retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

中央本線甲府駅(朝日五丁目 窪田酒店)

2013-02-08 04:10:12 | Weblog
御崎神社の鳥居を出て、東へ。
南北に伸びる、道路、南へ、歩く。
ほどなくして、さっきの、交差点。
東側には、喜久乃湯温泉、西側には、近く、太宰治旧居跡。
たしかに、ちょっとした、散歩なら、御崎神社は、丁度いい。
交差点から、さらに、南へ。
しばらくすると、東西に伸びる、山手通り。
山手通りの、南側には、窪田酒店がある。
看板が、出ていないので、あるいは、廃業してしまったのかもしれない。
この、窪田酒店、太宰治が、日本酒を、買っていた、ということだ。
こうして見ると、あばらやにしか見えないのだが、おそらく、その頃は、それらしい、建物だったと思われる。
戦災で、なくなり、戦後、急ごしらえで、復旧して、そのまま、という、感じ。
近くには、今は、ないが、豆腐屋もあり、そちらも、太宰治が、行きつけにしていたらしい。
おそらく、他にも、店が、並んでいたことだろう。
夕方、3時になったら、自宅での、仕事、切り上げて、山手通り、酒と、豆腐を、買い、喜久乃湯温泉で、汗を、流す。
そして、夜は、湯豆腐と、酒を、楽しむ。
そんな、一日だったのかな。
(2012年5月記)

中央本線甲府駅(美咲二丁目 御崎神社)

2013-02-07 06:10:19 | Weblog
北へ歩いていくと、住宅地は、途切れ、さらに、北側は、広大な、学校等の、敷地。
徐々に、上り坂に、なっていく。
太宰治が、暮らしていた、当時は、陸軍の、兵営が、あったようだ。
そのまま、坂を、上っても、学校しかないので、引き返し、南へ。
別の、道に入り、下っていくと、御崎神社。
実は、御崎神社に行くために、北へ、向かったのだが。
創建は、わからない。
由緒についてだが、もとは、北側、戦国時代の、甲斐武田氏の、居城に、あった、ということだ。
城が、なくなったためか、あるいは、一帯の、中心が、麓、南へと、移ったためか、御崎神社も、南側、この地に、移転している。
境内は、古い感じ。
あるいは、戦災には、遭っていないのかもしれない。
とすると、近くに、住んでいた、太宰治、しばしば、御崎神社に、足を、運んでいた、ということだから、当時、そのままを、今に、伝えている、ということになる。
そう考えると、なんとも、不思議な、感じだ。
(2012年5月記)

中央本線甲府駅(朝日五丁目 太宰治旧居跡)

2013-02-06 03:55:12 | Weblog
さらに、西へ。
すぐに、交差点。
その交差点を過ぎて、ほどなくすると、太宰治の、旧居跡がある。
喜久乃湯温泉には、道一本、歩いても、ごく近い、場所。
風呂に入るには、便利だ。
実際、午後の、3時まで、自宅で、執筆し、その後は、喜久乃湯温泉、湯に、浸かっていたらしい。
それまでの、破滅的な、生活ぶりからすると、ずいぶんと、落ち着いた、規則正しい、暮らしだ。
ひょっとすると、荒んだ生活や、苦しい葛藤は、創作には、いいのかもしれないが、それを、小説という、作品に、仕上げるためには、こうした、生活の、安寧が、必要なのかもしれない。
現に、太宰治の、評価を、決定付けるような作品が、この、甲府の地から、生まれ始めているのだ。
さっきの、交差点に、戻り、北へ向かう。
(2012年5月記)

中央本線甲府駅(朝日町五丁目 喜久乃湯温泉)

2013-02-05 06:08:24 | Weblog
西へ、歩いていくと、すぐに、通りの、南側、喜久乃湯温泉。
温泉、となっているが、銭湯、のようなものなのだろう。
この、銭湯、実は、小説家の、太宰治が、通った、ということで、有名なのだ。
創業は、昭和の、初め頃。
都心では、郊外が、生まれた時期。
遠く、甲府の地でも、市域が、拡大し、規模は、小さいが、郊外が、誕生していたわけか。
それどころか、日本全国、同じような、ことが、起こっていたに、違いない。
甲府、について言えば、さっき、渡った、東西に、伸びる通りよりも、北側に、住宅地が、広がり、こうして、銭湯も、開業したのだろう。
そういえば、その、東西に伸びる通り、山手通り、という名前。
甲府駅南口を、下町、とすれば、高台にあるので、たしかに、山の手、なのかな。
ただ、通りの北側、ここらへんは、閑静ではあっても、高級住宅地、ではなく、街外れ、という感じがする。
ひょっとしたら、山手通りの、南側が、甲府の街の、山の手、なのかもしれない。
わからないけど。
それはそれとして、甲府の街に、新興の、住宅地が、開かれ、銭湯が、開業。
その後、しばらくして、太宰治が、新居を構えることになった、というわけだ。
(2012年5月記)

