retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

有楽町線豊洲駅(ゆりかもめ 豊洲駅の先端部分)

2011-08-20 07:37:33 | Weblog
北西へと、進んで行くと、北東へ伸びる、大通りとの、交差点に着く。
豊洲の、中心地。
地下には、有楽町線の豊洲駅、さらに、高架上には、ゆりかもめの豊洲駅もある。
いちおう、交通の要衝だ。
ところで、ゆりかもめ、駅先端から、まだ、レールが、少しだけ、伸びている。
その、伸びたレール、北西方向へ、ぐっと、屈曲。
まさに、晴海通りに沿って、伸びて行かんばかり。
実際、計画では、そうなっている。実現するかは、わからないけど。
そのまま、晴海通りの真上を進み、豊洲北端で、西へ向きを変える。
春海橋で晴海運河を越え、すぐに、北東へ。
そのまま、北東へ伸び、環状2号線を越えたところで、北西、今度は、朝潮運河を越える。
地図を見ると、環状2号線が、近くにあるのに、橋の架橋が、予定されているので、おそらく、ゆりかもめの延伸が、想定されてのことだろう。
ゆりかもめは、今度は、清澄通りを、北東へ。大江戸線勝どき駅の上空が、ゆりかもめの終点、勝どき駅、となる。
といっても、実現は、たぶん、ないだろなあ。
(2010年12月記)

有楽町線豊洲駅(昭和大学豊洲病院)

2011-08-19 05:22:10 | Weblog
豊洲に入り、さらに、北西へ。
このコースも、よく、歩いたものだ。
東雲の再開発のあとは、豊洲の再開発、というわけ。
その、豊洲の再開発も、ほぼ、完成に近付いたな。
そんな豊洲、さらに、進んで行くと、通りの東側に、古そうな、建物。
昭和大学豊洲病院だ。
ふと、気になって、礎石を見ると、竣工は、高度成長期の後の、安定期。今から、およそ、30年前。
高度成長期だと、実際、レトロテーマパークに、なっているし、十分に古いのだが、安定期も、レトロの域に達しているようだ。
ちなみに、同じ時期だと、池袋の、サンシャインシティがある。
こちらは、たまに、行くが、やはり、間違いなく、レトロ。
ということは、高度成長期から安定期、あるいは、バブル期も含まれるかもしれないが、あまり、変わり映えは、しないらしい。
実際、当時は、地方が、変化の主体、都心部は、放って置かれたのだ。
だから、安定期の建物、実際、古いのだが、それ以上に、隔世の感があるのだろう。
都心部が、急激に、変わっていくのは、バブル崩壊以降。
そして、その変貌は、今に、至っている。
(2010年12月記)

有楽町線辰巳駅(拡幅される東雲橋)

2011-08-18 05:04:35 | Weblog
東雲の高層住宅群の北側を、西へと、歩いていく。
高層住宅群の西側に出ると、南北に伸びる、晴海通り。
晴海通りとの交差点で、晴海通りは、北西方向に、屈曲。
東西に伸びる通りは、晴海通りから先には、伸びていないので、交差点は、三叉路、となっている。
そういえば、かつて、この交差点の歩道橋から、東雲の再開発工事現場を、よく、眺めたものだ。
まだ、一面、広大な更地、どんな近未来都市が、出現するのかと、思っていたけど。
半ば、出来上がってみると、たしかに、近未来、なのかもしれない。
でも、今の世の中、まったく、未来的ではないな。
結局、未来なんて、なかったのかも。
晴海通りに入り、北西へ、向かう。
すぐに、東雲運河に架かる、東雲橋。
この橋は、以前から、晴海通りよりも、幅が、狭かったのだが、ここにきて、ようやく、拡幅されるようだ。
橋の幅を、広げるよりも、道路を広げる方が、簡単だから、道路の方が、先に、拡幅されたのだろう。
そして、東雲の再開発が、ほぼ、完成したのを待って、橋の拡幅に、取り掛かったのかな。
わからないが。
橋を渡ると、その先は、豊洲、ということになる。
(2010年12月記)

有楽町線辰巳駅(プラウドタワー東雲キャナルコート工事現場)

