retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

中央線阿佐ヶ谷駅(阿佐谷南二丁目 中央線高架)

2012-07-11 04:01:34 | Weblog
緑道は、徐々に、北側に、向きを、変えつつ、北西方向へ。
道なりに、進んで行くと、中央線の、高架に、行き当たる。
いつもは、中央線の車窓からしか、高架を、見ないのだが、こうして、地上から、見上げると、まるで、巨大な壁のようだ。
ちなみに、中央線の高架、完成したのは、高度成長の頃。
まずは、中野から、荻窪まで。次いで、荻窪から、三鷹。
たしか、複々線化も、同時期だったと思う。
大規模な、再開発だったわけだが、ただ、それは、中央線が、あたかも、この一帯の、上空を、飛び越えてしまうような、そんな、開発だったのかもしれない。
もしかすると、中央線から、取り残されたおかげで、長閑かな住宅地、維持されたのかな。
でも、バブルの崩壊以降、都心部に、再開発が、集中してきている。
都心部に近い、このあたり、いつまで、長閑なままなのか、わからない。
中央線の高架下を潜り、再び、歩き始める。
(2011年10月記)

中央線高円寺駅(阿佐谷南二丁目 馬橋稲荷神社)

2012-07-10 03:15:35 | Weblog
しばらく、西へ、歩いていくと、住宅地の中、南側に、馬橋稲荷神社。
創建は、近くに、鎌倉街道があるので、鎌倉時代あたりか。
意外と、古い。
神社の名前の、馬橋、というのは、あたりの、地名から、と思われる。
馬橋、というと、どうしても、常磐線沿線、松戸から先の、馬橋を、思い出してしまうけど。
たしか、そちらは、川に架かる、馬橋、という、橋から、きているらしい。
とすると、こちらの、馬橋も、同じだろう。
桃園川を、鎌倉街道が、越えるところに、架かっていた、橋が、馬橋、だったのではないだろうか。
ちなみに、先ほど、訪れた、高円寺、地名が、高円寺になる前は、小沢、という場所だったらしい。
小沢とは、もちろん、桃園川のこと。
このように、見てくると、桃園川が、このあたりにとって、とても、重要な存在だった、ということがわかる。
緑道に、戻り、さらに、西へと、歩いていく。
(2011年10月記)

中央線高円寺駅(高円寺南三丁目 エトアール通り商店会の路地裏)

2012-07-09 05:02:19 | Weblog
高円寺駅南口を、西へ。
南へ伸びる、アーケードもあり、賑やか。
なんとなく、総武線沿線の、下町に、雰囲気は、似ている。
それもそのはず、関東大震災や、大空襲の後、総武線沿線、城東の下町から、移住してきた住民が、多いからだ。
中野、高円寺、荻窪、あるいは、吉祥寺、国分寺、なんてのも、そうかもしれない。
ただ、総武線沿線と、ちょっと、違う点は、山の手住宅地が、近接しているところだろうか。
あと、町工場なども、中央線沿線には、存在しない。
そのことが理由かどうか、わからないけど、ここらへんの、下町商店街、歓楽街には、ならなったようだ。
その代わり、妙に、文化的な、雰囲気がする。
高円寺だと、学生の頃、よく、古本屋に、通ったものだが、必要な本が、その、古本屋にしかなかったのだ。
そのような希少な、本を扱うような、古本屋でも、まわりの山の手の、客層に、支えられて、維持が、可能なのだろう。
そんな高円寺の商店街を、抜け、さらに、西へ。
(2011年10月記)

中央線高円寺駅(高円寺南四丁目 高円寺)

