retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

埼京線戸田駅(上戸田一丁目 元蕨第一公園)

2012-07-21 07:09:49 | Weblog
家並みが、まばらになっている、住宅地の中、東へと、歩いていくと、元蕨第一公園。
はて、ここは、戸田、であって、蕨では、ないはずだが。
元戸田、とか、あるいは、戸田本町、本戸田、なら、わかるが、なぜ、元蕨、なのだろう。
実は、ここから、少し、離れるが、南側には、蕨城、があったらしいのだ。
ということは、城の名前を、地名から、とっていたとすると、一帯は、もともと、、という、場所だったようにも、思える。
もっとも、そうだとして、元蕨の、蕨が、なぜ、今の、蕨に、移動したのか、よくわからない。
理由はわからないが、移動した時期、としては、江戸時代の前、戦国時代の頃、だったかもしれない。
まず、江戸時代になってから、中山道が、開通し、蕨宿が、今の、蕨に、開かれているとすると、江戸時代前には、すでに、元蕨から、今の、蕨への、移動は、済んでいたはずだ。
そして、さらに、一帯の、西側には、早瀬の渡し、東側には、岩淵の渡しが、あり、鎌倉街道も、そちらを通っていたとすると、今の、蕨は、鎌倉街道に、挟まれた、何もない、一帯、だったはず。
むしろ、水運のあった、荒川に近い場所の方が、蕨、に相応しい。
元蕨が、蕨だったのは、この頃だ。
そのようなことなどを考えると、だいたい、戦国時代あたりに、元蕨から、蕨に、集落が、移動したと、思える。
(2011年10月記)

埼京線戸田駅(上戸田一丁目 戸田市役所)

2012-07-20 03:48:01 | Weblog
後谷公園の東側には、戸田市役所がある。
戸田市役所庁舎の方は、やや、古い。
完成したのは、高度成長期の後半頃。
ところで、当時は、近くに、まだ、埼京線は、開通していず、今とは、違った、街だったはず。いったい、どんな、街だったのだろうか。
その頃、街の中心があるとすれば、まず、中山道。
そして、中山道が、荒川を越える地点、戸田の渡し。
微妙に、市役所の位置が、中山道に、寄っているのは、そのためかな。
とすると、もともとは、東側の、中山道沿い、あるいは、その南側、荒川北岸あたりが、街の、中心だったのかもしれない。
そして、バブルの初め頃、埼京線が、開通するわけだが。
本来、街の中心は、そちら側に、移動し、以前の、街並みは、旧市街地、となっていただろう。
ただ、バブルが、崩壊して、そういうことも、なくなったし、かといって、旧市街地は、消滅していくばかりだし。
かくして、全体的に、何もなくなったのだろうか。
さらに、東へと、歩いていく。
(2011年10月記)

埼京線戸田駅(上戸田四丁目 後谷公園)

2012-07-19 03:38:34 | Weblog
さて、次は、どこへ、行こうかと、思ったが、そういえば、何もないのだった。
ということで、再び、北戸田駅へ。
埼京線に、乗り込む。
見るべき場所が、なければ、別の場所に、移動するしかない。
かといって、あまりに、遠いと、日が暮れてしまう。
いちおう、戸田駅で、下車。
せっかく、戸田に、来たので、その中心地、というわけ。
それにしても、戸田駅前にして、何もないな。
東口に出て、埼京線高架に沿い、南へ。
しばらくすると、東西に、伸びる、市役所南通り。
市役所南通りを、東へと、歩いていく。
整備された、広い通りなので、メインストリートなのかな。
ただ、やはり、沿道には、なにもないけど。
しばらくすると、北側に、緑の、草原と、一叢の木立。
後谷公園がある。
名前の由来は、よくわからない。
できたのは、おそらく、すぐ北側にある、戸田市文化会館と同じ、バブル期前の、安定期だろう。
高度成長を、達成して、生活に余裕が、できた頃。
戸田ばかりでなく、日本中、どこも、同じだったな。
市役所南通りを、再び、東へ。
(2011年10月記)

埼京線北戸田駅(北戸田駅東再開発工事現場)