2011-08-17 04:13:08 | Weblog
東雲高層住宅群の縁を、北へ北へと、歩いていく。
誰もいなくて、静かだ。
ここばかりではなく、再開発地、というのは、たいてい、そんな感じ。
集合住宅なので、あまり、賑やか、というのは、近所迷惑なのかな。
さらに、北へと進む。いつもなら、辰巳へと伸びる、橋の袂に、行き着くのだが、今回は、工事現場の、柵に、阻まれてしまう。
工事現場を、迂回して、辰巳への橋、辰巳橋へ。
橋の上からだと、その工事現場、一望のもと、見渡せる。
プラウドタワー東雲キャナルコートの工事現場だ。
東雲の高層住宅群は、中央部が、低層棟、その四囲が、高層棟、という風になっているのだが、プラウドタワー東雲キャナルコートは、北辺の高層棟、ということなのだろう。
この高層住宅が、完成すれば、あとは、西側部分だけ、ということになる。
もっとも、完成したから、といって、どうということもない。
近未来も来ないし、特に、生活が良くなることもない。
東雲、と言えば、夜明けなのだが、これでは、夜明け、という感じではないな。
先を急ごう。
今度は、西に向かう。
(2010年12月記)

有楽町線辰巳駅(東雲から臨む辰巳運河)

2011-08-16 07:28:07 | Weblog
高田馬場駅から東西線。
飯田橋駅で、有楽町線に乗り換える。
辰巳駅で、下車。
地上に出ると、冬晴れの空が、広がる。
西側には、辰巳運河。
さっそく、辰巳桜橋で、辰巳運河を渡り、対岸の、東雲へ。
ところで、最近は、再開発が、都心部、それも、限られた場所に、集中しているような気がする。
だから、訪れるのは、いつも、同じところばかり。
しかも、それが、埋立地だと、歴史もないし、あまり、見るべきものもない。
今回は、まさに、そういうところ。
そんなことを考えているうちに、東雲に着く。
東雲は、ここ数年で、すっかり、高層住宅街、近未来都市に変貌した。
対して、辰巳運河の東側、辰巳は、忘れ去られた、昭和の風情。
東雲も、辰巳も、昭和の初め頃、埋立が、完成したのに、不思議なものだ。
もっとも、辰巳の団地も、完成した当初、高度成長期には、近未来都市だったらしい。
とすると、東雲の高層住宅街も、何十年かしたら、忘れ去られ、古ぼけた、街になるのかな。
そして、その頃、逆に、辰巳側の方が、再開発されていたりして。
東雲の地、辰巳運河に沿って、北へ向かう。
近未来都市もいいけど、なんか、誰もいなくて、この冬空の下、いっそう、寒々しい感じがする。
(2010年12月記)

京浜東北線蕨駅(中央四丁目 蕨城址公園)

2011-08-15 03:32:02 | Weblog
南へ。来た道を引き返す。
再び、和楽備神社。
和楽備神社の南側に出ると、そこは、蕨城址公園になっている。
かつては、城塞が、あったらしい。
もちろん、和楽備神社の南に、蕨城が、あったわけではなく、城郭の中に、和楽備神社があったのだろう。
ちなみに、江戸時代以前は、和楽備神社、ではなくて、蕨八幡神社、だった。
ところで、不思議なことに、蕨城、というのは、もう一つある。
ここから、ちょっと、離れて、南側、戸田市役所の、さらに、南側だ。
地名は、元蕨。
その、元蕨、という場所にも、蕨城が、あったらしいのだ。
いったい、どういう、わけなのだろう。
わからないので、想像してみるほかない。
おそらく、同時に、同じ名前の、城が、あるわけはないので、場所を、移動した、と考えられる。
さらに言えば、「元」、という地名からみて、戸田の蕨城の方が、古いはずだ。
とすると、蕨、というのは、もともとは、今の、戸田、のことを、指していたのかもしれない。
つまり、岩淵の渡し、と、早瀬の渡し、の中間点、荒川の北岸が、蕨、だったのだ。
ひょっとしたら、荒川の水運の、拠点でも、あったのかな。
それが、なんらかの理由で、室町時代の後半、北側、今の、蕨に、移動。
いつしか、元の蕨は、戸田になり、移動した先が、蕨、になったのかも。
たんなる、想像なので、本当は、どうだか、わからないが。
さあ、もう、帰ろう。
高層ビルが、今後、建つとは思えないので、蕨の街に、もう、来ることはないな。
そう思うと、ちょっと、寂しいけど。
そういえば、もう、年末。
来年まで、あと、少し。
(2010年12月記)

京浜東北線蕨駅(北町三丁目 三学院)

