retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

総武線飯田橋駅(飯田橋駅南側の繁華街)

2010-07-11 06:59:27 | Weblog
高田馬場駅から東西線。
飯田橋駅で下車する。
地上に出ると、南北に伸びる、目白通り。
北側には、総武線の高架と外濠、神田川。
南東側は、低地で、かつては、貨物駅があったのだが。
今は、なくなり、再開発され、高層ビル街となっている。
南東側は、番町、麹町の台地。飯田橋付近は、その、下り斜面だ。
こうした台地の麓は、たいてい、下町、ということになる。
番町、麹町を山の手とすると、その山の手に対する下町なのかな。
総武線沿線ってほどじゃないけど。
ただ、それなりに、飲食店が、密集していて、やはり、下町という感じはする。
昔、バブルの頃だったかな、そんな、飯田橋の飲食店街の中、呑み屋に、何度か、連れて行かれたものだ。
一度だけ、その頃は、とても、珍しかった、沖縄料理の店にも、行ったな。
何を、食べたのか、覚えていないけど、他の連中は、泡盛ばかり、呑んでいたことは、覚えている。
昔は、ひょっとすると、沖縄料理、というと、泡盛だったのかも。
当時の、飯田橋には、そんな思い出しかない。
もっとも、その頃、すぐ、近くには、広大な、貨物ヤードが、広がっていたので、そういった、飲食店街の風景、それほど、特別な感じは、しなかっただろうな。
今は、高層ビルが、建ち並び、さながら、オフィス街。
時代の流れを、感じてしまう。
もう、昔は、思い出の中だけ、なんだな。
(2009年10月記)

東急世田谷線世田谷駅(東急世田谷線世田谷駅)

2010-07-10 06:52:18 | Weblog
東急世田谷線世田谷駅へ、やっと、到着。
ホームは、改札もなく、とても、小さい。
そして、そこには、他に、誰もいない。
まるで、辺鄙な場所の、ローカル線のようだ。
このタイプの、路面電車然とした路線、他には、荒川線がある。
ただ、荒川線の方は、いつも、混雑していて、長閑な感じは、微塵もない。
そういった意味では、東急世田谷線と荒川線は、似て非なるものだろう。
将来、荒川線沿線が、世田谷のような、閑静な住宅地になったり、観光地にでもなれば、ひょっとして、東急世田谷線みたいになるのかもしれないが。
もっとも、そうなったからといって、特に、どうということもないけど。
ところで、東急世田谷線なのだが、三軒茶屋駅から、終点の下高井戸駅まで、何回か、乗ったことはある。
乗ったときは、通勤時間帯ではなかったので、本当に、そうかどうか、わからないが、通勤路線、という感じではなかったな。
まるで、閉じられた、テーマパーク内を走る、輸送機関、そんな、感じ。
実際、一帯は、幹線道路もなく、迷路のような、細い道しかないので、周囲とは、隔絶しているわけだけど。
そんなことを、考えているうちに、車両が、ホームへ。
外から見ると、車体は、小さく見えるが、中は、広くて、快適だ。
しかも、混んでいないで、ゆっくり、座れる。
料金は、都営バスのように、乗るときに、支払う。
そういえば、三軒茶屋駅では、改札が、ちゃんとあって、そこで、料金を、投入するんだっけ。
切符を購入するわけではないので、なんとなく、テーマパークに、入場料を払って、入るような気がするのだ。
車両は、その、三軒茶屋駅に、滑り込み、到着。
料金は、払い済みなので、そのまま、なにか、釈然としない感じで、歩いていく。
いつしか、導かれるようにして、地下道へ。
もう、田園都市線の三軒茶屋駅だ。
駅構内は、いつものごとく、喧騒の中。さっきまでの、閑静な雰囲気は、もう、ない。
現世に戻れたような気分がする。そして、なにやら、ほっとした気分だ。
(2009年10月記)

東急世田谷線世田谷駅(東急世田谷線世田谷駅付近の道路工事現場)

