retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

銀座線外苑前駅(外苑総合グラウンド)

2010-06-20 06:37:51 | Weblog
巨大な銀杏の木が並ぶ間を、北へ北へと、歩いていく。
歩けど歩けど、銀杏並木は、尽きない。
よく、こんな、広大な、庭園を、都心に作れたな、と感心してしまうが。
もっとも、作っていた頃は、都心ではなかったんだろうけど。
神宮外苑が、できる前は、青山練兵場、というのが、あったらしい。
さらに、その前は、何があったのだろうか。
試みに、明治時代の初め頃の、地図を、見てみると、果たして、何もない。
畑地と、青山通り沿いに、農村があるばかり。
むろん、江戸時代も、同じ。農村地帯だ。
江戸時代や、江戸時代の、残滓が色濃い、明治時代は、都心、といえば、むしろ、東側。江戸城に近くとも、西側は、かくのごとく、それほど、開けていない。
こんな、長閑な、田園地帯が、ある時期、閑寂な、庭園に、なったところで、あまり、変化は、ないと思うんだけど。
さらに、銀杏並木を、北へと、進んで行くと、突き当たりには、広々とした、グラウンド。外苑総合グラウンドが、広がっている。
西側には、ちょっと、離れるが、神宮球場もある。
神宮外苑は、庭園、という側面以外に、スポーツの施設、という、側面もあるようだ。
最近の、公園では、当たり前のような気もするけど。
とすると、神宮外苑は、庭園ではなく、むしろ、公園の部類なのかもしれない。
庭園と公園が、スポーツ施設の、有無によって、分類されるものかどうか、わからないが。
でも、それはそれとして、スポーツ、といえば、市民の憩い。
神宮外苑の完成が、昭和になるか、ならないかの時代。
そろそろ、市民のベッドタウン、郊外が、誕生してくる時期だが、そのことと、無関係ではないような気もする。
(2009年10月記)

銀座線外苑前駅(神宮外苑 銀杏並木)

2010-06-19 03:59:58 | Weblog
東西に伸びる、交通量の多い、大通り、青山通りを、西へ。
北側には、広大な、赤坂御用地が広がっている。
森のような赤坂後用地に沿うようにして、しばらく歩いていくと、南北に伸びる、外苑東通りとの交差点。
青山一丁目交差点だ。
ここからが、青山という感じの街並み。
賑やかだが、洗練されていて、おしゃれな雰囲気がする。
西側に、渋谷、南は、麻布。東は、赤坂。
おしゃれで、賑やかなわけだ。
そして、北側には、一転して、閑寂な、神宮外苑が、広がっている。
神宮外苑は、赤坂御用地の西側に当たっているので、そうなるわけかな。
なんとなく、青山の街の格を上げているのは、この、神宮外苑なのかもしれないな、と思ってしまう。
もっとも、街の格が、上だろうと、下だろうと、自分には、どうでもいいことだけど。
ところで、青山通りの南側、青山の地名なのだが、広大な、青山氏下屋敷があったかららしい。
なぜ、あまり、よく知られていない、青山氏が、そのような、広い土地を、得たのか、というと、徳川家康が、江戸に入ったとき、側近、青山忠成に下賜した、ということからだ。
内藤新宿の、内藤氏中屋敷の話と、ほとんど同じ気がする。内藤氏の場合は、徳川家康の側近、内藤清成が、屋敷地を賜っている。
徳川家康としては、どちらも、幹線道路の要を占める場所で、信用できる者に、任せたかったのだろう。
だが、内藤氏中屋敷跡の方は、地名が、内藤にならずに、新宿になってしまう。
歴史とは、妙なものだ。
そんな青山から離れ、青山通りから、北へ。神宮外苑に入ってみる。
入口には、長大な、銀杏並木。
あと、一ヶ月もすれば、並木の葉も色付き、一面、黄金を敷き詰めたかのごとく、というようになるのだろう。
といっても、あまり、興味はないので、かくのごとく、そうなる、一ヶ月前に、来たわけだが。
(2009年10月記)

銀座線赤坂見附駅(パークコート赤坂ザタワー)

