retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

東急目黒線不動前駅(下目黒二丁目 山手通りの拡幅工事現場)

2010-08-11 05:12:29 | Weblog
再び、山手通りに出て、南へと進む。
かなり、歩いて来ると、東西に伸びる、目黒通りとの、交差点。
この、交差点の、一画には、大鳥神社がある。
古い神社で、とても、趣があるのだが、今回は、そのまま、通り過ぎることにする。次回、訪れようかな。
さらに、南へと、進んで行くと、拡幅工事の現場。
おそらく、この先、東急目黒線か、首都高目黒線あたりまで、工事現場は、続いているようだ。
そういえば、その、もっと先の、池上線大崎広小路駅あたりでも、拡幅工事を、やっていたっけ。
かくのごとく、山手通りは、あちこちで、拡幅されつつある。
ところで、ちょっと昔の地図を見てみると、さっき、通ってきた、目黒川が、自然再生事業されたあたりから、目黒通りとの交差点まで、その当時は、まだ、拡幅されていなかったようなのだ。
代わりに、その部分には、商店が、軒を連ねていたらしい。
たぶん、今、拡幅工事をやっている、部分も、同じような、状況だったのだろう。
あまり、大通り、という感じはしない。
ひょっとしたら、そんな昔ではなくとも、山手通りは、主要幹線道路では、なかったのかもしれないな。
それに、山手通りの拡幅は、けっこう、最近、始まったのかも。
とすると、地下を、首都高中央環状線が通るから、ということ以外に、あるいは、都心中心部が、膨張した、ということも、その、拡幅の、理由かもしれない。
(2009年11月記)

東急東横線中目黒駅(川の資料館付近 目黒川)

2010-08-10 06:08:38 | Weblog
いちおう、駅近くには、まだ、お店があるみたい。
根こそぎ、街並みが、すべて、消えてしまったわけではないようだ。
でも、やっぱり、ほぼ、消滅した、といっていいだろう。
そういえば、こんな風に、商店街が、再開発されると、いつものことなのだが、感じることがある。
なくなる前の街並みが、実は、かなり、狭い空間だったのだな、ということだ。
たぶん、空間に対する捉え方は、社会的な要素や、心理的な要素が、含まれているんだろうな。
もっとも、そんなこと、消えてしまった後に、気付いても、遅いけど。
目黒川に沿って、南へと、歩いていく。
川岸を進むことになるわけだが、都心部の河川は、川、というよりも、巨大な側溝。歩いていても、風情など、微塵もない。
と思っていたら、進むに従い、妙に、川の様子が、変わってきた。
岸辺には、葦のような植物。川底も、それらしく、砂礫が敷き詰められている。
しかも、葦の草叢には、水鳥まで、いるではないか。
いったい、これは、どうしたことだろう。
ここの部分だけ、護岸工事がなされず、天然のまま、残ったのかな。
そんなはずはない。
とすると、これは、自然再生事業、ということになる。
無理して、護岸工事を施し、またさらに、もとに戻しているわけだ。
治水事業ということから見れば、ただ単に、天然のままに、戻しているわけではないんだろうけど。
ただ、こんな風に、一方で、下町が、消えたと思ったら、他方では、コンクリで固められた、側溝が、自然に戻った、というのは、不思議な感じてしまったが。
(2009年11月記)

東急東横線中目黒駅(中目黒付近 目黒川)

2010-08-09 04:26:58 | Weblog
中目黒駅の北側は、実は、西郷山、青葉台が近く、そもそも、下町的ではないだろう。
ということは、南側が、再開発されているなら、もう、中目黒には、下町は、残っていない、といえるのかもしれない。
だから、もう、浅ヤンの金萬福の店など、とうに、ないのだ。
もっとも、下町と、浅ヤンは、関係ないはずだが。
でも、その当時は、なんとなく、中目黒なら、そういうお店もあり得るな、と思っていた。
たぶん、浅ヤンの正式名称が、浅草橋、からきているからかな。銀座や青山ではない。
ところで、浅ヤンでやっていた、中華料理対決、面白かったな。(周富徳、もちろん、金萬福も登場していた)
高級中華料理が、ずいぶん、身近に感じたものだ。むしろ、庶民的ですらあったな。今から考えると、そんなあり得ないことだが。
中華料理対決の変形版で、寂れた、ラーメン屋とかを、再生させる、という企画もやっていた。今、その、再生したはずの、お店は、どうなっているんだろう。
残っているとは、思えないなあ。すべては、バブルの頃の、夢だったのだ。
だいたい、高級中華料理なんて、そんなに、日常的に、食べられるわけ、ないではないか。
そんなことを考えながら、やはり、ちょっと、昔の、街並みが、気になって、中目黒アトラスタワーと駅の間を、東へ歩いてみる。
何もないままに、目黒川に行き着いてしまった。
そこには、目黒川の流れが、あるばかり。
(2009年11月記)