2010-07-09 04:33:19 | Weblog
天祖神社の脇から、境内を出て、北に向かうと、ひょっこりと、世田谷通りに出る。
神社の境内も、長閑だが、世田谷通りも、のんびりしているな。
そんな、世田谷の街だが、もうそろそろ、帰らなければならない。
帰るには、世田谷通りの北側を、東西に伸びている、東急世田谷線に、乗ると便利だ。
ということで、世田谷通りから、北側へ。住宅街に入る。
近くには、上町駅があるが、せっかく、世田谷まで来たので、西側の、世田谷の中心かどうか、わからないが、世田谷駅へ。
それにしても、世田谷通りから、一歩でも、住宅街に入ると、本当に、静か。
そして、細い道が、迷路のように、広がっている。
これだと、世田谷通りに対して、抜け道は、あるのかもしれないが、補完するような、道路は、ないに違いない。
ということで、クルマは、全部、世田谷通りに、集中してしまうのだ。
だから、まわりは、長閑なのに、世田谷通りは、いつも、えらく、混んでいるのかな。
東京の下町、城東や、城北は、まったく異なっている。
下町は、幅広の通りが、縦横に、走っているのだ。
対して、世田谷のような、山の手は、幹線道路以外は、細い、迷路だらけ。外部の、クルマは、入ってこれない。
これだと、ほとんど、私道みたいな、もんだな。
と思っていたら、東急世田谷線世田谷駅近くに、南北に伸びる、通りを、工事中。
そういえば、さっきも、別の、南北に伸びる、通りの、工事現場を、見たっけ。
これらの、日本の通り、山の手迷路地帯を、貫いていくように、思える。
それほど、大袈裟ではないものの、何かの、大きな変化の兆し、なのかもしれない。
(2009年10月記)

東急世田谷線上町駅(世田谷一丁目 天祖神社)

2010-07-08 05:07:07 | Weblog
代官屋敷跡の、ボロ市通りを挟んで、北側には、天祖神社がある。
創建は、よくわからないらしい。
ただ、代官屋敷の、すぐ、目の前にあるわけだから、そのことと、関係が、なくはないだろうと思う。
とすると、創建は、江戸時代なのかな。
それに、以前は、北側の、今の、豪徳寺あたりにあった、世田谷城が、一帯の、中心だったわけで、そういうことからも、やはり、江戸時代と考えられる。
ちなみに、ボロ市も、江戸時代より前は、世田谷城の近くで、開催されていたらしい。
ところで、世田谷の、地名についてなのだが、江戸時代前、世田谷城があったころよりも、さらに、昔に、遡る。
もともと、世田谷、という場所に、築かれた城郭だから、世田谷城なんだろうけど。
世田谷の故地は、ここより、ずっと、南側、多摩川の北岸、二子玉川の北、瀬田、らしい。
とすると、世田谷は、もとは、瀬田谷、だったのかな。
ちょっと、離れているように、思えるけど、鎌倉時代には、今の、二子玉川から、世田谷にかけて、鎌倉街道が、通っていたので、別の地域、という、感じではなかったに違いない。
たぶん、多摩川の北側、鎌倉街道に沿った、一帯を、瀬田、といったのだろう。
その後、吉良氏が、今の、豪徳寺あたりに、進出し、一帯の、開拓を行ったのだ。
そして、いつしか、地名が、瀬田から、世田谷に、なったのかな。
そのように見てくると、今は、穏やかな、地域だが、昔は、未開の地、だったわけか。
結局、いつまでも、時代とは、無関係、ということは、ないのだ。
(2009年10月記)

東急世田谷線上町駅(世田谷一丁目 代官屋敷跡)

2010-07-07 05:05:59 | Weblog
普通の道路だな、と思いつつ、歩いていると、通りの南側に、代官屋敷跡。
いちおう、名所には、なっているのだろうが、代官屋敷なんて、江戸時代、どこにでも、あったわけで、とくに珍しい建造物、というわけでもないだろう。
ただ、珍しければ、かえって、珍重され、残ったかもしれず、あまりに、平凡であれば、逆に、時代の波に押し流され、残らないものだ。
とすると、建物自体が、珍しいのではなくて、残っているということが、珍しい、ということになる。
そういった意味では、ここにある、代官屋敷、やはり、貴重なのかもしれない。
もっとも、特に、入ってみようとも、思わないな。
やっぱり、ただの、大きな、農家の家屋にしか見えないし。
ちなみに、高度成長期に頃の、世田谷の、写真を見ると、まわりにある建物は、みんな、この、代官屋敷のよう。
昔から、あんまり、変わっていないのだ。
ようするに、ここらへん一帯が、時代の荒波にさらされることのない、いたって、穏やかな地域、ということなのかな。
かといって、時代に取り残された、という、うらぶれた感じは、しない。
時代に取り残されたのではなく、時代とは、無関係なのだろう。
だから、郊外山の手、田園都市、なのだ。
近くで、変化しているとすれば、246号線沿いぐらい。
三軒茶屋の、三軒の茶屋も、なくなっている。(三軒のうち、一軒は、別の業種として、残っているらしい)
他の地域に比べれば、それほどの、変化ではないかな。
(2009年10月記)

