retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

中央線三鷹駅(下連雀 八幡大明神社)

2010-10-11 07:23:12 | Weblog
住宅地の中、細い路地を、西へ。
むらさき橋通りを越え、さくら通りを越え、さらに、中央通りを越えていく。
途中、南北に伸びる、細い道に入り、南へ向かう。
かなり、歩いたところ、突き当たりに、東西に伸びる、連雀通り。
今度は、連雀通りを、西に進んでいく。
すぐに、南北に伸びる、三鷹通りとの、交差点があるが、その、北東側に、八幡大明神社。
創建は、江戸時代の前半。一帯が、開拓された頃だ。
このあたりは、連雀、という地名なのだが、この地名、開拓民が、神田連雀町から、移住してきたかららしい。
この移住は、明暦の大火による、とされるけど、それよりも、少し前に、近くに、玉川上水が、開削されたことも、大きいと思う。
つまり、開拓ができる、という目処が、たったのだろう。
ちなみに、同じ例としては、東隣の吉祥寺がある。
こちらは、吉祥寺、という寺院が、かつて、本郷にあったのだが、そのあたりの、住民が、移住してきたのだ。
今、吉祥寺は、すでに、本郷になく、駒込に、移っているのだけど、武蔵野に移住してきた住民にとって、余程、愛着があったらしく、吉祥寺が、地名になっている。
吉祥寺には、特に、中心になる、神社寺院がないのは、別の場所にあっても、寺院の吉祥寺に、敬意を払っているからだろう。
三鷹連雀の場合、そのようなことはないので、いちおう、心の拠り所として、神社を創建したのかな。
そういうわけで、江戸時代前半、遅ればせながら、ようやく、武蔵野に、街が、できはじめたわけだ。
(2010年1月記)

中央線三鷹駅(太宰治の住んでいた家の近く)

2010-10-10 06:01:16 | Weblog
今度は、太宰治が、暮らしていた、旧居を訪ねようと思う。
ただ、何度も、書いているが、当時と、今とでは、環境が、まったく、違うので、その場所に、行ったとて、雰囲気を感じることは、できない。
それでも、いちおう、距離感ぐらいは、掴めるかな、ということで、玉川上水の南側を、東南方向に、歩いていく。
再び、むらさき橋を過ぎ、少し、行ったところで、南へ。細い路地に入り、そのまま、南へ南へと、向かう。
このように、細い路地が、均等に、南北に、並んでいるのは、おそらく、この道が、畑の畦道だったからだろうな。
そんなことを考えながら、南へ歩いていくと、道路の東側に、井心亭、という、和風庭園、座敷、広間を擁した施設が、現れる。
この、井心亭の、道路を挟んで、西側か、北西側に、太宰治の家が、あったらしい。
今、こうして、見てみると、何の変哲もない、住宅街の中、当時の、面影は、まったく、残っていないのだ。
敢えて、書いてみると、太宰治の家を含めた、数棟の、平屋が、畑の真っ只中に、あった、ということなのだが。
これでは、よく、わからないので、最近の映画、「ヴィヨンの妻」を参考にしてみる。
この映画の中では、太宰治の家は、陋屋、質素な家屋で、まわりには、何もなく、実際、リアルな感じ。
さらに、駅からの道は、ほとんど、畑道。
もっとも、高度成長期以前の、郊外の住宅なんて、皆、こんなものだったと思うけど。
つまり、武蔵野の、長閑な、風土を、満喫できそうな環境だったのだ。
だが、そんな、暢気な、雰囲気は、映画「ヴィヨンの妻」からは、感じられず、切迫した空気が、流れている。
郷愁の武蔵野は、どこへ、いったのだろうか。
(2010年1月記)

中央線三鷹駅(太宰治が身罷った現場の近く)

