retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

山手線巣鴨駅(巣鴨三丁目 真性寺)

2013-06-10 04:52:36 | Weblog
東へと、歩いていくと、次第に、賑やかになり、程なくして、真性寺。
創建は、わからない。
さっき、訪れた、子安天満宮のことを、考えると、江戸時代の、初め頃、と言いたいところだが。
もっと、以前から、あったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
あるいは、もともと、太古の昔、祭祀の場、だった場所に、真性寺が、建てられたのかもしれない。
今となっては、もはや、わからなくなってしまった。
ただ、江戸六地蔵の、一つが、真性寺にあり、やはり、江戸を、代表する、寺院であったことは、間違いない。
今も、けっこう、賑わっているし。
さらに、東へと、向かう。
(2012年8月記)

山手線大塚駅(北大塚一丁目 子安天満宮)

2013-06-09 07:03:06 | Weblog
住宅地の中、山手線に沿って、さらに、東へと、歩いていく。
しばらくすると、北側には、子安天満宮。
創建は、江戸時代の、直前ぐらい。
おそらく、一帯が、開拓された頃だろう。
どこが、開拓されたのか、というと、子安天満宮が、ある場所が、高台として、その、麓、だろうか。
麓、だと、さっき、歩いてきた、大塚駅周辺。
谷端川流域で、幅広の、谷地になっている。
あたりは、江戸時代、巣鴨本村、つまり、巣鴨の、もとの村、だったので、それは、あり得る。
ただ、今の、巣鴨は、もとの、巣鴨の、範囲内だったかもしれず、いいのだが、もとの、巣鴨が、今は、大塚、というのも、不思議な、感じだ。
駅名が、たまたま、大塚になってしまったので、仕方がないのだろうけど。
住宅地の中、再び、東へと、歩いていく。
(2012年8月記)

山手線大塚駅(ザ・タワーレジデンス大塚)

2013-06-08 04:49:48 | Weblog
昭和の初め頃、あれだけ、盛んだった、大塚駅周辺。
高度成長期、一気に、池袋に、その地位を、明け渡してしまう。
その後は、繁華街、というよりも、歓楽街。
街並みは、かつての、五反田に、似ているだろうか。
居酒屋と、ちょっと、危険な感じの街。
ただ、そのような、歓楽街の、賑わいも、バブルが、崩壊した後、ゆっくり、消えていく。
五反田、あるいは、日暮里なども、同じ。
そして、現在、そうした、街は、再整備されて、きれいな、街並みに、なっていく。
どこも、同じだ。
駅北側駅前広場から、東へ。
住宅地に、入っていくと、程なくして、通りの、北側、ザ・タワーレジデンス大塚。
最近、完成した、高層住宅。(工事中はこちら
大塚駅近くの、再開発、さらに、言えば、再整備の、一環、なのだろう。
(2012年7月記)

山手線大塚駅(北大塚一丁目 大塚ビル)

2013-06-07 04:19:53 | Weblog
北口駅前広場の東側に、大塚ビル。
一見すると、なんの変哲もない、ビルなのだが。
実は、このビル、昭和の初め頃、白木屋デパートの建物。
当時としては、最先端の、商業施設だ。
南口は、老舗の料亭、北口は、時代の、先駆け、というわけかな。
建物北側に、突き出した、広告塔。
これも、デパートだったときは、装飾的な、尖塔になっていたらしい。
ちょっと、中を、通り抜けてみたが、かつての、デパートだけあって、重厚な、作りになっている。
もっとも、それ以外、もう、昔日の、面影は、残っていないけど。
他に、高島屋も、あったらしい。
ただ、こちらは、どこにあったのだろうか。
もう、今となっては、わからない。
大塚ビル、かつての、白木屋デパートを、後にして、東へ向かう。
(2012年7月記)

山手線大塚駅(大塚駅北口駅前広場)

2013-06-06 06:09:04 | Weblog
高田馬場駅から山手線。
大塚駅で下車。
以前と比べ、駅舎が、ずいぶんと、きれいになった。
以前は、下町、という感じだったけど。
駅北側に、出る。
駅南側も、そうなのだが、駅の規模に対して、不釣合いなほど、広い、駅前広場。
実は、その昔、昭和の初め頃、まだ、池袋が、栄える前、一帯の、中心は、大塚駅だったらしい。
そういうわけで、駅前広場が、立派なのだ。
大塚駅近くが、栄えていた頃の、名残り、とも、いえる。
南口には、料亭が、建ち並び、かなり、賑わっていたらしい。
その、痕跡は、今でも、ある。
北口にも、痕跡は、あるのだろうか。
少し、歩き回ってみる。
(2012年7月記)

東急大井町線等々力駅(等々力一丁目 目黒通り拡幅工事現場)