東急世田谷線上町駅(世田谷一丁目 ボロ市通り)

2010-07-06 05:36:42 | Weblog
世田谷通りを、さらに、東へ。
通り沿いには、だんだん、お店なども、並び始めてくる。
ただ、商店街のような、賑やかさはなく、いたって、静かだ。
落ち着いた、穏やかな、街並み。まさに、世田谷、という感じ。
ところで、世田谷、といえば、有名なのは、ボロ市なのだが。
そのボロ市、毎年、ボロ市通りで、開催されるらしい。
ということで、さっそく、見に行こうと思ったけど、どこに、あるんだか、見当が付かないな。
いったん、東側に歩き、どう見ても、なさそうなので、途中で、引き返す。今度は、南側、住宅地に入り、西へ。
やっと、ボロ市通りを、見つけたのだが、ごく普通の、通りだ。世田谷に疎い、自分にとって、わからないのも当然だ。
いままで、ボロ市通り、というのは、商店街になっているのかと思っていたけど。
ただ、世田谷なので、本当に、ボロボロな商品を、扱っている市、でないことぐらいは、想像できる。
むしろ、あちこちで開かれている、骨董市の類なのだろう。あるいは、ひょっとすると、その先駆け、なのかもしれない。
つまり、骨董、アンティークを扱っているわけで、それなら、世田谷に相応しい、というわけだ。
そんな、普段は、ごく普通の姿をしている、ボロ市通りを、西へと、歩いていく。
とりたてて、何かあるわけでもないけど。
(2009年10月記)

東急世田谷線上町駅(世田谷二丁目 道路工事現場)

2010-07-05 04:53:04 | Weblog
北へと歩いていく。
苑内は、家族連れも多く、憩いの場になっているようだ。
馬のテーマパークで、のんびりする、というのは、来る前は、あまり、想像していなかったな。
馬というと、自分にとっては、競馬ぐらいしか、思い当たらなかったからだ。
ただ、乗馬とか、そういったことになると、もっと、違う、社会的な、意味合いがあるものかもしれない。
ちょっと、古めかしいが、上流階級なんて、感じがするし。
おそらく、それで、郊外の山の手、田園都市に、いち早く、こうした、テーマパークが、完成したのだろう。
馬事公苑の外へ出て、東へと、進む。
一帯は、再び、閑静な、住宅街。
三軒茶屋、あるいは、交通量の多い、246号線から、ちょっと、住宅街に入れば、たいてい、そんな雰囲気なんだが。
こういうところに、暮らしていると、世界観なんて、まったく、違うんだろうな。
延々と、歩いていると、自分が住んでいる環境と、あまりに、違いすぎて、何か、打ちひしがれてしまう気分。
そのまま、東へ東へと、歩いていくと、世田谷通りに出る。
この、世田谷通り、交通量の多い、幹線道路なのだが、そのわりに、長閑な雰囲気がするのは、郊外の山の手を通っているからかな。
あるいは、交差する、大通りが、ないので、あまり、利便性がなく、交通量が多いといっても、地元のクルマばかり、だからだろうか。
よくわからないし、そもそも、わかったとしても、どうでもいいことだな。
そんな世田谷通りを、さらに、進んで行くと、しばらくして、通りの北側に、道路工事現場。
世田谷通りに、交差する、通りを、作っているわけだ。
ひょっとしたら、都心回帰、ということで、郊外の山の手、田園都市も、変化している、ということだろうか。
(2009年10月記)

上用賀二丁目(馬事公苑の中の池)

2010-07-04 07:02:24 | Weblog
いつまでも、馬術競技を見ているわけには、いかない。池を、見に行くんだった。
苑内の地図によると、池は、南側にあるらしい。
さっそく、行ってみる。
まわりは、馬事公苑、ということで、普段、見慣れないものばかり。
例えば、地面は、たぶん、馬の足を痛めないようにするためだろうか、砂地になっていて、そういうことも、なかなか、興味深い。
そんな苑内を、南へ南へと、歩いていく。
ところで、馬事公苑についてなのだが、完成したのは、昭和の初め頃、郊外化が始まろうとしていた時期。
やはり、太古の昔の、放牧場とは、関係なさそうだ。
おそらく、都市に対する郊外の誕生に、関わるものだろう。
郊外に暮らす、住民のための、自然公園、プラス、馬に関するテーマパーク、といったところかな。
ただ、他の郊外と、比べれば、そのような、テーマパークの出現、異例に、早いような気もする。
郊外の中でも、田園都市、山の手、という位置付けだからだかうか。よく、わからないけど。
そんなことを考えているうちに、周囲は、動物園と、日本庭園が、混ざったような感じになってくる。
日本庭園、とくれば、池、なわけで、実際、幾つかの、池が、現れた。
もう、判っていたが、蛇崩川の、源泉という風には、見えない。
どうみても、日本庭園の池だな。
たとえ、これらの池から、水が流れ出していたとしても、西側だろう。
というわけで、蛇崩川の源流を探索する、道行は、実に、不完全燃焼に終わってしまった。
時間があれば。また、来ればいい。
さて、戻るとするか。
(2009年10月記)