2012-07-08 05:15:17 | Weblog
環状7号線の西側は、住宅地なのだが、同時に、高円寺駅の近く。
そういうわけで、歩いていくほどに、だんだん、駅前特有の、繁華な、雰囲気が、増してくる。
そんな中、しばらくすると、北側、やや離れたところに、高円寺。
高円寺があるから、地名が、高円寺、なのだろう。
ところで、高円寺の本尊、かつては、桃園観音堂、とよばれていたようだ。
もっとも、桃園川沿いなので、桃園観音堂、というわけではない。
むしろ、逆、だと思う。
今の、中野駅近くにあった、広大な、桃園。犬の飼育場の跡地に、作られたわけだが、どうやら、その、桃の木、高円寺境内に、多くあった、桃の木らしい。
境内に、多くの、桃の木が、植わっていたので、桃園観音堂、なのだ。
ただ、高円寺と桃の木との、関わりは、わからない。
再び、桃園川跡の緑道に戻り、西へ向かう。
(2011年10月記)

中央線高円寺駅(高円寺南四丁目 環状7号線)

2012-07-07 07:09:52 | Weblog
住宅地の中、緑道は、まだまだ、続く。
延々と、歩き続けていると、やがて、南北に伸びる、交通量の多い、幅広の、環状7号線。
高度成長の時期、オリンピックに、備えて、開通した印象が、強いが、実は、もっと、昔から、工事は、始まっていたらしい。
ただ、実際には、本格的に、工事が、始まったのは、やはり、オリンピックが、契機なので、それでも、いいのだが。
ちなみに、当時、高度成長期の頃、あたりの、写真を、見ると、本当に、地方、という、感じ。
まだ、あちこちの、道路は、舗装されていないし。
そのような、場所に、幹線道路を、開通させたとすれば、それは、英断、ということ、なのかもしれないが。
でも、結局は、時代の方が、早かったのかもしれない。
たしか、バブルが崩壊した時期でも、いまだに、足立区、江戸川区あたりで、立体交差の、工事を、やっていたと、記憶している。
環状7号線を、歩道橋で、越え、西へ。
桃園川跡の緑道を、歩き続ける。
(2011年10月記)

中央線中野駅(中央四丁目 桃園川跡の緑道)

2012-07-06 05:08:18 | Weblog
最初は、けっこう、大きな、マンションが、まわりに、建っていたが、西に、行くに、したがい、だんだん、小さくなっていく。
さらに、進んで行くと、ついには、普通の、家屋しか、なくなった。
まだ、郊外、というわけでもなく、都心によくある、住宅街、といったところだが。
ところで、今歩いているのは、桃園川跡地の緑道なのだが、では、桃園、というのは、どういう、謂れなのだろう。
その昔、江戸時代、今の、中野駅周辺には、広大な、犬の飼育場が、あったらしい。
有名な、生類憐みの令に、よって、多くの、犬が、飼われていたのだ。
時代が変わり、生類哀れみ令が、廃止されると、犬の飼育場は、不用となってしまう。
そして、その後、広大な跡地には、桃の木が、植えられ、いつしか、桃園、になった。
とすると、今の、大久保駅あたりには、つつじの山。さらに、その、西側一帯には、桃の園が、広がっていたわけだ。
江戸時代の後半、一帯は、とても、風光明媚な、場所だったに違いない。
江戸の町からみると、ここらへんは、手頃な、観光名所だったのかな。
さらに、緑道を、西へと、歩いていく。
(2011年10月記)

丸の内線西新宿駅(中央二丁目 宮前公園)

2012-07-05 05:06:00 | Weblog
静かな緑道を、西へ、歩いていく。
細長い、公園、という感じ。
まわりは、マンションの多い、閑静な住宅街。
南北に伸びる、山手通りを、越え、さらに、西へ。
しばらくすると、南側には、宮前公園。
住宅地に、よくある、緑の多い、公園だ。
名前が、宮前、となっているので、近くに、神社があるのだろう。
実際、ちょっと、離れるが、南側、小さな、天神社、がある。
創建は、おそらく、江戸時代。
その、さらに、南側には、有名な、宝仙寺、がある。
本来、こちらを、訪れるべきなのかもしれないが、それは、この次、としよう。
ちなみに、宝仙寺、創建は、かなり、古い。
平安時代の、終わり頃か。
ただ、当時、この地ではなく、今の、阿佐ヶ谷駅、北側あたりに、あったらしい。
鎌倉時代の後、室町時代に、この場所に、移ってきている。
ここから、西側には、南北に、鎌倉街道が、伸びているので、一帯は、古来より、開かれていたに、違いない。
公園を、後にし、再び、桃園川跡の緑道を、西へ、歩き出す。
(2011年10月記)