2011-08-14 07:16:31 | Weblog
住宅地の中、北へと、歩いていくと、広大な寺域を持つ、三学院。
ずいぶんと、立派な、寺院だ。
ただ、いつ、創建されたのか、わからないらしい。
ちょっと、想像してみる。
さっき、訪れた、和楽備神社、創建は、室町時代の後半。
それ以前、とすると、鎌倉時代になるのだが、鎌倉時代、需要なのは、鎌倉街道の存在だ。
このあたりだと、鎌倉街道中道が、赤羽の北側、岩淵の渡しで、荒川を越え、さらに、北に、伸びいてる。
もう一つは、西側、今の高島平あたり、早瀬の渡しがあり、こちらも、そのまま、北へ、浦和の方。
とすると、蕨は、それらの、幹線道路の、真ん中、ということになる。
幹線道路からは、外れていたわけだが、そういった場所に、大きな寺院が、あったとは、考えにくい。
そのように、考えてみると、三学院の創建、それほど、古いものではなく、早くとも、和楽備神社と同じ、室町時代の後半。あるいは、江戸時代が始まる、少し、前ぐらいか。
実際は、どうなのか、歴史の中に、埋もれて、もはや、わからないけど。
(2010年12月記)

京浜東北線蕨駅(和楽備神社)

2011-08-13 05:04:17 | Weblog
旧中山道を、さらに、北に歩く。
途中、交差点を、東へ。そのまま、東へと向かう。
長閑な住宅地の中、しばらくすると、通りの、南側には、和楽備神社。
本来は、蕨、という字を当てるのだろうけど。
ただ、こちらの字の方も、なかなか、面白い。
そういえば、初めて、蕨を、訪れたのは、バブルの頃だったのだが、この、神社も、その時、訪れている。
たしか、社殿が、とても、華やかな色合い、一面、朱、だった気がするのだ。
本当に、そうだったか、もう、記憶が薄れてしまって、定かではない。
今は、普通の社殿。
実は、つい、数年前に、焼失して、新しく、建て直されている。
写真にでも、撮っておけば、よかったが、もう、遅い。
和楽備神社の、創建は、室町時代。もうすぐ、戦国の世になろうという時代。
蕨城が、築かれたとき、神社が、招かれたのかな。
もっとも、たいてい、神社の築かれる場所には、もともと、一帯の聖地が、あったりする。
この場所も、城が築かれるぐらいなので、周囲より、ちょっと、小高い場所だったらしい。
だから、この場所にも、その例に洩れず、古墳があったり、あるいは、太古の遺跡が、あったかもしれない。
今となっては、もはや、何も残っていないので、わからないけど。
そんな、和楽備神社を後にして、今度は、北に向かう。
(2010年12月記)

京浜東北線蕨駅(中央五丁目 蕨宿岡田本陣址)

2011-08-12 03:30:03 | Weblog
旧中山道を、北へと、歩いていくと、蕨宿本陣跡。
本陣というと、宿場街の中心だ。
今は、静かだが、江戸時代は、さぞ、賑やかだったはず。
さっき、通った、長泉院は、創建が、江戸時代なので、この、蕨宿に、付随した、寺院に違いない。
少し離れるが、南側には、大河、荒川が、流れており、戸田の渡しが、あった。
大河があれば、大河を利用した、物資の流通、がある。
そのことも、蕨宿の繁栄に、大きく、寄与したことだろう。
明治時代になると、織物産業が、盛んになる。
次いで、東側に、鉄道が、敷かれ、蕨駅も、開設。
蕨の街は、駅前へ、中心を、移しつつ、ますます、発展していったのかな。
地方都市的な、商店街は、そういった過程で、形成されたのだろう。
やがて、高度成長を通して、地場産業は、消滅。
都心部に対する、郊外になる。
ただ、高度成長を達成したことによる、豊かさで、地方都市は、そのまま、維持。
昔の商店街も、存続したのだ。
だが、バブルの崩壊で、その、豊かさは、雲散霧消する。
あとに残ったのは、寒々しい、経済の、論理だけ。
時代は、流れていく。
(2010年12月記)

京浜東北線蕨駅(中央五丁目 旧中山道)

2011-08-11 07:23:33 | Weblog
さらに、西へと、進んで行くと、南北に伸びる、通り。
クルマは、あまり、通っていず、静かな道路だ。
実は、このすぐ、西側に、中山道が、通っていて、そちらは、交通量の多い、幹線道路になっている。
では、こちらの通りは、というと、旧中山道、ということらしい。
ということは、今の、中山道は、旧中山道の、バイパス、なのだろう。
でも、この道、ちょっと、歩いてみると、バイパスに対する、本道、という感じではない。
むしろ、旧中山道の歴史テーマパークみたいだ。
資料館も配されているし、落ち着いていて、長閑だし。
ただ、最初、来た時、バブルの頃だったのだが、こんな風に、なっていただろうか。
もう、日が落ちる頃合だったので、はっきりとは、覚えていないけど。
ひょっとしたら、商店街が、寂れていくのと、相前後して、テーマパーク化が、進行したのかも。
それは、あり得ると思う。
他の、地方都市も、そんな感じだからだ。
さらに言えば、駅前再開発も同じ。
蕨も、ご多分に漏れず、ということかな。
(2010年12月記)