上用賀二丁目(馬事公苑 馬術競技)

2010-07-03 06:42:54 | Weblog
延々と歩き続け、やっと、馬事公苑の西側へ辿り着く。
今度は、馬事公苑に沿って、北へ。
もはや、見た目にも、完全に、西側への下り勾配だ。
この下り勾配、ちょっと、離れているが、仙川や、野川への、谷地の斜面なのかな。
そういうわけで、馬事公苑の池は、蛇崩川の源泉ではないと、はっきり、悟ったのだが、せっかくなので、とにかく、馬事公苑を目指す。
かなり歩いて、北側へ。入口は、いっかな、見つからない。
ひょっとして、実は、かなり、遠回りしているのかも。
東へ曲がり、そのまま、東へと、さらに、歩き続ける。
ようやく、閑静な住宅街、という雰囲気から、テーマパークによくあるような、お祭り的な、賑やかな感じの場所。やっと、入口に着いたようだ。
入口が、馬事公苑の東側だったら、ぐるっと、一周、回ることになってしまうところだったな。
広い門を、通って、苑内に入る。入場料は、特に、設定されていない。
中は、広々としていて、緑も多く、飲食店などもあり、馬についての、テーマパークといったところ。
こんな場所が、あるとは、思わなかった。
一画では、馬術競技も開催されていて、大勢の観客が、見入っている。
自分は、馬に関して、まったく興味もないし、知識もない。まして、馬術競技なんて、テレビでも、見たことなかったけど、こうして、観戦していると、なかなか、楽しいものだ。迫力もあるし。
そのとき、ふと、太古の昔、ここからは、ちょっと、東側になるが、近くに、広大な、放牧場があったことを、思い出した。
そういうことに因んで、馬事公苑が、あるわけでもなく、偶然なのだろうけど、何か、できすぎのような気がしてしまう。
(2009年10月記)

弦巻五丁目(蛇崩川の源泉があったと思われる公園)

2010-07-02 03:03:09 | Weblog
閑静な住宅地の中、川の跡らしき、道を辿りつつ西へ。
ちょっとした、登り勾配なので、間違いないと思いつつ、進んでいく。
ただ、この時、緑道のどこかに設置されていた表示板か、あるいは、思い違いの記憶によるものなのか、蛇崩川の源泉は、馬事公苑の池、という錯覚ができてしまっていた。
だから、蛇崩川の跡を辿りながら、馬事公苑を目指していたのだ。
さらに、西へ西へと、緩い坂道を歩いていくと、通りの北側に公園がある。
後で、考えると、この公園に、蛇崩川の源泉があったと思う。
だが、馬事公苑の池、と信じ込んでいたので、そのまま、通過。
公園の写真は、まったくの、偶然に、撮ったものだ。
そうと判っていたら、公園をもっと、探っていたのだが。
そんなわけで、気付かずに、どんどん、歩いていくと、どう考えても、明らかに、登り勾配ではなくなる。
この時点で、馬事公苑の池は、蛇崩川という説は、かなり、大きく、揺らいでいたな。
すぐに、馬事公苑の東側を、南北に伸びる、通りに出る。
実は、この通り、昔は、品川用水が、流れていたのだ。
もし、馬事公苑に、蛇崩川の源泉があるとするなら、この、品川用水を、横切っていなければ、ならない。
それは、ちょっと、考えられないので、明らかに、馬事公苑の中に、蛇崩川の源泉は、ないことになる。
もっとも、この時、品川用水について、知らなかったのだが、それでも、もう、地形的に見て、あり得ないな、と気付いていた。
でも、ここまで来て、引き返すのも、なんだし、いちおう、馬事公苑の池だけは、見ておこう、そう、思い直し、馬事公苑の南側を、西へと、歩き続ける。
(2009年10月記)