中央本線甲府駅(天神町 玄法院)

2013-02-04 06:09:28 | Weblog
鄙びた、静かな、住宅地。
すぐに、玄法院。
寺院が、多い。
やはり、江戸時代以前の、創建、だろうか。
そういえば、戦国時代、有名な、甲斐武田氏。その拠点は、はるか、北側に、あったらしい。
とすると、城下町も、北側だったのだろうか。
ちょっと、わからない。
行ってみれば、わかるかもしれないが、バスで、行くしかないようだ。
時間が、ないので、諦めるしかない。
ちなみに、それ以前は、甲斐の国の中心、もっと、東側に、あったようだ。
国府跡、国分寺跡、それに、一の宮も、そちらに、ある。
もっとも、そちらも、行くのは、無理だな。
訪れることが、できない、場所ばかりが、増えるていくようだが、それは、仕方のないこと。きりがないし。
行けなかった場所は、そのままに、しておく方がいい。
田舎びた、静かな、宅地の中、さらに、西へと、歩いていく。
(2012年5月記)

中央本線甲府駅(朝日四丁目 浄興寺)

2013-02-03 07:04:25 | Weblog
ペデストリアンデッキの、端まで行き、地上に、降り立つ。
道路は、まだ、整備中。
幅広の、快適な、通りになり、そして、都心部にある、どこぞの、お店が、並ぶのであろうか。
甲府に来ることは、もう、ないだろうし、そもそも、そんなことに、興味もないので、どうでも、いいことだけど。
大通りを、北へ北へと、歩いていく。
すぐに、街並みは、地方らしい雰囲気へ。
しばらくして、西へ、曲がり、そのまま、西へと、進む。
北側には、小学校の、敷地。
また、しばらくして、再び、北へ。
北へと、歩いていくと、東西に、伸びる、大通り。
この、通りまでが、甲府の街の、北限か。
そこからは、住宅地。
さらに、北側は、山間と、なっていく。
とりあえず、大通りを、西へ。
すぐに、北側には、浄興寺。
こちらも、創建、由来は、どうにも、わからない。
ただ、江戸時代より前、甲斐武田家の頃は、ここより、もっと、北側。
当時は、中心が、そちらの方だったので、ひょっとすると、その頃、創建されたのかもしれない。
東西に、伸びる、通りから、北へと、入ってみる。
(2012年5月記)

中央本線甲府駅(甲府駅北口のペデストリアンデッキ)

2013-02-02 07:05:15 | Weblog
甲府駅に着く。
以前、来たときは、工事中だったように記憶しているが。
構内は、すっかり、こぎれいに、まとまった感じ。
とりあえず、お腹が空いたので、何か、食べよう。
できれば、地元でしか食べられないものがいいな、と思いつつ、立ち食いのそば屋。
入ってみると、都心にある系列店そば屋だった。
メニューもほとんど同じ。
かろうじて、鳥もつ煮、というのが、あったので、それを、食べる。
食べ終わり、改札を抜け、甲府駅北口へ。
以前、来たときには、一帯は、工事中、だったな。
それが、ほとんど、完成していた。
四囲に、広がる、ペデストリアンデッキ。
なんのことはない、これは、都心郊外の風景、そのまま。
おそらく、駅南側が、旧市街で、北側が、新市街。
何もないところを、再開発したのだろう。
ペデストリアンデッキを、北へと、歩いていく。
(2012年5月記)

身延線東花輪駅(東花輪駅駅舎)

2013-02-01 06:10:04 | Weblog
実は、降り際に、時刻表を、見ていて、列車が、来る、時間は、わかっていたのだが、山王団地、意外と、遠くにあり、結局、間に合わなかった。
それにしても、時刻表、見ると、やはり、クルマの方が、便利だな、と思えてしまう。
これでは、出かける時間が、決まっていないと、移動手段としては、難しい。
時間があるときの、のんびりした、旅なら、いいけど。
しばらくして、やってきた、列車に、乗り込む。
走り出した、列車に、揺られていると、偶然、車窓に、映画「サウダーヂ」冒頭で、でてきた、ラーメン屋。
ちょっと、違うかもしれないが。
ただ、そういえば、映画の中、電車は、まったく、出てこなかったな。
都心部を、舞台としていたなら、踏切、ホーム、あるいは、電車の中、そういうシーンは、必ず、あるものだ。
出てこない、ということは、余程、鉄道が、生活に、密着していないからだろう。
そういえば、この間、来たときは、中央自動車道の、高速バス停から、延々と、甲府駅まで、歩いたのだ。
そちらの方が、甲府の、街中、という感じがしたな。
そんなことを、考えているうちに、列車は、甲府の街に、入り、駅ホームへ。
(2012年5月記)