2012-07-18 19:35:19 | Weblog
駅前広場のまわりを、見回しても、チェーン店の居酒屋が、あるぐらい。
本当に、なにもないな。
もっとも、それは、北戸田駅に、限ったことではない。
郊外、地方は、たいてい、こんな風に、閑散としている。
バブルの頃、思い描いた、未来、こんなはずでは、なかった。
商店が、建ち並び、賑やかになっているはずだったけど。
無限に、発展するわけもないので、どこかで、飽和し、限界が来て、そして、縮小していく、そういうわけかな。
今は、もう、坂を、転がり落ちるように、縮小するばかり。
そんな、寂しい、北戸田駅前。
ふと、北側を、見ると、高層住宅の工事現場。
閑散としているばかりと、思っていたが、まだ、こうして、再開発を、やっているではないか。
ただ、これは、まわりの広い範囲が、縮小した分、駅前だけが、集中的に、発展しているだけ、のような気もする。
こちらも、北戸田駅に、限ったことではないし。
最近、多い、駅近くの、再開発。
そのうちの、一つだろう。
(2011年10月記)

埼京線北戸田駅(北戸田駅東口駅前広場)

2012-07-17 03:55:25 | Weblog
高田馬場駅で、山手線。
池袋駅で、埼京線に乗り換える。
今日は、秋晴れの、いい天気。
いつの間にか、すっかり、秋めいてきたな。
車窓の街並みの風景も、心なしか、和らいだ、感じがする。
夏の盛りは、いつしか、過ぎ去ったわけか。
あとは、冬の到来までの、しばしの秋模様。
埼京線は、赤羽を、過ぎ、荒川を、越えていく。
そういえば、赤羽駅の、西側にある、道路予定地。ずっと、そのままだ。
いったい、いつ、完成するのだろう。
もっとも、もう、そういう時代では、ないのかもしれない。
荒川を渡ると、埼玉県。
埼京線が、開通したときは、新興住宅地、という感じだったけど。
今は、もう、忘れられた場所。
北戸田駅で、下車。
改札を抜け、高架駅舎から、地上に、降り立つ。
駅前には、何もない。
(2011年10月記)

中央線阿佐ヶ谷駅(阿佐ヶ谷駅南口 パールセンター)

2012-07-16 06:35:36 | Weblog
阿佐ヶ谷駅の南口に出ると、南へと、伸びる、商店街、パールセンター。
賑やかな、アーケードのある、ちょっとレトロな、普通の、商店街だ。
ただ、パールセンター、実は、商店街、というだけではない。
昔の、鎌倉街道、でもあるのだ。
まわりに、古社古刹が、多くあるのも、このように、かつての、幹線道路が、通っていたからだろう。
さらに言えば、中央線沿線の下町、中野、高円寺、と連なっていくけど、阿佐ヶ谷だけ、抜かして、荻窪、となるのは、歴史がある、一帯だからかもしれない。
そうでなくとも、実際、昔の、幹線道路は、台地や、尾根を、通っているので、まわりよりは、山の手なのだ。
そんな阿佐ヶ谷の街、興味深いのだけど、もう、遅いので、帰ろうと思う。
また、次、訪れたときの、楽しみにしておこう。
その前に、小腹が空いたので、駅近くの、立ち食い蕎麦屋へ。
阿佐ヶ谷らしく、もうちょっと、しゃれた店に、したかったけど、思い付かないので、いつもの、通りになってしまった。
街の、のんびりした、感じは、味わえたが。
蕎麦を食べ終わり、駅へ、向かう。
ふと、バス、という手もあったな、と思い立ち、北口に、まわってみると、今しも、西武池袋線方面へのバスが、出発するところ。
急いで、飛び乗る。
バスは、中杉通りを、一路、北へ。
往時の、鎌倉街道に、思いを馳せているうちに、西武新宿線鷺宮駅近くの停留所。
そこで、バスを降り、西武新宿線で、帰る。
(2011年10月記)

中央線阿佐ヶ谷駅(阿佐谷北一丁目 世尊院)