総武線東中野駅(中央一丁目 神田川と桃園川の合流地点跡)

2012-07-04 03:28:12 | Weblog
大久保通り、というと、大久保駅近くの、新宿の裏通り、繁華街、というイメージなのだが。
でも、このあたりは、もう、すっかり、静かな、住宅街。
もっとも、大久保駅あたりでも、急速に、繁華になったのは、バブルの頃だと思う。
そちらも、ちょっと、昔は、ここらへんと同じく、長閑だったのかも。
そんな、大久保通りを、歩いていくと、北へと、流れる、神田川に、行き当たる。
神田川を、渡り、川沿いを、南へ。
すぐに、ちょっとした、広場。
西から、流れてきた、桃園川が、ここで、神田川に、合流したいた、ということだ。
今は、川の流れは、もう、なく、跡には、細長い、緑地帯が、残るばかり。
そういえば、「神田川」の歌碑も、あったっけ。
桃園川との、合流地点とは、あまり、関係ないけど。
今日は、ここから、桃園川を、遡ってみることにする。
(2011年10月記)

丸の内線西新宿駅(北新宿一丁目 蜀江坂)

2012-07-03 05:04:03 | Weblog
といっても、淀橋咳止地蔵尊は、もともと、この場所には、なかったらしい。
一帯の、再開発が、だいたい、終わった頃、移ってきたそうだ。
淀橋、とあるので、やはり、もっと西寄り、淀橋の、近くだったのかもしれない。
ちょうど、再開発に、含まれる場所だったので、移転したのだろう。
交差点から、さらに、北へ。
上り坂になっていて、蜀江坂と、よばれている。
蜀江とは、古来、中国より、もたらされた、煌びやかな、織物、蜀江錦、からきているらしい。
蜀江坂を、上っていった先には、蜀江山、というのも、あったようだ。
では、なにが、煌びやかだったのだろうか。
ここらへんの、すぐ、東側は、大久保。
大久保は、江戸時代以来、ツツジの栽培で、有名だった場所だ。
蜀江山は、つつじ山、とも、呼ばれていたらしい。
とすると、煌びやかな織物のように、見えたのは、一面に咲く、ツツジの花、だったのだろう。
とても、風光明媚な、場所だったのかな。
さらに、北へ北へと、歩いていくと、東西に、伸びる、大久保通りに、行き当たる。
西に曲がり、そのまま、大久保通りを、西へ。
(2011年10月記)

丸の内線西新宿駅(北新宿二丁目 淀橋咳止地蔵尊)

2012-07-02 04:20:51 | Weblog
とりあえず、青梅街道から、北へ。
そういえば、一帯の再開発が、始まる前から、何度も、この道を、通ったっけ。
以前は、クルマ、一台が、通れるような、細い道。
それなのに、タクシーが、裏道として、使っていたので、歩いていると、危なくて、仕方がなかったな。
道路の東側は、上り斜面に、なっていて、たしか、焼鳥屋、なんて並んでいた。
それと、夜、とくに、夏ぐらいかな、歩いていると、どこからか、祭囃子が、聞こえてきた。
たぶん、祭に備えて、付近で、練習していたのだろう。
そういうのも、すっかり、なくなってしまった。
北へと、歩いていくと、しばらくして、東西に伸びる、税務署通り。
今は、広々とした、道路で、青梅街道の、バイパスに、なっている。
だけど、昔は、両脇に、店が、並ぶ、商店街だったな。
すっかり、きれいに、整備されいて、結局、何にも、ない。
残っているのは、交差点、北東側、交番。
そして、そう、交差点の、北西側には、淀橋咳止地蔵尊も、残っていた。
思わず懐かしくなってしまったな。
(2011年10月記)