2010-06-18 06:08:22 | Weblog
青山通りを、西へ。
赤坂見附交差点を谷の底にして、今度は、上り坂になる。
しばらく、歩くと、通りの北側に、豊川稲荷。
大岡越前が、愛知県豊川から連れてきたのだが。
ただ、その時は、赤坂見附交差点近くの、上屋敷内にあった。
明治時代になり、現在の場所に、移転させられている。
さらに、境内は、青山通りの、拡幅で、かなり、削られてしまった。
時代が変わり、豊川稲荷には、逆風が吹いた、ということか。
さらに、西へと、歩いていく。
しばらくすると、南へと、伸びる、通り。
こちらは、急な下り坂になっている。薬研坂だ。
その、薬研坂を下っていくと、道路の、東側に、巨大な高層住宅、パークコート赤坂ザタワー。(工事中はこちら
最近、竣工している。
この高層ビルが建つ前は、たしか、レコード会社のコロムビアが、あったな。
高度成長期までは、演歌、歌謡曲で、隆盛を、誇っていたのだが、その後は、低迷していたらしい。
そういうわけで、いつしか、赤坂の地を離れ、今は、その場所には、高層住宅が、建っている。
豊川稲荷と同じく、時代の流れが、逆風になった、というわけか。
時代の流れによる、栄枯盛衰とは、気紛れなものらしい。
でも、豊川稲荷は、現在も、参詣が、絶えず、コロムビアも、別の場所で、やはり、音楽に携わっている。
時代の流れなど、所詮、どうでもいいのかもしれないし、そもそも、どうにか、なるものではない。
北へ、急な薬研坂を上り、青山通りに戻る。
(2009年10月記)

銀座線赤坂見附駅(赤坂 豊川稲荷)

2010-06-17 05:02:45 | Weblog
青山通りを、西へと、歩く。
その先にある、赤坂見附交差点が、谷地になっているので、下り坂だ。
ところで、なんで、この谷地にある交差点が、赤坂見附交差点という名前なんだろう。
赤坂見附から、見下ろせる場所に、あるからだろうか。
よくわからないが。
その赤坂見附交差点の、ちょっと西に離れるが、南西側には、かつて、赤坂小学校があり、それ以前、江戸時代には、有名な、大岡越前のいた、大名上屋敷が、あったらしい。
有名といっても、大岡政談をもとにした、テレビの時代劇しか、知らないけど。
高度成長期の終わり頃から、安定期、バブル期、その後も、しばらくは、放映されていたな。
番組を、見入っていたわけではないので、内容は、覚えていない。寓話的な落ちのある、筋立てだったように思うぐらいだ。
ただ、印象に強く残っているのは、全編に流れている、穏やかな、空気。
不安なことが、一切、ない。
当時の、社会の、安定感を、如実に、物語ってるように思える。
そんなことを思い出していたら、あの頃が、とても、懐かしくなってしまった。
やはり、何を置いても、社会が、安定している、ということはいいことなのだ。
高度成長期は、豊かになることこそが、社会の安定を、もたらすと、信じられていたのだろう。
現に、そうなったし。
でも、今は、社会の安定を、犠牲にしてでも、豊かさを、追求しているようだ。
時代の流れなので、残念だが、仕方がない。
ということで、自分としては、赤坂見附とは、関係のない、赤坂見附交差点、名前を変えるとしたら、大岡越前交差点でもいいかな、と思ってしまう。
無理だろうけど。
そういえば、大岡越前のいた、大名上屋敷には、豊川稲荷が、あったのだ。
こちらも、有名だが、今は、もっと、西側、道路の北にある。
大岡越前交差点は、ますます、無理だな。
(2009年10月記)

南北線永田町駅(永田町から赤坂見附交差点を望む)