東急東横線中目黒駅(中目黒アトラスタワー)

2010-08-08 07:09:06 | Weblog
高田馬場駅から山手線。渋谷駅で東急東横線に乗り換える。
中目黒駅で下車。
改札を出ると、すぐに、交通量の多い、幅広の、山手通り。
駅周囲には、飲食店などが、密集している。
そういうところだけ見ると、まるで、総武線沿線のようだが。
でも、よく、お店を見ると、たしかに、よくある、チェーン店もあるけど、やっぱり、下町には、なさそうな、お店も、ちらほら。
こんな風に、相変わらず、下町っぽいのか、代官山っぽいのか、よくわからない街だ。
下町っぽいのは、たぶん、近くに、山手通りがあって、住環境が、よくないせいもあるのだろう。
そういえば、ずっと前、浅ヤン、見ていたとき、金萬福が、中目黒に、中華料理屋を出した、と言っていたけど、どうなったのだろう。
バブルの頃のこと、もう、かなり、年月が経っているので、よもや、残っているとは、思えないが。
そんなことを思い出しながら、山手通りを、南へ。
すぐに、駅南西側、山手通りの西側に、中目黒ゲートタウンタワー。
中目黒の駅周辺の街の一画には、かくのごとく、高層ビルが建った。
そして、今、さらに、駅南東部、山手通りの東側には、もっと、巨大な、中目黒アトラスタワー。(工事中は、こちら
中目黒ゲートタウンタワーが、建つ前は、中目黒に来たことは、なかったので、どうなっていたか、わからないが、おそらく、商店街があったように思う。
中目黒アトラスタワーの方は、最近のことなので、よく、覚えている。古そうな飲食店が、ごちゃごちゃと、固まっていたのだ。
こう見てくると、もともとは、下町か、山の手か、よくわからなかったが、最近は、確実に、下町の部分が、消えていっているのは、確かだな。
(2009年11月記)

銀座線浅草駅(吾妻橋から隅田川下流方向を臨む)

2010-08-07 08:23:11 | Weblog
リバーピア吾妻橋を過ぎれば、その向こうには、吾妻橋。
その吾妻橋を渡り、浅草へ向かう。
橋下には、絶え間なく、滔々と流れる大河、隅田川。
この川の流れは、幾千年の昔から、変わらないのだな。
そして、間違いなく、幾千年の後も、同じだろう。
そんな思いに駆られながら、橋を渡っていく。
もう、対岸の浅草に着く、というその間際、ふと、川下の方を、見やると、係留された、何艘もの、屋形船。
たぶん、もう、夕刻ゆえ、夜の舟遊びの準備に追われているのだろうか。
この、波間にたゆとう屋形船を眺めていると、浅草も、すっかり、観光地になったな、と実感してしまう。
以前は、レトロな繁華街にして、鄙びた観光地、だったけど。
変われば変わるものだ。
それでも、高度成長期より前は、都心を代表するような、大繁華街だったのだ。
昭和の初め頃、銀座線が、開通したとき、一方の、終着駅になったのも、頷ける。
江戸時代も、近場リゾート地として、大いに賑わったらしい。
隅田川沿いには、別宅が、並んでいた、ということだ。
江戸時代よりも前は、鎌倉街道、そして、湊、渡船場。
交通の要衝にして、物流の拠点だったのかな。
それ以前は、どうなんだろう。もう、わからない。
最初の、入植者が、漁師を生業にして、暮らしていたのだろうか。
それとも、縄文時代からの住民が、暮らしていたのだろうか。
たぶん、縄文時代の住民は、高台に住んでいたので、入植者かな。わからないけど。
わかっているのは、その頃も、今と同じように、隅田川が、ゆったりと、流れていた、ということ。
もう、帰ろう。
吾妻橋を渡りきれば、すぐに、銀座線の入口があるはずだ。
たしか、銀座線の構内、ちょっと前までは、ずいぶんと、レトロで、旅情を誘われたものだが、最近、きれいに、改装されてしまった。無粋で、残念だけど。
もっとも、また、何十年も経てば、レトロになることだろう。
時代の流れも、川の流れのごとく、ということなのかもしれない。
(2009年10月記)