2013-06-05 06:10:08 | Weblog
目黒通り、そのまま、先細りで、多摩川沿い、多摩堤通りに、行き当たる。
現状は、行き止まりのままだが。
将来は、橋が、架かり、川崎市、南武線武蔵新城駅の東側、南北に伸びる、通りに、結ばれると、思われる。
ただ、開通、さらに、橋梁の、架橋は、いつになることやら。
もし、全面的に、開通すれば、川崎方面から、かなりの、クルマが、都心へと、向かって行くことになるだろう。
そうなると、今のような、長閑な、大通り、ではなくなる。
それが理由で、なかなか、開通しない、というわけでも、ないのだろうけど。
もう、帰ることにする。
今度は、目黒通りを、北へ。
坂を、上っていく。
等々力渓谷が、天然の地形なのか、土木工事の、結果なのか、まだ、わからないな。
いつか、調べてみたいものだけど。
再び、ここに来るのかどうか、わからない。
等々力駅を目指して、坂を、上り続ける。
(2012年7月記)

東急大井町線等々力駅(等々力一丁目 目黒通り拡幅工事現場)

2013-06-04 04:37:24 | Weblog
目黒通り、南へ、向かうと、下り坂。
多摩川が、近いからだろう。
下るに従い、今まで、広々とした、道幅が、狭くなっていく。
まだ、拡幅中、といったところ。
目黒通りは、未完成らしい。
ところで、実は、さっき、御岳山古墳を、訪れたのだが、どうも、古墳とは、思えず、もっと、別を、探そうと、思って、こうして、歩いてきたのだ。
ちょっとした、空地を、見つけると、古墳かと思って、近付いてみるが、まったく、違う。
古墳、台地の上には、あっても、台地の下には、ないらしい。
目黒通りも、台地の下は、先細りだ。
だから、クルマは、それほど、入ってこない。
都心に、クルマで、出て行くには、便利なのだろう。
これではまるで、このあたり一帯の、専用道路みたい。
さらに、目黒通りを、南へ、歩く。
(2012年7月記)

東急大井町線等々力駅(等々力一丁目 御岳山古墳)

2013-06-03 04:24:09 | Weblog
目黒通りの、東側には、御岳山古墳。
すっかり、叢林に、覆われ、古墳とは、気付かないが。
いちおう、柵で、囲われているものの、それ以前に、鬱蒼と、草木が、生い茂っているので、そもそも、立ち入るのは、難しい。
きれいに、整備して、公園のようにするのが、いいのか、このように、荒れるがままでも、静かな方がいいのか、わからないけど。
とりあえず、まわりを、歩いてみる。
雑木林と、変わらない。
それよりも、周囲、山の手住宅地の、閑静な様の方が、印象的だ。
今も、昔も、山の手、台地は、暮らしやすい、ということか。
ところで、御岳山古墳、についてだが、作られたのは、おそらく、奈良、平安時代の前ぐらい。
中央集権が、この地に、及ぶ前、だろう。
及んで以降は、崖地に、横穴古墳を、作るように、なったようだ。
目黒通りに、再び、出て、南へ、向かう。
(2012年7月記)

東急大井町線等々力駅(等々力一丁目 等々力不動)

2013-06-02 07:14:53 | Weblog
崖を、上って行き、台地の上に出ると、そこには、等々力不動。
こちらも、なかなかの、賑わい。
歴史遺産として、有名なのだろう。
ただ、不動の滝、同様に、とくに、江戸名所図会に、記載は無い。
実際、創建も、はっきりとは、わからない。
等々力、という地名が、それほど、古くはないことを、考えると、等々力不動尊も、同様に、あまり、古くはないのかも。
ひょっとすると、江戸時代初めか、直前ぐらいだろうか。
それ以前、太古の昔から、祭祀の場が、残ってはいたにしても。
ひょっとすると、江戸時代になる前後に、あたりが、開拓されたのかもしれない。
等々力不動を後にして、東へ。
目黒通りに出る。
(2012年7月記)

東急大井町線等々力駅(等々力渓谷 不動の滝)

2013-06-01 07:32:51 | Weblog
等々力渓谷横穴古墳。
作られたのは、おそらく、平安時代以前頃か。
さらに、等々力渓谷、歩いていくと、有名な、不動の滝。
今は、水量、少なくて、往時の、面影はないが、なかなか、壮観な、眺めだ。
ただ、有名なのではあるけど、江戸名所図会には、でてこない。
王子の、音無渓谷については、載っているのだが、等々力渓谷について、載っていないのは、不思議な気がする。
ところで、等々力、という、地名、江戸時代の前。
それほど、古くは、ないらしい。
等々力渓谷を、流れる、水流の、音に、因んで、等々力、ならば、もっと、古くから、地名として、あってもよさそうなものだが。
他にも、池や、弁財天など、あちこち、見て回る。
(2012年7月記)