retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

田園都市線三軒茶屋駅(太子堂五丁目 八幡神社)

2011-06-10 05:01:59 | Weblog
目黒不動尊、目白不動尊、まではいいとして、ついでに、目赤不動尊。
明治時代に入って、なぜか、目黄不動尊。
そして、最後は、大正時代、どう考えても、強引な、目青不動尊の登場で、五色不動尊は、勢揃い。
もともと、五色不動尊があった、とすると、たんなる、箔を付けるための、御伽噺になってしまうが。
でも、現代の東京を守護するための、五色不動尊とすれば、いいわけか。
住宅地の中を北へ。
烏山川緑道に出て、再び、西へと歩く。
しばらくして、今度は、北へ。
そのまま、住宅地の中を、北へと進んでいく。
突き当たりに、八幡神社。
鬱蒼と生い茂る、鎮守の森が歴史を感じさせる。
創建は、いつか、わかっていないが、どう見ても、こちらは、正真正銘の、古社。
すぐ西側を、南北に、鎌倉街道が、伸びているからだ。
おそらく、鎌倉時代の創建、といったところだろう。
ちなみに、さらに、北に向かうと、北沢川に、鎌倉橋、というのもある。
もっとも、今となっては、鎌倉街道の痕跡、それぐらいしか、残っていないが。
いたって、静かなものだ。
(2010年10月記)

田園都市線三軒茶屋駅(太子堂四丁目 教学院目青不動尊)

2011-06-09 05:06:39 | Weblog
茶沢通りから、烏山川緑道を、西へ。
ようやく、あたりは、いつもの、静けさを、取り戻したようだ。
いままでの、あの賑わい、まるで、白日夢か御伽噺のよう。
なんだったんだろうか。
しばらくして、南へ。住宅街の中、入っていく。
もう、三軒茶屋近く、というところに、教学院目青不動尊。
目青不動尊、というと、目黒不動尊、目白不動尊、と合わせて、七福神のようなセット、みたいに思ってしまう。
実際、今では、そうなっているのかもしれないが。
ただ、教学院自体、この場所に、移ってきたのは、明治時代末、かなり、新しい。
それ以前は、南青山にあった、ということだ。
それに、目青不動尊も、その、南青山にあった、教学院に、明治時代の初め頃、移ってきた。もともと、教学院にあったわけではない。
さらに言えば、そもそも、当時、目青不動尊、といったかどうか。
もし、そうなら、南青山に、教学院あった頃から、目青不動尊が、有名になっているはずだが、そういうわけではない。
目青不動尊が、一般に、知られるようになるのは、この地に、教学院が移ってきて、しばらくして後、大正時代。
まさか、南青山の寺院に、不動尊がやってきたから、目青不動尊、ではあるまいに。
まだまだ、白日夢、御伽噺の中にいるようだな。
(2010年10月記)

田園都市線三軒茶屋駅(太子堂三丁目 茶沢通り)

2011-06-08 04:56:12 | Weblog
烏山川緑道を西へ。
やがて、南北に伸びる、茶沢通り。
屋台の賑わいも、ここまで。
あとは、茶沢通りの商店街が、その、賑やかさを、引き継いでいるのかも。
こちらにも、けっこう、おしゃれな店など、多く並んでいるからだ。
ところで、茶沢通り、名前の謂れは、どのようなものかな。
茶沢の「茶」は、三軒茶屋の「茶」、「沢」は、下北沢の「沢」。
三軒茶屋と、下北沢を結ぶ、通り、ということだろう。
そんな茶沢通りなのだが、それでは、いつ、開通したのだろうか。
下北沢の南側、茶沢通り沿いに、森巌寺、という大きな寺院がある。
江戸時代の初め頃、創建したということだ。
一帯の、開拓も、その頃らしい。
とすると、茶沢通りが、開通したのは、江戸時代の初め頃かな。
もっとも、当時、茶沢通り、といっていたとは思えないけど。
それに、そもそも、普通の、鄙びた、畦道だったはずだし。
そういえば、下北沢あたりは、もとは、低湿地帯。沢も、あったろうから、北にある沢、北沢、なのかも。そのような、低湿地帯を、江戸時代、開拓したのだろう。
今では、その畦道が、下北沢と三軒茶屋を結ぶ、通りになったわけか。
歴史を感じるな。
(2010年10月記)

田園都市線三軒茶屋駅(太子堂三丁目 アート楽市)