2010-06-16 04:26:19 | Weblog
高田馬場駅から東西線。
飯田橋駅で、南北線に乗り換える。
永田町駅で下車。
飯田橋駅から永田町駅までなら、有楽町線でも、行けるのだが。
ただ、どちらが、早くて、どちらが、便利か、などと、比べるほどの、距離ではないので、どうでもいいんだけど。
敢えて言えば、飯田橋駅では、南北線の方が、入った改札に、近く、永田町駅では、やはり、南北線の方が、赤坂に、近い。
そういうわけで、何の気なしに、南北線に乗ったのかな。
ちなみに、四ッ谷駅までなら、JR総武線が、同じ路線。
市ヶ谷駅までなら、南北線、有楽町線、JR総武線が、同じ区間を、走っている。
都心ならではの、稠密ぶりだ。
もっとも、飯田橋駅、市ヶ谷駅間に、路線が、重複しているというのは、いろいろな偶然もあると思う。
改札を抜け、上へ上へと、登り、赤坂見附跡のある、高台に出る。
見附は、見張台のことなので、高台にあるのは、当然なのだが、地下を走っている、地下鉄の駅から、地上に出ると、いきなり、高台、というのも、妙なものだ。
たぶん、すでに、半蔵門線、有楽町線のホームができていたので、構造上、変な場所に、入口が設置されたのかもしれない。
たしか、南北線ができる前は、この、入口は、なかったように、記憶している。
すぐ南側には、東西に伸びる、青山通り。
歩道橋に上がって、赤坂見附交差点の方を、見てみる。
青山通り、そして、立体交差のための高架橋、さらに、首都高の高架も加わり、気圧されそうな感じだ。
地下深くも、稠密なら、地上も、その上空も、密集している。
この密集ぶり、偶然ではなく、永田町が近いからかな。
たぶん、そうだろう。
(2009年10月記)

総武線船橋駅(船橋駅南口の裏町)

2010-06-15 02:05:41 | Weblog
北へ歩いていくと、だんだん、街並みが賑やかに、なってくる。
途中、西へ曲がり、そのまま、西へ。
海老川を渡り、さらに、西へと、歩いていく。
ひょっとしたら、今、歩いている、この、細い通りは、御殿通り、というのかな。
船橋に住んでいるわけではないので、わからないが。
なんとなく、歴史を感じさせる雰囲気がするのは、この南側の、本町通り沿いに、かつての、船橋宿があったからだろう。
また、江戸時代、船橋宿が、設置されるずっと前から、一帯は、賑わっていたようだ。
とすると、大昔、このあたりに、船橋の由来となった、橋があった、ということになるかもしれない。
その頃は、たぶん、海老川ではなく、夏見入江が、広がっていたわけで、架橋するには、水域が、広すぎ、船を並べて浮かべ、浮き船橋を設置していたのかな。
そこから、船橋、という地名が生まれたのかも。
もっとも、他にも、そういう場所は、あったのだろうけど、なんで、ここだけ、船橋になったのか、よくわからない。
さらに、西へ歩いていくと、駅前特有の、繁華な感じがしてくる。
船橋の街は、駅南東側が、旧市街、駅南西側が、新市街、あるいは、下町になっているようだ。
ただ、昨今は、下町の方が、きれいに整備され、どこかの郊外にあるような、駅前になりつつある。
そんな中、JR、京成電鉄の高架近くは、まだ、わずかに、下町が残っている。
だが、かつて、訪れたときの、船橋の面影は、ほとんど、ないようだ。
時代の流れなので、仕方がない。
さて、もう、JR船橋駅から、帰るとしよう。
今後、高層ビルの建設予定は、ないようなので、この街を、訪れるのは、最後かもしれない。
思い出に残る、街並みも、なくなってしまったので、ちょうどいいかも。
(2009年9月記)

総武線船橋駅(船橋 意富比神社)

2010-06-14 04:40:46 | Weblog
大神宮下駅から、北に歩いていくと、意富比神社。
別名は、船橋大神宮。
以前、訪れたときは、たしか、大きな神社の近く、という、賑やかさがあったけど、今は、ひっそりとしている。
今回は、時間がなくて、中には、入らなかったけど、この前、入ったときは、大きくて、歴史のありそうな神社だな、と感じたが。
実際、延喜式にも、載っている、正真正銘の、古社だ。
おそらく、太古の昔から、神社の周りには、暮らしがあったに、違いない。
どうして、船橋に、大昔から、暮らしがあり、神社があるのかというと、おそらく、以下のような、ことだろうと思う。
すなわち、鎌倉時代より、前は、関東平野は、広く、湿地帯が、広がっていて、内陸よりも、海岸の方が、栄えていたのだ。
湿地帯よりも、海上の方が、はるかに、移動しやすかったからだろう。
だから、船橋のような場所に、大きな集落があり、そして、神社も、創建されたりしたのだ。
ところで、意富比神社の西側には、海老川が、南へと、流れているが、少なくとも、鎌倉時代は、川ではなくて、大きな、入江だったらしい。
夏見入江という名前なのだが、その名前は、船橋駅の、ずっと、北側、夏見台地に、残っている。たぶん、そこまで、入江は、広がっていたのだ。
この、大きな、入江の、入口近くに、意富比神社が、あったわけで、ひょっとしたら、何か、関係があったのかもしれない。
どういう関係か、わからないけど。
時間があれば、今度、ゆっくり、訪れたいものだ。
西に向かい、京成電鉄の高架下を、北へ。
船橋駅を目指す。
(2009年9月記)