2010-10-09 07:06:28 | Weblog
中央線に沿って、東へ。
駅前近くに向かうに従い、賑やかになってくる。
静かな北口とは、ちょっと、雰囲気が違うな。
おそらく、三鷹は、駅南口が、旧市街で、北口が、新市街だから、かもしれない。
そして、そのような、旧市街は、再開発されやすいのだ。
すでに、駅前広場の上空には、ペデストリアンデッキが、整備されているし。
もっとも、昨今は、駅近くなら、静かな、北口でも、高層住宅が、建つけど。
それはそれとして、太宰治ゆかりの場所が、すべて、南口側にあるのは、当時の街並みが、駅南口側にしか、なかったからだろうな。
ただ、高度成長期、市街化の波によって、ゆかりの地は、ほぼ、当時の姿を、留めてはいない。今は、表示板が、あるだけだ。
だから、それらの地を、巡っても、距離感は、実感できるだろうが、雰囲気を、感じることは、期待できないに違いない。
ということで、そのまま、駅前を、通り過ぎ、玉川上水の沿道へ。
玉川上水は、三鷹駅南口から、南東方向に、流れているのだが、その、南側を、歩いていく。
こうして、歩いてみると、北口は、普通の、郊外だが、南側は、閑静な、住宅街、という感じがするな。
むらさき橋を過ぎ、延々と歩いていく。
このままだと、ジブリ美術館じゃないか、ひょっとしたら、通り過ぎたかな、と気付き、あわてて、引き返す。
また、むらさき橋を通り過ぎ、三鷹駅へと向かうと、果たして、太宰治が、入水した、現場の跡。
意外と、駅に、近いのだ。
近いというよりも、当時は、駅前に、商店などが、かたまっていた他は、何もなかったのだろう。
雑木林や、畑地が、広がるばかりだったはず。
駅前の、繁華な、雰囲気から、一歩、隔たった、武蔵野の大地の中だったのだ。
(2010年1月記)

中央線三鷹駅(三鷹電車庫跨線橋の階段)

2010-10-08 06:08:57 | Weblog
南へと進むと、すぐに、中央線の線路。
中央線に沿って、西へ西へと、歩いていく。
やがて、中央線の南側に出るための、跨線橋。
中央線だけではなく、その南側には、電車庫もあって、そこを越えるため、長大な、橋となっている。
階段を上り、眼下に伸びる、何本もの線路を、見下ろしながら、中央線と電車庫の上を、渡りきると、ようやく、中央線の南側。
階段を、降り立ち、数歩、駅側に歩き、振り返って見る。
すると、目の前には、有名な、太宰治の写真の構図、そのままの光景。
この、跨線橋、あたりが、郊外化された、昭和の初め頃に、完成しているのだが、今も、変わっていない。
だから、太宰治の写真の背景にある、跨線橋の階段は、当然、ここのある跨線橋、そのまま、なのだ。
そう、三鷹、といえば、太宰治。
太宰治抜きにしては、三鷹は、語れない。
と言いつつも、太宰治が、暮らしていた頃の、三鷹は、昭和の初め頃に開かれた街、今の、三鷹は、高度成長期の頃の、街並み。
たぶん、変わらず、残っているのは、三鷹電車庫跨線橋ぐらい、かもしれないな。
でも、実際、暮らしていたわけだから、ゆかりの地を、訪れるのは、無駄ではないだろう。
ということで、三鷹駅付近へと、向かうことにする。
(2010年1月記)

中央線三鷹駅(三鷹駅北側玉川上水)

2010-10-07 23:14:35 | Weblog
三鷹駅北口を、西へ歩くと、すぐに、玉川上水。
三鷹駅の北西側から、駅直下を抜け、南東方向へと、流れている。
そういえば、ここから上流、桜橋という橋が、架かっている場所があるのだが。
その場所は、国木田独歩が、最愛の妻と、初めて、逢瀬を、楽しんだところらしい。
だが、その、妻には、すぐ、逃げられてしまっている。
そのとき、受けた、深い、心の傷を、癒すように、渋谷の地に、移り住み、そして、「武蔵野」を、書き上げたのだ。
だから、やはり、「武蔵野」の中の武蔵野は、この世のものではない、郷愁の彼方、と考えた方が、いいのかもしれない。
渋谷から、西側を、望んだとき、国木田独歩の、心の中には、現実の武蔵野ではなく、美しい思い出が、そこに見えていたはず。
それが、「武蔵野」の中の武蔵野、なのかな。
だとすると、たんに、雑木林があって、畑があって、田園のような場所で、都心から、ちょっと離れている、そんな場所は、たいてい、武蔵野に入ってしまうわけだ。
ところで、玉川上水、というと、江戸時代、開削された、飲料用の、人工河川。
飲料用だからか、水質の維持、あるいは、護岸の保全のため、その、流域は、雑木林が、よく、保存されている。
ただ、水道が、整備されると、飲料用の人工河川は、ほとんど、無用の長物。
高度成長期を経て、流水は、停止状態だったことがある。玉川上水は、そのまま、埋められてしまうのでは、と思われたけど。
でも、その後、バブルの初め頃に、下水の水を使ってだが、無理やり、水流は復活。
今は、もとの通り、流れの中、鯉が泳いでいたりしている。
玉川上水の、自然と歴史テーマパーク、といったところか。
国木田独歩の、郷愁の彼方にあった武蔵野が、現実のものになったのかどうかは、わからないが。
(2010年1月記)

