retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

都営大江戸線西新宿五丁目駅(神田川と神田上水助水堀の合流地点跡)

2010-10-21 05:17:00 | Weblog
細い路地に、分け入っていくと、その先、突然、開けた場所。
神田川沿いに出る。
かつては、この場所で、神田上水助水堀の水流は、神田川に、流れ込んでいたのだ。
今は、まったく、そのような、面影はない。
ただ、水流そのものは、今でも、まだ、地下を、流れている。
だから、神田川の土手を見れば、ひょっとして、水が、流れ落ちる、様子を、見ることができるかもしれない。
でも、それでは、川ではなく、地下の、下水管と、変わらない、そんな気がするけど。
そういえば、その昔、江戸時代、神田上水助水堀には、滝があったらしい。
熊野神社のところだが。十二社の滝、あるいは、熊野滝、などと呼ばれていた。
さらに、その西側は、十二社の池もあったのだ。
周囲には、鬱蒼とした木立。
その、風光明媚な景観は、多くの、見物客を、引き寄せたに違いない。
果たして、一帯は、賑やかな、行楽地となり、その名残りが、十二社の歓楽街だ。
そんな昔は、今となっては、夢のよう。
目の前には、荒涼とした、コンクリートだらけの大地が残っているばかりだし。
もっとも、そんな場所も、もう少し、時間が経てば、再開発され、整備された、きれいな、公園になるかもしれないな。
そのとき、今を、振り返ってみれば、荒れ果てた、場所だったと、昔語り。
そして、その後は、どうなるのだろう。
徐々に、古びていき、レトロになっていくに違いない。
そして、その後は。
もう、考えても、仕方がない。
帰らなければならないので、とりあえず、北へ歩き、青梅街道へ出る。
新宿方面を見ると、こちらの景観も、開けていて、変貌、著しい。
ふと、同じ場所からの、50年前の写真を思い出してしまった。
セピア色の古ぼけた、光景。青梅街道には、トラック、一台。主婦が、こちらに、向かって歩いてくる。
50年後から見れば、自分も、この、セピア色の中に、いるのだ。
そう思うと、気分が、なぜか、落着いてきた。
(2010年1月記)

都営大江戸線西新宿五丁目駅(西新宿五丁目の神田上水助水堀跡)

2010-10-20 03:49:16 | Weblog
そのまま、北へ、歩くと、十二社通り。
十二社通りの方は、東寄りに、向きを、変えながら、北へ、伸びている。
その十二社通りの西側へ。
神田上水助水堀の跡は、まだその先の方まで、伸びていく。
川の跡は、細い、路地のような、道になっているが。
そういえば、通りの西側、西新宿五丁目は、反対側の、西新宿六丁目が、再開発された後も、しばらく、古い、商店街などが、残っていたように、記憶している。
さすがに、今は、閑散としているな。
なぜなら、西新宿六丁目に続き、今度は、西新宿五丁目も、近い将来、再開発される予定だからだ。
たぶん、そのため、街が、蛻の殻状態なのだろう。
西新宿六丁目の方は、気付いたら、もう、更地状態になっていたので、もとの街並みは、わからない。
でも、西新宿五丁目は、覚えている。今、現在も、こうして、形ばかりは、昔のまま。
ただ、だからといって、記録に残したりしても、なくなってしまえば、懐かしい思い出が、増えるばかりだ。
今、ふと、思い出したが、某テレビ番組で、たしか、この、街中の、お店が、紹介されたことがあった。
何のお店か、忘れてしまったけど。
おばあさんが、一生懸命、切り盛りしていることだけ、覚えている。
ここは、再開発の予定だから、いつまで、商売が、続けられるのかわからないと、笑っていたっけ。
今は、どうなっているのかな。
おばあさんの笑顔は、もはや、ないだろう。目の前の、古い家並みも、じきに、なくなるはずだ。
みんな、こうして、思い出になっていく。
時代は、留めようもなく、流れていく。
そして、自分は、取り残されていくのだろうか。
(2010年1月記)

都営大江戸線西新宿五丁目駅(西新宿六丁目の神田上水助水堀跡)

