retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

南北線白金台駅(白金六丁目 丘の上の原っぱ)

2011-02-08 06:10:16 | Weblog
西へ西へと歩いていくと、首都高目黒線の高架。
今度は、高架下を、南西へと、進んでいく。
しばらくすると、南へ伸びる、広々とした通り、外苑西通り。
ここらへんだと、もう、山の手の雰囲気。
さっき、通ってきた、庶民的な商店街とは、まるで、違う世界だ。
外苑西通りから、東側、住宅地の中へ。
急な上り坂を、ぐんぐん、登っていく。
頂上と思しき、台地の上に、辿り着くと、果たして、そこには、原っぱが、あるだけ。
なんだって、こんな場所に、原っぱが、広がっているんだろう。
想像もしていなかったので、しばし、呆然としてしまう。
実は、この近く、神応山、という丘があって、かつては、神社が、あったそうだ。(ちなみに、雷神社という名前で、直接、稗田神社とは、関係なさそう)
ひょっとして、何か、手掛かりでも、と、思っていたんだけど。
なんだか、この、原っぱのおかげで、そんな考え、すっとんでしまった。
しばらく、立ち尽くしていると、その前を、茶色のネコが、ゆっくりと、歩いていく。
そして、原っぱの草叢に、がさがさと、入り込んで、消えていった。
ネコにとっては、稗田神社も、白金山の手住宅街も、関係ないことなんだろうな。
とにかく、この場に、こうしていても、仕方がないので、帰ることにする。
今度は、下り坂、南へ南へと、下っていく。
稗田神社なんて、もう、跡形も、ないのかもしれない。
遠い昔のことだし。
そんなことを考えているうちに、東西に伸びる、目黒通りに、降り立つ。
再び、周囲には、山の手の雰囲気。
その雰囲気に気圧されてしまったものの、この山の手を登った先には、原っぱが広がっているなんて、誰も、知らないだろう、と思うと、なんか、どうでもよくなってしまう。
そのことを、知っているのは、あの、ネコぐらいかな。
西へ向かい、白金台駅へ。南北線で帰る。
(2010年5月記)

南北線白金高輪駅(白金三丁目 四の橋から上流の古い橋)

2011-02-07 04:52:51 | Weblog
四の橋から、古川の上流の方を、見ると、使用しているとは、思えないような、とても、古い橋。
今でも、使っているのだろうか。ちょっと、わからない。
ということで、高度成長期の頃の、写真を見てみる。
同じ方向からの写真はなかったが、逆方向から、つまり、五の橋から下流、という写真は、あった。
ただ、写真を、一見しても、どうも、そんな橋は、架かっていないようだ。
たぶん、当時、まだ、昔からある、四の橋、五の橋しか、なかったのかもしれない。
さらに、もう一つ、存在しないものがある。
首都高目黒線の高架だ。
ひょっとしたら、首都高目黒線の高架を、古川上空に作る、見返りに、あちこちに、橋を、架けたのかもしれない。
でも、特に、便利になったわけでもないので、いつしか、そのまま、放置され、今のように、遺構のようになったのかな。
想像の域を、出ないけど。
そんな、四の橋界隈から、さらに、西へ。
さっき、三田の尾根道を、通ったとき、御田八幡神社の旧地の、南側を、通ったわけだが、実は、平安時代の終わり頃より以前、さらに、別の場所に、もっと古い、旧地があったらしい。
その場所が、白金で、当時は、稗田神社、という名前だった。
ちなみに、稗田神社は、蒲田にも、あるのだが、幹線道路は、内陸の高台を、通っていたので、蒲田に、あったとは、ちょっと、思えない。
おそらく、やはり、稗田神社、白金にあったと思う。
それで、白金のどこか、というと、牧岡、という場所らしいのだが。
地名は、わかったが、それが、どこなのか、まったく、わからない。
岡だから、とりあえず、白金の、一番、高いところに行ってみよう。
手掛かりは、それしかない。
(2010年5月記)

南北線白金高輪駅(白金三丁目 四の橋白金商店街)