中央線三鷹駅(三鷹駅北口国木田独歩詩碑)

2010-10-06 06:09:04 | Weblog
メインストリートを南に向かい、再び、駅前へ。
駅舎の前、傍らには、国木田独歩の詩碑がある。
代表作、「武蔵野」に、ちなんで、ということかどうか、わからないが、たぶん、そうなのだろう。
自分も、いちおう、武蔵野、と呼ばれる、地域に、ずっと、住んでいるので、やはり、この、「武蔵野」という作品には、興味が、なくはない。
学生の頃に、一度、読み始めたような記憶があるし、何年か前にも、たしか、本を、買っている。
ただ、最後まで読む前に、どっかに、いってしまうのだが。
なぜ、読み進められないのか、というと、「武蔵野」の中の武蔵野は、特定の、地域を、指し示しているのではなく、何か、茫洋としたイメージの武蔵野、のような気がするからかもしれない。
例えば、その頃の、国木田独歩の自宅は、三鷹駅付近ではなく、今の、渋谷、NHK放送センターの南側にあったのだ。
「武蔵野」によると、その場所からして、武蔵野、であったらしい。
さらに言えば、武蔵野の定義は、西側は、まだ、いいとして、東側は、北千住、錦糸町、亀戸まで、含まれている。
これでは、「武蔵野」の中の、武蔵野には、違和感を抱かざるを得ない。
ひょっとしたら、この作品の武蔵野は、都心に対する、郊外、田園、といったものなのかもしれないな。
あるいは、都心での生活で、傷ついたり、荒んだりした、心を、癒す場、として、武蔵野を、見出したのかも。
どちらにしろ、国木田独歩の武蔵野は、三鷹駅には、今は、ないような気がするけど。
(2010年1月記)

中央線三鷹駅(武蔵野タワーズ)

2010-10-05 05:14:55 | Weblog
三鷹駅から、北に伸びる、メインストリートへ。
そのまま、北へ、歩いていく。
すぐに、東側に、武蔵野タワーズ。(工事中はこちら
スカイゲートタワー、スカイクロスタワーから成る、ツインタワーだ。
最近、竣工している。
ちょっと前から、よく見かける、駅前近くの、高層住宅なのだろう。
ただ、そういった場所は、だいたい、下町っぽい感じ、寂れた雰囲気が、多かったのだが。
とすると、つまり、いよいよ、中央線沿線も、その、寂びれた地域の、仲間入り、というわけか。
たしかに、高度成長期の、短い期間に、一気に、街並みが、完成したせいか、衰退するのも、早いような気もする。街に、成長を持続する力も、ないようだし。
高度成長期は、ニュータウン、という感じで、エネルギーに満ち溢れていたな。
次の安定期、街は、過剰なほど、きれいに、整備されていく。そのピークは、やはり、バブルの頃。
郊外型の店舗が、深夜を彩り、どこもかしこも、不思議に、賑やかだった。
そして、バブル崩壊。そんなはずはないと、思いつつ、失われた10年のどん底。
あれから何年経っただろう。気付いてみれば、いたるところ、シャッター通りだらけ。
武蔵野の大地も、ご多分に漏れず、だな。
そういうわけで、駅前に、高層住宅が、聳え建っているのかも。
(2010年1月記)

中央線三鷹駅(三鷹駅北口駅前広場)

