れるわけか。
その時に、思いを馳せつつ、笹塚駅から、帰途に着く。
(2012年8月記)

京王線代田橋駅(和泉一丁目 甲州街道 代田橋駅近く)

2013-07-13 08:08:35 | Weblog
給水場が、なんで、こんな場所にあって、どの地域に、ここから、配水しているのか、よく、わからないが。
わかっているのは、昭和の初め頃、玉川上水新水路は、なくなり、代わりに、水道管が、甲州街道の、下を、通るようになった、ということ。
ただ、今も、そうなっているのか、わからない。
甲州街道に出て、東へ。新宿方面に、向かう。
ところで、そういえば、和泉川を、辿っていたのだっけ。
このあたり、江戸時代には、玉川上水、明治時代には、玉川上水新水路、昭和になって、和泉給水所、玉川上水新水路が、なくなってからは、水道道路。
もはや、今となっては、跡形も、ないだろうな。
おそらく、このあたりの尾根、北斜面から、泉が、湧き出していて、そのまま、尾根に、沿うようにして、東へと、流れ下っていたのだろう。
そんな、昔に、思いを馳せて、歩いているうちに、代田橋駅まで、来てしまう。
(2012年8月記)

京王線代田橋駅(和泉二丁目 都水道局和泉給水所)

2013-07-12 04:42:41 | Weblog
さらに歩いていくと、住宅地の中、忽然と、和泉川跡は、消えてしまう。
富士見丘高校のように、迂回したら、まだ、その先にある、という感じではない。
なんとか、見つけようとしていたら、再び、玉川上水新水路跡の、道路。
仕方がないので、玉川上水新水路跡の道路を、進むことにする。
尾根筋というわけではなく、ごく、普通の道だ。
西へ、西へと、歩いていくと、やがて、甲州街道と、合流。
道路は、合流するのだが、かつて、あった、玉川上水新水路は、ここらへんで、玉川上水が、分流していたらしい。
玉川上水自体が、尾根筋を、流れていたので、そこから、分流していた、玉川上水新水路も、土手を築き上げて、川筋を、尾根にしたのだろう。
ただ、玉川上水と、玉川上水新水路との、分流地点には、その、痕跡はない。
今、あるのは、巨大な、二つの、タンクを擁した、都水道局和泉給水所が、あるだけ。
(2012年8月記)