2011-02-06 08:14:48 | Weblog
古川の南側を、西へ西へと、歩いていく。
川沿い、ということは、あたりは、下町かな、と思ってしまうが、さすがに、都心、そんなことはなく、閑静な住宅街。
というわけでは、実は、ないのだ。
古川沿岸は、改修されて、むしろ、新しい。
少し、南側に、入ると、都心とは、思えないような、光景。
さすがに、下町、というほどでもないけど、時代に取り残されたような、感じがする。
さらに、西へと進んでいく。
しばらくすると、南へと伸びる、四の橋白金商店街。
白金、といえば、有名な、山の手住宅街のはずだが。
なのに、なんで、ここに、巣鴨地蔵通り商店街みたいな、場所があるのかな。
最初、ここに来たときは、なんか、まったく、違う方向に、歩いてしまったのかと、我が目を疑ったものだ。
本当は、商店街に、入ってみると、ブランド店が、軒を並べていたりして。
そんなことは、まず、ないだろう。
実は、ここから、さらに、南側、東西に伸びる通りを、何度か、歩いたことがある。
やはり、その時、時代から、取り残された、あるいは、どこかの、地方のような、雰囲気がしたものだ。
たぶん、その理由は、交通の便が、よくないからに違いない。
とりあえず、ちょっと前に、南北線の白金高輪駅が、開業したものの、最寄り駅といえば、遙か、西側の、恵比寿駅。
バスしか、交通手段は、ないのかも。
もちろん、山の手の住民は、クルマで移動するから、最寄り駅など、関係ないんだろうけど。
もっとも、いつまでも、残るものなのかは、わからないが。
(2010年5月記)

南北線白金高輪駅(三田五丁目 古川橋から下流を臨む)

2011-02-05 07:24:08 | Weblog
さらに、西へと、歩くと、南北に、流れる、古川。
二の橋を渡って、古川の西側を、南北に伸びる、大通りに出る。
今度は、南へ。
しばらく、進んでから、三の橋で、再び、古川を、渡り、川の、東側。
細い道を、南へと歩く。
一帯は、川の規模にしては、かなり、幅広な、谷地になっている。
江戸時代に、川は、改修され、今のような、一筋の、流れになっているものの、それ以前は、沼地だったり、幾筋かの、流れが、錯綜していたり、という感じだったらしい。
だから、地形的には、幅広な、谷地なのだろう。
おそらく、古川は、本来なら、そのまま、東へ、流れ下り、東京湾へ、流れ込んでいるはずなのだが、手前に、三田の丘陵地があって、阻まれ、いったん、淀んだのだ。
淀みつつ、北に、流れ、三田の丘陵地の縁を、回りこむようにして、今の、麻布十番で、向きを、東へ。そのまま、東に、流れていき、東京湾、だったのかな。
とすると、川の規模から考えるより、ずっと、内陸まで、船で、入り込めたのかも。
さらに言えば、船で入り込めたとすると、船運があり、流通が、古くから、あったのかもしれない。
そんなことを考えながら、南へ南へと、歩いていくと、古川が、北へと、向きを、変える地点。
古川橋に出る。
当然なのだが、今、こうして、古川橋から、古川の流れを見ても、昔の面影は、もはや、なくなっているな。
(2010年5月記)

南北線麻布十番駅(三田一丁目 竜原寺)

2011-02-04 05:08:33 | Weblog
東西に伸びる通りを、西へ。
しばらく、歩いていくと、北側には、竜原寺。
たまたま、写真に、撮っただけで、特に、興味は、ないのだが。
他にも、このあたり、寺院が、いくつかあり、寺町になっている。
これらの寺院、いつ頃の、創建なんだろうか。
江戸時代の少し前かな。
ただ、さっき、通ってきた、南北に伸びる、桜田通りが、鎌倉時代、あるいは、それ以前からの、街道なので、そこから、この場所が、それほど、離れていないとすると、創建は、もう少し、古いのかもしれない。
ちなみに、この、北側に、平安時代の終わり頃、今は、田町駅近くにある、御田八幡神社が、移ってきている。
ちょうど、渋谷に渋谷氏、江戸に江戸氏が、登場した時期だ。
三田にも、そういった、新興勢力が、登場したに違いない。
そして、箔を付けるために、御田八幡神社を、連れてきて、さらに、箕田源氏を、僭称しのだ。
本当かどうか、わからないけど。
でも、その後、結局、どうなったのだろう。
渡辺綱伝説は、残ったのだが。
せっかくの、御田八幡神社は、東海道沿いに、移ってしまったし。
まさに、歴史の中に、埋もれてしまったみたい。
あとは、寺町が、そこに、残った、ということかな。
(2010年5月記)

山手線田町駅(三田一丁目 かんぽ生命保険東京サービスセンター)