2010-10-19 05:03:52 | Weblog
実は、さっき、訪れた、けやき児童遊園、なんで、妙に、細長いのか、というと、神田上水助水堀という、小川の跡だからだ。
神田上水助水堀は、玉川上水から、分流している人工河川。
今の、甲州街道と、十二社通りとの交差点付近から、北へまっすぐ流れ、青梅街道あたりで、神田川に、合流している。
このように、玉川上水の水流が、水源なので、そちらが、なくなると、神田上水助水堀の、水流も、同じように、なくなるわけだ。
かくのごとく、今は、その跡が、細長い公園として、残るばかり。
ただ、けやき児童遊園の、北側は、公園ではなく、通路みたいになっている。
何となく、くねくねして、小川が、流れている様子を、模しているのが、面白い。
だが、高度成長期ぐらいの、このあたりの、写真を、見てみると、たしかに、小川が、流れているものの、人工河川なので、まっすぐに、なっている。
けっして、くねくね、曲がって、流れていたわけではない。
もっとも、まっすぐなら、ごく普通の、通路に、過ぎないのだが。
再び、昔の写真を、見てみる。
側溝のような、神田上水助水堀。水量は、豊富だ。
片側には、家並みが、すぐ、建て込んでいて、その、反対側には、ちょっと、間があり、そちらは、歩いて通れるみたい。
側溝みたいだが、岸には、木が植えてあったりして、生活の匂いがするな。
現在の、この光景からは、まったく、想像もできない。
(2010年1月記)

都営大江戸線西新宿五丁目駅(住友不動産新宿セントラルパークビル)

2010-10-18 05:07:25 | Weblog
セントラルパークタワー新宿の北側には、付属するオフィスビル、住友不動産新宿セントラルパークビルがある。
こちらも、同時期に、竣工している。
本来なら、かなり、巨大な、高層ビルなのだが、住宅棟の方が、あまりに、巨大なので、むしろ、こちらは、小さいビルに見えてしまうな。
そういうわけで、一帯は、もはや、もとの景色が、思い浮かばないほどに、変貌してしまった。
ちょっと、昔を思い出すため、ここで、バブルの頃の、地図を開いてみる。
西新宿六丁目東地区と西地区の間には、南北に、中央通り。
南側には、東西に伸びる、北通りがあるが、それら通りの交差点付近に、すでに、ビルが、建ち始めている。
浄風寺があるあたりだ。
ただ、西新宿六丁目西地区は、当然としても、実は、東地区にも、普通に、住宅が、建ち並んでいたのだ。
もうじき、再開発が、始まる直前、ではあったけど。
再開発、ということで、何度か、訪れた記憶がある。
密集していたが、本当に、普通の住宅地だったな。
その頃、西新宿六丁目西地区は、まったく、再開発、という感じではなかったので、訪れてはいない。
その周囲は、青梅街道、十二社通りにかけて、商店、飲食店が、並んでいたっけ。
そんな中に、トマトタンメンの白龍、という、有名な中華料理屋があったりした。
今は、どうなっているのかな。
結局、自分が、西新宿六丁目西地区を訪れたのは、もう、大部分が、更地になった後。
だから、それ以前の、街の様子を、知ることはなかったわけだが。
(2010年1月記)

都営大江戸線西新宿五丁目駅(セントラルパークタワー新宿)

2010-10-17 08:24:01 | Weblog
細長い公園から、さらに、東へ。
すぐに、巨大な、絶壁のような、高層住宅、セントラルパークタワー新宿が、現れる。
最近、竣工しているのだが。(工事中は、こちら
あまりに、絶壁過ぎて、下から、見上げても、上まで、見えないぐらいだな。
たしか、このビルが建つ前は、広大な、原っぱだったっけ。
よく、その原っぱで、映画かテレビかわからないけど、撮影していた。
まるで、都心とは、思えないような、景観だったからだろう。
それに、近場で、こんな、広い、原っぱは、ここにしか、なかったわけだし。
そんな、空地には、いつか、高層ビルが、建つとは、わかっていたけど。
ただ、その空地全体が、そっくり、高層ビルになるとは、思わなかったな。
広い、空地の、一部に、高層ビルが、建つぐらいに、考えていたのだ。
これでは、そのまま、地殻変動で、地面が、せり上がったような感じがする。
もっとも、西新宿高層ビル街が、ある場所自体が、ちょっと、高台になっているので、その続きと、考えればいいかな。
かくて、西新宿高層ビル街は、西側へと、徐々に、今も、拡大を、続けている。
もはや、バブルの夢は、はるか、過ぎ去ってしまったのに。
熱気も、夢もなく、少しずつ、拡大しているのだ。
やはり、地殻変動みたいなものを、見る思いがしてしまう。
(2010年1月記)