2011-06-07 05:05:17 | Weblog
烏山川緑道を、再び、西へ。
あたりには、閑静な、三宿の住宅地。
そういえば、昔、街並みを紹介する、某テレビ番組で、三宿が、取り上げられていたな。今でも、少し、覚えている。
渋谷のすぐ隣、隠れ家的な、場所。そういう、紹介の仕方だったかな。
番組、見たときは、あまりに、渋谷に近すぎて、ぴんとこなかったけど。
だが、実は、都心回帰、という、重要な、時代の節目が、それとなく、現れていたのかもしれない。
今、こうして、歩いていると、実際、渋谷に近くて、便利だな、と思えるし。
などと、考えながら、歩いていると、突然、遊歩道が、賑やかになってくる。
はて、何かの、祭りかな、と思ったが、どうも、違うようだ。
並んでいる屋台の品物を、見ても、たこ焼だとか、綿飴だとか、ではない。
もっと、高尚な、あるいは、手の込んだ、おしゃれな商品。
例えば、ミニチュアのイーゼルに、ミニチュアの複製画が、載せてあるもの、等々。
他にも、いろいろと、贅を尽くした、小間物が、並んでいる。
見てて、たしかに、楽しいけど、なんで、住宅地の中で、このような催しが、開かれているのだろうか。渋谷にこそ、相応しいような気がするが。
そのとき、ふと、気付いたのだが、なるほど、三宿が、渋谷の隠れ家、というのは、こういうことなのかな。
だから、渋谷にありそうなものが、あったりするのだ。
そんな、不思議な、賑わいの中、西へと歩いていく。
(2010年10月記)

田園都市線池尻大橋駅(三宿二丁目 三宿神社)

2011-06-06 03:27:10 | Weblog
自分の住んでいるところの近くにも、こうした、大通りの断片、みたいなのは、あるけど。
開通したら、開通したで、交通量が、増えて、忙しなくなるなあ、と思っているうちに、時代は変わり、今、郊外は、衰退する一方、大通りが、開通する必要性は、なくなってしまったようだ。
もう、そのままにしておくしかないのだろう。
別の通りでは、逆に、歩道を広げて、車道を、狭くする工事さえ、やっている。
郊外にとっては、ダウンサイズの時代なのだ。
ただ、都心部は、違うかもしれない。
さっきの、中野通りについてだが、井の頭通りから、甲州街道までは、けっこう、最近、開通したのだ。
だから、ひょっとすると、ここからの、延伸、実現するのかもしれない。将来は、わからないけど。
再び、烏山川緑道に戻り、西へ、歩く。
しばらくすると、北側に、三宿神社。
こんもりとした、鎮守の森。神社らしい神社だ。
さぞ、歴史のある神社だろう。
と、思いきや、創建は、明治時代。かなり、新しい。
もっとも、この場所には、多聞寺、という寺院が、もともと、あったらしい。
だから、そういう場所なのだろう。
(2010年10月記)

田園都市線池尻大橋駅(三宿二丁目 中野通り予定地)

2011-06-05 07:11:47 | Weblog
北沢川の流路跡に別れを告げ、烏山川流路跡を、さらに西へ。
意外と、歩行者が、多かったが、ここまで来ると、静か。
たぶん、北側の、駒場の台地に、皆、向かったのだろう。
学校の敷地もあるし、なにより、台地なので、山の手住宅地が広がっているのだ。
その台地には、東西に、淡島通りという、道路が、伸びている。
昔、バスで、何度か、通ったことあるが、本当に、長閑な、感じだったな。
烏山川の流路跡を、西に、歩き続けると、しばらくして、南北に伸びる、幅広の通り。
幅広の、立派な、通りだが、クルマは、まったく、通っていない。
それもそのはず、すぐ北で、行き止まりになっている。
細長い、アスファルトの空地、といったところか。
ちなみに、もし、この後、道路が、伸びるとしたら、どうなるか、推測してみる。
北に伸びていくと、東西に伸びる淡島通り。
淡島通りを越え、駒場学園高校の西側を、さらに、北上。
東西に伸びる、京王井の頭線を潜り、東京大学駒場キャンパスの西側を、北へ。
小田急小田原線東北沢駅の東側を、通り、東西に伸びる、井の頭通りで、中野通りと、結ばれる。
つまりは、中野通りの、南側延伸部分ではないかと、思うのだが。
もっとも、これは、ただの想像、本当に、こうなるのか、わからない。
それに、そもそも、北側に広がる、長閑な、駒場の台地を、見ると、延伸することは、もはや、ないと思える。
(2010年10月記)

田園都市線池尻大橋駅(池尻四丁目 北沢川と烏山川との合流地点跡)

2011-06-04 07:18:38 | Weblog
目黒川跡の遊歩道は、西に向きを変え、そのまま、西へと、伸びている。
北側は、すぐ、駒場の台地。
ところで、目黒川は、いつ、ここから先、消滅したのだろうか。
バブルの頃の、地図を、広げてみると、その、流路は、確かに、載っている。
さらに言えば、当時、一度、近くを訪れたことあるけど、川が、上流へ、続いていたような、かすかな記憶が、あるし。
おそらく、バブルが崩壊して、失われた10年、再開発が、都心へ、集中し始めて、現在に至るのだが、その、集中し始めた頃、消滅したのだろう。
さっき、訪れた、かつての、池、湿地帯の跡も、当時、再開発が始まったわけだが、目黒川の消滅は、その、一環、かもしれない。
そんな、目黒川跡の遊歩道を、歩いていると、その脇には、人工のせせらぎ。
雑用水でも使っているのだろうが、ちゃんと、川魚も泳いでいて、目に楽しい。
しばらく、歩いていくと、合流地点。
いちおう、遊歩道も、分かれているというのが、面白いが。
ここから先、目黒川の、川の名前は、変わることになる。
そのまま、西側が、烏山川。北西方向が、北沢川だ。
そして、いずれも、川の流れは、すでに、なくなっている。
(2010年10月記)