都営浅草線本所吾妻橋駅(リバーピア吾妻橋 ライフタワー)

2010-08-06 06:09:26 | Weblog
さらに、西へと歩いていく。
途中、五叉路の交差点。北西方向へ。
そのまま、進んでいけば、浅草に行き着くはずだ。
しばらく、歩いていくと、隅田川の手前に、リバーピア吾妻橋のビル群がある。
その中に、高層住宅、ライフタワー。
他の高層ビルとしては、アサヒビールタワー墨田区庁舎の二棟もある。
共に、バブルの頃の完成だ。
建物の規模は、スカイツリーと、まるで、違うけど、当時の、インパクトは、同じぐらいだったんじゃないかな。
リバーピア吾妻橋の登場も、当時としては、世の中の、変貌を、強く、感じさせてくれたものだ。
実際、その後、世の中は、大きく、変わったけど。
でも、それは、結局、普遍的なものでは、なかったかもしれない。
すくなくとも、自分は、そこには、いないな。
バブルの頃までは、時代に取り残されても、それなりに、居場所があった。
そして、世の中の変化から、なにがしかの、享受は、受けていた。
今は、そういうことはない、ということだ。
例えば、もの凄く、巨大な、電波塔が建っても、関係ないどころか、いままでの、テレビが使えなくなってしまったぐらい。
たしかに、デジタル放送は、画面が、きれいで、結構なことだし、いろいろ、便利かもしれない。
けれど、特に、そうして欲しいと、思ったことはないし。
なんだか、消費税を、徴収されたみたいな感じだな。
それでも、時代は、容赦なく、動いていく。
(2009年10月記)

東武伊勢崎線業平橋駅(大横川親水公園 業平橋付近)

2010-08-05 06:10:38 | Weblog
橋の袂には、見物客が、写真を撮っていたりする。
工事中にして、この有様、完成すれば、どんな、賑わいになることやら。
北十間川の北岸を、再び、西へと、歩く。
そういえば、スカイツリーで思い出した。うちのテレビ、まだ、普通のやつだ。
どうしようか。すっかり、忘れているな。
ほとんど、テレビなんて、見ていないから、その分には、いいんだけど。
いつも、映画のDVDを見るのに、使ってるだけだし。
それに、引越しして以来、ずっと、苦楽を共にしてきた、テレビを、捨ててしまうというのは、ちょっと、気が引ける。
ここは一つ、地デジチューナーにしてみようか。
そんな、変わり者が、少しは居てもいいだろう。
しばらくすると、業平橋駅。
この業平橋が、依然として、レトロなのだ。
まだ、昭和の頃の面影を、十分に、残している。
おそらく、押上駅と、接続していて、どのみち、再開発されるはずなので、今、改良して、駅舎を、新しくしても、無駄になってしまう。だから、昔のまま、ほって置かれているのだろう。
理由はどうであれ、時代の流れに取り残されているところは、うちのテレビみたいで、なんとなく、親近感が湧くな。
北十間川を渡り、南側へ。
東西に伸びる、浅草通りに入り、西へ西へと進む。
やがて、大横川親水公園。
船を模した、建物などあり、遊園地のようだ。
公園事務所らしいが。
できたのは、バブルの終わり頃。
このように、整備された、親水公園を見ると、やはり、昭和は、遠くなったな、と思ってしまう。
やっぱり、昔のテレビ。もう、無理かな。
(2009年10月記)

半蔵門線押上駅(工事中のスカイツリー)