2010-10-04 03:21:46 | Weblog
中央線に乗り、三鷹駅で、下車。
近場だと、さすがに、楽だな。すぐに、着いてしまう。
もっとも、そのわりには、三鷹駅、ほとんど、降りたことはない。
ひょっとしたら、北口は、初めてかな。
でも、北側を、東西に伸びる、井の頭通り、五日市通りは、クルマで、何度も、通ったことはあるので、雰囲気は、わかっている。
郊外の、落ち着いた住宅地、といったところか。
ただ、歴史は、それほどないだろう。
三鷹の「鷹」は、江戸時代の、鷹狩のことだし。つまり、鷹狩の獲物しか、いないような場所だったのだ。
そういうわけで、中央線沿いに、街が、でき始めたのは、昭和の初め頃かな。
本格的に、宅地が、広がっていったのは、さらに、後のこと、高度成長期。
それ以前は、ハイキングコースがあるような、そんな場所だったのだろう。
自分が、住んでいるところも、そうだったし、自分が、引っ越してきたのも、同じく、高度成長期だ。(もちろん、自分は、子供だったけど)
地元の子供が、言っていたな。
宅地が、広がる前、そこには、広大な、林が、あったと。
それこそ、まさに、武蔵野の雑木林だったわけだが。
つまり、目の前の街並み(自分の住んでいるところも含めて)、武蔵野の大地に、雨後の筍みたいに、できあがったわけか。
そう考えると、なんだか、儚い、感じがする。
(2010年1月記)

山手線渋谷駅(東急文化村デパート)

2010-10-03 08:29:52 | Weblog
さらに、東へ歩いていくと、渋谷の街の西端。
東急文化村デパートがある。
バブルの頃に開業した商業施設だ。
渋谷の街の上客が、山の手、松濤の住宅地だと、よくわかる商業施設だな。
でも、バブルの頃は、よく、東急文化村デパートの、すぐ東側、タワーレコードに行っていたけど、そんな感じは、しなかった。(昔は、タワーレコード、渋谷センター街のずっと奥、つまり、東急文化村の近くにあったのだ)
実際、ちょっと気になって、入ったこともある。やっぱり、高級デパートだったが、特に、気にはならなかったし、そもそも、興味もないし。
そういえば、思い出した。
中島みゆきのコンサートをやっていたんだっけ。夜会、だったかな。
いつか、行こう、なんて、思っているうちに、すっかり、忘れていたな。
今さら、思い出しても、さすがに、もう、行く気もしない。
ところで、たしか、あの頃、渋谷の街では、西武と東急が、競い合うようにして、デパートや、商業施設を、続々と、開業させていたのだ。
めくるめくような、そんな世の中。
あのまま、時間が経ち、時代が過ぎていくと、思ったのに。
もう、そんなことは、二度とないだろうなあ。
そうなって、何年、経つことやら。
最近は、渋谷に、来ることも、なくなったし。
今は、あの頃の、東急文化村デパートが、まだ、存在し続けているのが、不思議な感じにすら、思えてくる。
もう、帰ろう。今年も、終わりだ。
年が、変わって、こうして、また、めくるめく時代から、一歩、離れていくわけかな。
(2009年12月記)

山手線渋谷駅(文化村通りから西へ伸びてくる拡幅中の道)

2010-10-02 08:24:52 | Weblog
東へと、住宅地の中、進んでいく。
さすがに、豪邸ばかりだな。
あまり、豪邸には、興味がないので、どこがどう、豪邸なのか、ちょっと、わからないけど。
そんな住宅街を、抜けていくと、拡幅される予定らしき道路。
渋谷の街から伸び、山手通りへ、達するらしい。
普通、山の手は、外部から、他所のクルマが、侵入してこないように、細い道が、迷路のようになっているものだが。
でも、そういえば、世田谷や、代々木も、道路が、拡幅されていたな。
山の手は、解体していくのだろうか。
そんなことは、あり得ないだろう。
ただ、高度成長期以前の、山の手、下町、という、構図は、なくなっていくのかもしれない。
つまり、下町が、消滅していくのだ。
下町が消え、全部、山の手になってしまえば、道路が整備され、他所から、山の手に、容易に、入ってこられてとしても、問題ないのだろう。
むしろ、山の手にとっては、便がよくなる。
もっとも、山の手住宅地の、交通の便について、興味は、さらさら、ないので、どうでもいいんだけど。
(2009年12月記)