田園都市線池尻大橋駅(大橋二丁目 目黒川の跡)

2011-06-03 07:18:05 | Weblog
ジャンクションだけでは、なんとなく、物足りないので、高層住宅を、脇に建てているのだろうか。
それもあるだろうが、この場所は、もともと、大きな池、あるいは、湿地帯が、あった場所。
そういう、じめじめした、住環境のよくないところには、たいてい、高層住宅が、建つものだ。
だから、おそらく、ジャンクションが、できていなくとも、何棟かの、高層住宅は、建っていたと思う。
再び、西へ。
ジャンクションの西側に出ると、目黒川が流れている。
この、目黒川が、澱んで、池や湿地帯に、なっていたわけか。
その池は、近くの、池尻大橋駅の、駅名に残っている。
ちなみに、池尻大橋駅の、大橋の方は、池に、架かっていた橋のこと。
川ではなく、池なので、余程、長大な、橋だったのだろう。
目黒川の流れているあたりで、246号を渡って、北側へ。
すると、その先、目黒川の流れは、唐突に、消滅してしまっている。
跡には、遊歩道が、伸びているばかり。
今回は、この、目黒川の跡を、遡ることにする。
(2010年10月記)

田園都市線池尻大橋駅(クロスエアタワー工事現場)

2011-06-02 04:45:31 | Weblog
高田馬場駅から山手線。
いつものように、乗り換えようと、思ったが、山手線は、止まっていた。
なんでも、新宿駅の手前で、線路に異常が、あったらしい。
かくなるうえは、埼京線、ということで、逆方向の、山手線に乗って、いったん、池袋駅へ。そして、埼京線の車両に乗り込む。
埼京線は、順調に、走り出し、このまま、渋谷駅まで、運んで行ってくれるのかな、と思いきや、新宿駅で、結局、ストップ。
線路の異常は、新宿駅の、手前ではなくて、新宿駅だったみたい。
だからといって、埼京線まで、止まるものだろうか。
そうはいっても、新宿駅で、立ち往生のまま。
かなり、時間が、経ってから、やっと、動き出す。これなら、東西線で、迂回すれば、よかった。しかも、山手線まで、動き出しているではないか。
ようやく、渋谷駅に、辿り着く。
そういえば、埼京線の渋谷駅ホーム、かなり、南側に、離れているんだっけ。
おまけに、ものすごい、混みよう。
へとへとになって、ようやく、渋谷駅の改札を出た。
すぐに、駅西側に出て、地下へ。
田園都市線に乗る。
池尻大橋駅で下車。地上に出て、東西に伸びる、246号線を、東へ。
程なくして、巨大な、首都高の、ジャンクション。
そして、その東側には、クロスエアタワーの工事現場がある。
(2010年10月記)

都営新宿線本八幡駅(葛飾八幡宮の参道を横切る踏切)

2011-06-01 04:28:26 | Weblog
住宅地の中、北へ。
しばらくすると、東西に伸びる、京成電鉄の線路。
線路に沿って、西へ進む。
すぐに、南北に伸びる、葛飾八幡宮の参道。
参道は、南側の、千葉街道から、京成電鉄の北側に、伸びているので、参道を、踏切が、横切る、ということになっている。
こういう光景、例えば、府中の、京王競馬場線が、八幡神社の参道を、横切っているのだが、それくらいしか、知らない。
たぶん、とても、珍しいのだろう。
それはそれとして、さっき、訪れた、八幡不知森、この参道の入り口、鳥居の近くに、あるので、何か、葛飾八幡宮と、関係があるに違いない。
名前が八幡だし、葛飾八幡宮の旧跡、という伝説もあるからだ。
古い神社は、古墳の場所に、建っていたりするので、もし、八幡不知森が、古墳だったとしたら、葛飾八幡宮の旧跡、というのは、ありうるだろう。
実は、たんに、葛飾八幡宮の境内、だったりするかも。
へたな詮索は、ここらで、止めておこう。
踏切を渡り、北へ。葛飾八幡宮に入っていくと、宵宮祭の準備中。
雨が、降り続いていて、あたりは、もう、暗くなってきた。
そんななか、大きな提灯に灯された、明りが、とても、幻想的。
しばし、見とれていると、雨は、ますます、強くなってくる。
そろそろ、帰った方がよさそうだ。
千葉街道に出て、西へ。本八幡駅に向かう。
(2010年10月記)