2012-07-15 05:16:42 | Weblog
すぐ南側には、世尊院。
位置的には、南側だけど、神明宮と、同じ境内、といった方が、いいかも。
ところで、神明宮は、正真正銘の、古社なのだが、世尊院も、実は、古い。
世尊院は、今、中野坂上にある、宝仙寺の、子院だったらしいのだ。
もともとは、宝仙寺、阿佐ヶ谷に、あったのだが、室町時代、今の場所に、移転。
その折、子院の、世尊院を、もとの阿佐ヶ谷に、残している。
また、宝仙寺が、阿佐ヶ谷に、あったころは、この場所よりも、かなり南側、青梅街道の、北側一帯にあった。
おそらく、世尊院、宝仙寺が、移転した後も、今の、青梅街道沿いに、あったのだろう。ただ、今の場所に、移ったのは、神明宮と同じ、江戸時代なのかどうか、わからない。
さらに言えば、宝仙寺が、阿佐ヶ谷にあった、室町時代以前、その寺域は、広大で、今の、阿佐ヶ谷駅あたりまで、含まれていたようだ。
とすると、その昔、ここらへんには、北に、広大な、神明宮、そして、南に、同じく、広大な、宝仙寺、という風になっていたらしい。
そんな、昔の景観に、思いを馳せながら、南へと、歩いていく。
(2011年10月記)

中央線阿佐ヶ谷駅(阿佐谷北一丁目 神明宮)

2012-07-14 07:04:58 | Weblog
中杉通りを、南へ歩いていくと、通りの、東側には、神明宮。
創建は、意外と古い。
ただ、延喜式に載っていないので、太古の昔から、というわけではないだろう。
少なくとも、平安時代の終わり頃あたり、だろうか。
また、創建された場所は、この地ではなく、ここから、北側。
今の、お伊勢の森児童遊園、という小さな公園のある、場所らしい。
ところで、昔、その公園のある、一帯は、お伊勢の森、と呼ばれた、森林地帯。
とすると、あるいは、その、森自体、神明宮の、境内、鎮守の森、だったのかも。
そういえば、伊勢、という名前なのだが、伊勢神宮と、なにか、関係があるのだろうか。実際、わからない。
おそらく、どこも、そうなのだろうけど、神社になる以前、お伊勢の森は、一帯の、聖地、だったと思う。
その一帯が、中央に、取り込まれたとき、なんらかの、契機で、神社に、なったのかもしれない。
太古の昔のことなので、まったく、わからないけど。
機会があれば、お伊勢の森児童遊園にも、行ってみるかな。
さらに、南へ、歩く。
(2011年10月記)

中央線阿佐ヶ谷駅(阿佐谷北一丁目 中杉通り)

2012-07-13 03:30:08 | Weblog
住宅地の中、彷徨っているうちに、結局、西側、南北に伸びる、中杉通りに、出てしまう。
地図によると、桃園川跡は、中杉通りを、越えて、まだまだ、西へ、伸びているようなのだが、緑道になっているわけでもないので、もう、わからなくなってしまった。
時間も、遅いので、もう、諦めて、帰ることにする。
中杉通りは、阿佐ヶ谷駅の、北口から、まっすぐ、北に伸びる、メインストリート。
通りを、南へ向かえば、すぐに、阿佐ヶ谷駅に、着くだろう。
ところで、阿佐ヶ谷、という地名なのだが、浅い谷、からきているらしい。
この、浅い谷、というのは、桃園川の、ことなんだろうけど。
たしかに、桃園川の川岸に、崖のような、地形は、見当たらなかったな。
とすると、おそらく、流れは、かなり、緩やかだったに違いない。
さらに言えば、流域は、流れが、澱んでいて、湿地帯に、なっていたのかな。
今となっては、もう、昔のことなので、わからないが。
中杉通りを、南へと、向かう。
(2011年10月記)

中央線阿佐ヶ谷駅(阿佐谷北一丁目 まだまだ続く桃園川跡)

2012-07-12 03:58:26 | Weblog
中央線の高架を越えると、その先から、緑道は、なくなる。
住宅地として、あまり、整備されていないのかな。わからないけど。
仕方がないので、住宅地の中、北西に伸びている、それらしき、道路を、歩いていく。
路地のような、道路を、歩いていくと、やがて、側溝に、蓋を、敷き並べたような、細い、通路。
おそらく、桃園川に、蓋をして、通路に、したものなのかもしれない。
さっそく、その、通路に、分け入っていく。
たぶん、通れるようになっては、いるようなのだけど、でも、実は、蓋を、してあるだけで、歩くような、場所ではないのかも。
そんな感じもするが、かまわず、歩いていく。
このあたり、昔は、どんなだっただろう。
何もない、林の中を、小川が、流れていたのだろうか。
やがて、まわりに、家々が、建ち並び、蓋を、されてしまったのかな。
そんなことを考えているうちに、通路が、どこか、まぎれて、消えてしまう。
どうやら、完全に、桃園川の跡、見失ってしまったようだ。
(2011年10月記)