都営大江戸線西新宿五丁目駅(けやき児童遊園)

2010-10-16 09:53:12 | Weblog
方南通りを、東へと、歩いていく。
その先には、西新宿高層ビル街が、幾重にも、聳え立つ。
そういうわけで、たださえ、のしかかられるような、景観なのだが、しかも、高層ビル街の建っている場所の方が、高台になっているのだ。
結構、迫力のある、風景となっている。
これから、その、断崖の如き、あるいは、山塊の如き、場所に、分け入っていくのだ。
しばらくすると、南北に伸びる、十二社通りとの交差点。
今のところ、この、十二社通りが、西新宿高層ビル街の、辺縁となっているみたい。
そういえば、かつて、十二社通り沿いには、十二社温泉、というのがあったな。
今は、もう、消えてしまった。
麻布十番温泉と、同じだ。
せっかく、温泉が、あるのに、もったいない気がするし、いつか、入ってみたいとは、思っていたのに。
でも、それが、現代なのだ。
バブルの頃までは、そのような、存在も、許されていたけど、今は、情け容赦なく、峻別されてしまう。
厳しいのは、いいのだが、それで、結局、何が、残るのだろうか。
まあ、愚痴を言っても、仕方がない。先を、急ごう。
十二社通りを渡ると、西新宿六丁目西地区の、高層ビル街となる。
もともと、西新宿高層ビル街は、広大な、淀橋浄水場の、跡地に、できたわけだが、バブル期以降は、その跡地から、西側に、溢れ出しように、高層ビル街が、広がっていく。
西新宿六丁目は、そういった、再開発された地域だ。
そういうわけで、その大変貌を見るために、何度も、この一帯を、訪れたものだ。
さっそく、東へ。西新宿六丁目西地区に、入ってみる。
すると、家並みの間に、細長い、公園が、まだ、残っているではないか。
おまけに、よく、児童公園にあるような、ウサギのオブジェも、健在だ。
昔は、夜、訪れたりしていたが、その時、暗闇に、ぼーっと、この、白いウサギのオブジェが、浮かび上がってきて、ビックリしたものだけど。
もっとも、いつまで、この、ウサギが、残っているか、わからないな。
(2010年1月記)

都営大江戸線西新宿五丁目駅(西新宿五丁目駅付近)

2010-10-15 06:10:21 | Weblog
西武新宿線中井駅で、都営大江戸線に乗り換える。
相変わらず、乗り換えは、不便で、別々の駅としか、思えない。
それにも、かかわらず、自分以外にも、利用客は、少なからず、いるようだ。
妙正寺川を渡り、南へ。しばらく、歩くと、都営大江戸線の駅入口。
そこからが、また、遠いのだ。遠い、というよりも、深い、といった方が、正確かな。
改札を抜けて、長い、エスカレーター。降り立っても、そこが、ホームではなく、まだ、下りの階段がある。
エスカレーターにいる段階で、列車が、ホームに、来た気配が、察せられるのだが、もう一つ、階段があることを、忘れているので、いつもは、間に合わない。
今回は、気を緩めず、エスカレーターを駆け下り、間髪を入れず、その先の、階段も、駆け下りて、電車には、間に合った。
西新宿五丁目駅で下車。
地上に出ると、東西に伸びる、方南通りに出る。
ところで、駅の開業は、バブルが崩壊した後。
ただ、まだ、バブルの熱気は、醒めていず、その余熱に、絆されて、何度、この駅で、降りたことか。
西新宿高層ビル街が、ここら一帯までも、呑み込むかと、思われたが、結局、何も、変わらなかったな。
今から、考えれば、まあ、そんなもんだろうと、思うけど。
そういえば、この、西新宿五丁目、という駅名。わかりやすいけど、どうにか、ならなかったのだろうか。町名を、そのまま、駅名にする、というのは、味気ない。
これも、また、バブルの、置土産みたいなものかもしれないが。
大慌ててで、駅名も考えず、開業に、漕ぎつけてしまったに違いない。
たとえば、十二社駅、という風だと、歴史のある場所みたいで、いい感じだ。
もっとも、十二社、というのは、今の、歌舞伎町、のような、悪所、だったので、駅名としては、落選したらしい。
おちう具合に、考え始めたが、今は、ほとんど、利用することもないので、どうでも、よくなった。
自分にとって、かつて、バブルの終わった後ぐらいに、よく、来た、駅に過ぎないので、当然かな。
(2010年1月記)