2011-02-03 05:07:54 | Weblog
綱町三井倶楽部の通りを挟んで、北側には、かんぽ生命保険東京サービスセンター。
特に、かんぽに興味があるわけではないけど。
建物が、なかなか、荘厳な感じで、思わず、カメラに収めてしまったのだ。
一見すると、ここもまた、何かの、迎賓館かと、思ったが。
あとで、地図を調べて、びっくり。かんぽの事務関係の建物。
外観のデザインと、中で行われている業務、まったく、関係ないように思える。
これなら、本当に、迎賓館、保養所か、さもなければ、ホテル、の方が、いいような感じ。
完成したのは、昭和の初め頃。
逓信省簡易保険局、だったということだ。
とすると、最初っから、今と、変わらないではないか。
ずっと、こうだったので、いかに、不自然か、気付かないだけなのかもしれない。
もっとも、当時は、それなりに、必然性が、あったのだろう。
まわりは、都心というよりも、原野。だが、すぐ南側には、豪華な造りの迎賓館、綱町三井倶楽部。
そこで、何もないし、ちょっと、羽目を外して、荘厳な建物を、建てても、いいだろう。なんてことになったのかな。
今は、都心の中の、静かな、山の手。
綱町三井倶楽部は、まあ、そういう感じかな、と思える。
でも、かんぽ生命保険東京サービスセンターは、なんで、という感じ。
自分には、関係のないことなので、どうでも、いいことなんだけど。
(2010年5月記)

山手線田町駅(三田二丁目 綱町三井倶楽部)

2011-02-02 06:10:11 | Weblog
綱坂を上りきると、東西に伸びる、尾根道。
尾根道の、南側には、綱町三井倶楽部。
門構といい、中庭といい、建物といい、華麗にして、豪華。
自分には、どう考えても、無縁な世界だな。
財閥三井の、迎賓館、要するに、接待用の、施設らしい。あるいは、財閥内の保養施設でもあるのかな。
完成したのは、明治時代の終わり頃。
同じ時期、赤坂迎賓館も、完成しているので、そういう時代だったのだろう。
すなわち、明治維新の混乱も、収まり、世の中、落着いた、ということだ。
落着けば、外へと、目が向く。
外来者を、招き、接待も、するわけだ。
そして、外来者との間に、関係性が、築かれる。
そうした、外来者との、関係性の中で、ありもしない、共同体が、さも、存在しているかのように、立ち現れるものなのかな。
ただ、その関係性とは、無縁の、自分からは、実際、見えるものは、華美なる、装飾。贅を尽くした、拵え。
自分のような者からも、そのような道具立てで、ありもしない、共同体が、可視化されるわけだから、いいのかもしれない。
どこぞの、居酒屋で、築かれた、関係性を、可視化、といっても、それは、とうてい、無理なわけだ。
でも、ちょっと、もったいないような気もする。
居酒屋で、済ませられるものなら、そちらの方が、いいんだけど。
やはり、自分には、綱町三井倶楽部、無縁の、代物だな。
(2010年5月記)

山手線田町駅(三田二丁目 綱坂)

2011-02-01 05:04:46 | Weblog
さすが、田町駅周辺は、不況にも、めげずに、高層ビルが、建っていくな。
それでも、一頃よりは、静かになったけど。
札の辻交差点から、北へ北へと歩く。
実は、江戸時代、東海道が、整備されるまでは、この道路が、幹線だったらしい。
たしかに、道の、両脇には、古社古刹が、並んでいる。
その中でも、極めつけは、芝公園の、芝丸山古墳であろうか。
途中、交差点を、西へ曲がり、そのまま、西へと、進む。
北側には、慶應義塾大学の敷地。
ここらへんから、もう、駅前、という感じではなくなる。
慶應義塾大学の西側の、細い、道を、北へ。
この、細い道。坂道になっていて、綱坂、というそうだ。
名前の、謂れは、近くに、平安時代の、有名な武将、渡辺綱の、生誕の地、があるから、ということらしい。
ただ、もう一つ、埼玉県北部、鴻巣市にも、渡辺綱生誕の地説がある。
どっちが、正しいのだろう。
関東地方の開拓は、北から、順次、進んでいったわけで、平安時代は、開拓が、始まったばかり、そう考えれば、常識的に、鴻巣市説だと、思える。
さらに言えば、渡辺綱の父親は、源宛、という武将で、同じく、埼玉県北部、熊谷を本拠とする、平良文と戦ったらしい。
熊谷から、わざわざ、東京都港区まで、合戦のために、やってきたとも、思えないし。
ちなみに、渡辺綱は、もともとは、源綱、で、地名、箕田(みだ)、から、箕田源氏、と呼ばれていたそうだ。
箕田(みだ)と三田(みた)、何か、似ているような気もする。
あとは、想像するしかない。
平安時代の終わり頃、三田郷に、本拠を持つ、勢力が、現れる。
箔を付けるため、三田、という地名から、読みの同じ、箕田源氏を、勝手に、名乗ってしまう。
最初は、三田源氏、なんて言っていたのだが、いつしか、箕田源氏、になり、ついには、渡辺綱、になってしまったのだ。
そして、時代が経つうちに、それが、伝説になってしまった。
というのは、どうだろう。
本当か、どうか、今となっては、もはや、わからないけど。
(2010年5月記)