2010-08-04 06:10:14 | Weblog
四ツ目通りを、北へ北へと、歩いていく。
一帯は、昭和の初め頃から、工場地帯、下町になったのだが、その後、高度成長期を経て、工場地帯は、なくなってしまった。
工業立国を、達成してしまえば、もう、工場は、いらなくなるのだ。
ということで、その跡には、うらぶれた、時代遅れの、下町だけが、残ることになる。
それは、それで、レトロで、よかったのかもしれないけど。
昔懐かしい、昭和の街並み、というわけ。
でも、そういう場所は、結局、再開発の対象になる。
それが、錦糸町のアルカタワーズのビル群なのかな。
それに、今、歩いている、このあたりも、昔は、もっと、鄙びた感じがしたっけ。
いつしか、きれいに、整備されているし。
そんな、四ツ目通りを、さらに、北へ歩いていくと、東西に伸びる、北十間川。
北十間川を、渡ると、対岸は、押上だ。
そして、その、押上こそ、現在、もっとも、大きな再開発の現場といえる。
巨大な、電波塔、スカイツリーが、工事中なのだ。
北十間川の北岸、その、広大な工事現場の南側を、西へと歩いていく。
さすがに、間近で見上げると、もの凄く、巨大だな。
隣にも、高層ビルも建つ予定だが、これでは、できあがっても、ただの、普通のビルにしか見えないだろう。
押上あたりは、この、工事が始まるまでは、まだ、レトロな雰囲気だったのだが、再開発が、完成すれば、一変してしまうに違いない。
かくのごとく、かつての、下町の、変貌は、今も、続いているのだ。
(2009年10月記)

総武線錦糸町駅(横川三丁目 四ツ目通り)

2010-08-03 03:13:33 | Weblog
錦糸公園は、昭和の初めに、開園したらしい。
その頃、都心西側は、郊外、田園都市になったのだが、東側は、工場地帯、下町になっている。
錦糸公園は、そういった、下町の憩いの場として、作られたのだろう。
もっとも、郊外の公園と、下町の公園と、どう違うのか、あるいは、まったく、同じなのか、よくわからないけど。
なんとなく、郊外の公園は、緑が多く、下町の公園は、緑よりは、広場の方を、重視しているような気がするが。
そのような、錦糸公園を、横切って、西側へ。
南北に伸びる大通り、四ツ目通りに出る。
四ツ目通りを、今度は、北へ。
四ツ目通り、というと、一ツ目通りから、始まって、順に、通りがならんでいるように思うけど。現に、西側には、三ツ目通りがあるし。
ただ、明治時代の地図を、見ると、あたりには、田圃しかなく、そんな、幅広な、通りは、もともと、なかったようだ。
代わりに、というわけではないが、南側を、東西に流れる竪川には、西から順番に、一之橋、二之橋、三之橋、が、架かっていたらしい。
そして、街並みが広がると共に、それらの橋から、道路が伸び、一之橋からは、一之橋通り、二之橋からは、清澄通り、三之橋からは、三ツ目通り、四之橋からは、四ツ目通り、五之橋からは、明治通り、という具合になったようだ。
つまり、余程、道路に付ける名前が、思い浮かばないほどに、特徴のない、場所だったのだろう。
それが、今では、すっかり、変わってしまった、ということだ。
(2009年10月記)


総武線錦糸町駅(錦糸公園)

2010-08-02 05:07:44 | Weblog
アルカタワーズ錦糸町のペデストリアンデッキから、エスカレーターで地上に下りる。
東西に伸びる通りを、東へ。
途中、ちょっと、空腹を感じたので、ファストフード店に入る。
なんだかんだいっても、こういう、チープな店は、あるもんだな。
ハンバーガーと飲み物、頼んで、席に着く。
単純で、わかりやすい味で、美味しい。
店内は、特に、空いているというわけでも、混んでいるというわけでもなく、普通の状態。
そもそも、常に、そういう風になるように、客の流れを、調節しているのだろう。
半分ぐらい食べたら、ふと、楽しいこと、思い付いた。
今日は、秋晴れ。日和もいいことだし、公園で、食べようかな、ということ。
さっそく、食べかけのハンバーガーと飲み物、持って、店の外へ出る。
東に歩き、南北に伸びる、大通りを渡ると、広大な、錦糸公園。
お誂え向きの公園だ。
園内に入って、さらに、東へと進むと、池の前に、ベンチまであるではないか。
ベンチに座って、ゆっくりと、残りのハンバーガーを頬張り、温かい飲み物を、口に含む。
そして、目の前を、子供らが、元気に走っていくのを眺めているのだ。
このまま、ずっと時が経ってしまえばなあ。
そういう思いが、湧き上がってきてしまう。
でも、そういうわけにもいかないし。
食事が終わってしまったので、重い腰を、ベンチから持ち上げ、それから、ゆっくりと、公園の中を、北西方向に歩いていく。
周りには、まだ、子供らが、駆け回っていて、賑やかだが、行かなければならない。
(2009年10月記)