中央線三鷹駅(太宰治「斜陽」の文学碑)

2010-10-14 03:37:13 | Weblog
そういえば、三鷹に来たこと、他にも、あったな。
学生のとき、映画を見に来たのだ。
3本立てだか、4本立てだか、無茶な、プログラム。
しかも、ずっと、立ち見で、さすがに、足が痛くなった。
もっとも、たまたま、三鷹で、映画、やってたから、来たまでのことだけど。
そんな、昔のことを、あれこれ、思い出しながら、駅を目指して、北へ、歩いていると、道路脇に、太宰治の文学碑。
「斜陽」の載っている書籍を象った、オブジェらしい。
さすがに、太宰治の街、三鷹だ。
もっとも、残念ながら、「斜陽」は、読んでいない。
それでも、学生の頃は、太宰治にかぶれたものだ。今でも、好きな小説家。
その割りに、ほとんど、読んだことないな。
太宰治の作品だけでなく、そもそも、小説を読む習慣がないのだが。
そういう、乏しい、読書体験の中で、今でも、覚えているのは、「薄明」、「たずねびと」、あたり。
戦争中、空襲に追われ、命からがら、逃げ回る家族の話なのだが、その中で、いつもは、頼りなげな、太宰治が、妙に、頼もしくて、張り切っていて、面白い。
これだけでは、ちょっと、太宰治の街、三鷹を訪れた、意義はないような気がする。
ということで、「ヴィヨンの妻」を読んでみる。「ヴィヨンの妻」は、映画でも、見たことだし。
配役は、酒浸り、女にだらしなく、生活も自堕落な、夫と、献身的な妻君。
だらしない、その夫が、泥棒を、しでかすところから、話は、始まる。
そして、この、どうしようもない、トホホな顛末を、妻君の視点から描いているのだ。(一部、泥棒の被害者であるのに、夫に振り回されながらも、受け入れてくれる、小料理屋の御亭主の視点もある)
映画では、妻君の視点、つまり、カメラ、ということにしてしまうと、妻君役の、松たかこ、が映らなくなってしまうので、ちょっと、俯瞰した、表現だが。
それで、結局、この作品、「ヴィヨンの妻」で、太宰治は、何が、言いたかったのだろう。
作品中、次のような、一節が、ある。
だらしない夫が、献身的な妻君へ言った言葉。「恐ろしいのはね、この世の中のどこかに神がいる、という事なんです」
そして、結局、小説の最後、夫が、「その、神に怯えたがために、家族の満足な正月に使う資金として、泥棒したのだ」、と、種明かしをしてみせる。
とすると、この「神」が、作品では、重要な、テーマ、ということになる。
では、「神」とは、いったい、何を、指しているのだろうか。
映画「ヴィヨンの妻」は、俯瞰した、表現のためか、この、「神」が、わかりやすい。二回、登場してくる。
すなわち、一回目は、夫が、森の中、他の女性(広末涼子)と、心中する場面。その間際に、天を、見上げると、木立の先に、光が見える。それに向かって、「グッド・バイ」、と、言っているのだ。「神」に対して。
二回目は、妻君が、心中現場に、残っていた、睡眠薬の瓶を見つけ、それを手にとり、この世から、いなくなるのは、どういうことか、と思いを巡らせていると、同じように、天上、木立の先に、光が見える。
だとすると、この世から、去るときに、現れる、木立の先の、光が、「神」、なのだろう。
つまり、「ヴィヨンの妻」の「神」とは、この世に、こうしてあることの、実感、もっと、言うと、それを、成立させている、何物か、のこと、に違いない。
その何物か、というのは、おそらく、誠実な妻君との、夫婦関係だったり、あるいは、市井の中での、社会的な関係性、だったり、そういうことなのだ。
それは、倫理的なことかもしれないし、世間体にすぎないのかもしれない。あるいは、ひょっとして、彼女自身の、夫に対する、意志、なのかもしれない。実際は、なんだか、わからない。
ただ、それは、夫には、ちょっと、わからないものだが、妻君には、直感的に、わかっているもの、なのかもしれないが。
こうして、考えてみると、太宰治の「ヴィヨンの妻」、何が、言いたいのか、はっきりしてくる。
すなわち、今、この世に、こうしてあることの、実感、それが、何にも変えがたい幸せ、ということなのだ。
太宰治のことが、これだけ、わかれば、三鷹に来た甲斐があったわけかな。
三鷹には、来ないんだが、もう、十分だろう。
(2010年1月記)

中央線三鷹駅(三鷹駅南口のメインストリート)

2010-10-13 05:06:13 | Weblog
来た道を、逆方向、北へ。
路地へ入っていき、途中、東へ曲がる。
三鷹のメインストリートに出て、再び、北へ、歩いていく。
道すがら、周囲を、見回すと、すっかり、きれいな、街並みになったな、と、あらためて、思ってしまうな。
そんな風に、実感するほど、あまり、三鷹に、縁があるわけじゃないけど。
それでも、少しは、来たことがあるのだ。
かなり昔、学生の頃、だろうか。高度成長期の後、しばらくしてから。
ほとんど、記憶していないが、武蔵野の、普通の、郊外、それぐらいの印象だ。
季節は、春かな。やけに、砂埃が、舞っていた。畑が、多かったからだろう。
その次は、バブルの頃以降。
南口に、ペデストリアンデッキが、整備された時期だと思う。どこも、同じだが、街並みが、きれいに、なっていったのだ。
どういう、経緯か、忘れたが、そんな三鷹で、焼肉を食べたな。
入った焼肉屋の店内は、がらがら。それでも、当時、世の中の景気がよかったので、気にならなかった。
がらがらなのに、窓際のテーブルに案内されたっけ。
外からは、繁盛している店、と思わせるために、窓際に、客を、誘導するのだ、などと、同行者に、教えられたものだ。
その後は、最近になる。南口に、高層住宅ができた頃。
武蔵野の中央線沿線では、初めて。そういう時代になったのだ。
そして、今回。今回が、三鷹を訪れる最後だろうな。
なぜなら、もう、高層ビルが建つ予定は、ないからだ。
こうして見ると、三鷹にとって、自分は、まったく、なんでもない、通りすがり。
それで、いいんだけど。
(2010年1月記)

中央線三鷹駅(下連雀 禅林寺)

2010-10-12 04:17:38 | Weblog
八幡大明神社の東側には、禅林寺がある。
創建は、八幡大明神社と同じ、江戸時代前半だ。
たぶん、八幡大明神社と禅林寺は、セットなのだろう。
八幡大明神社と同じく、あたり一帯の、心の拠り所として、建てられたに違いない。
ただ、禅林寺には、地域的な面とは、別の側面もある。
この寺院には、太宰治が、眠っているのだ。
さっそく、行ってみることにする。
禅林寺山門を抜け、境内を北へ。
正面の建物の裏手、北側に、墓地が、あるらしいのだが、さて、どうやったら、入れるものやら。
いちおう、目印は、あるので、それに、従うしかない。
いったん、地下に降りる。そして、建物の下を潜って、上へ。
すると、北側に、広がる、墓地に出られる。
墓地に着いたはいいが、いったいどこに、太宰治の墓があるのか、わからない。墓石なんて、皆、同じなわけで、さて、困ってしまった。
しょうがない。一つ一つ、虱潰しに、調べていくしかないな。
正月早々、墓地を、うろうろしているのは、自分ぐらいだろう、と思いつつ、調べ始める。
大半、確認したあたり、果たして、やっと、太宰治の墓に、辿り着いた。
墓石は、意外と、大きくはなかったな。
ということで、しばらくは、感慨深い気分に、浸りたかったのだが。
でも、桜桃忌でもないのに、しかも、正月、訪れたことは、非礼に当たるのでは、と案じてしまい、早々に、退散する。
もちろん、墓石を、カメラに、収めるような、無粋なことは、やらなかったが。
再び、地下道を抜け、誰もいない、墓地を後にした。
(2010年1月記)