総武線船橋駅(京成電鉄大神宮下駅付近の高架)

2010-06-13 07:23:49 | Weblog
海老川を渡り、さらに東へ。
途中、北に伸びる、通りがあるので、その通りに入り、北へ向かう。
すぐに、京成電鉄大神宮下駅。
以前、近くの、意富比神社(船橋大神宮)を、訪れたとき、この駅で降りたのだが、地平の駅舎だったな。
いつの間にか、高架上になっている。
最近になって、船橋を中心に、京成電鉄は、順次、高架になっているようだが、その、一環なのだろう。
たぶん、京成船橋駅は、船橋の中心部なので、工事の進捗は難しく、後回しになったように思える。
大神宮下駅の方が、先に、高架になったはずだ。
ところで、こうして見ると、高架になって、周辺は、ずいぶん、きれいになったな。
地平の駅だった頃は、京成船橋駅もそうだったのだが、大神宮下駅の周りなんて、とても、ローカルな感じだったのに。
今は、何か、どこにでもあるような、郊外の、雰囲気だ。
船橋を感じさせるものがなくなっている。
実際、都心部の、郊外なのだから、仕方がないのだけど。
特に、駅近くは、都心と直結しているので、都心の、延長みたいなもの。
その代わりに、その辺縁が、残っていれば、それなりに、地方色が、保たれるのだが、中心部に、エネルギーを、吸収されて、衰退していくばかり。
昔のように、豊かではないで、どうしても、そうなってしまうのだろう。
つまり、豊かさが、失われた中で、経済成長だけを、持続させるとなれば、栄える中心と、衰退する辺縁が、どうしても、できてしまうのだ。
バブル期以前のように、全体が、発展するなんて、もう、あり得ない。
そういうわけで、仕方がないけど、高架になって、大神宮下駅の周囲には、何もなくなってしまった。
ちょっと、寂しくなるな。
(2009年9月記)

総武線船橋駅(船橋本町 海老川)

2010-06-12 07:33:08 | Weblog
さらに、北へ北へと、歩いていくと、唐突に、湿地帯の外へ、出てしまう。
出たところは、普通の道路。
さっきまで、いた場所だ。
何か、大昔から、現代へ、タイムワープしたみたい。
ところで、この湿地帯についてなのだが、以下のようなことではないかと思う。
湿地帯の東側は、パークハウス プレシアタワーなのだが、その前は、三田浜楽園、という、娯楽施設があったらしい。
昭和の初め頃に、オープンしたのだが、さらに、その前は、三田浜塩田。こちらは、明治の初め頃に、できている。
それ以前、江戸時代は、むろん、一面、湿地帯だったのだろう。
ということで、塩田があったり、娯楽施設が、あったりして、その境界線の部分が、埋め立てられずに、手付かず、昔のまま、残ったに違いない。
そして、結局、残った、湿地帯は、今更、埋め立てても、用途もないし、採算もとれないので、そのまま、放置されているのだ。
今後は、昔の船橋の風景、というような、歴史的テーマパークにでも、するしかないだろうけど。どうなんだろうか。
千葉街道に、戻り、東へと向かう。
街並みは、だんだん、海を、感じさせるような雰囲気。
しばらくすると、海老川に架かる橋に着く。
橋上から、ゆったりと流れる、川面を、眺めていると、本当に、海の近いことを、感じさせるな。
昔は、太白川、といったらしい。だが、今の、海老川も、昔の、太白川も、その名称の、謂れは、よくわからない。
しかも、太白川、太白を「おおい」と読むらしい。
ひょっとしたら、近くの、古社、意富比(おおい)神社から、「おおい」川、となったのかな。
意富比(おおい)神社も、もとは、大日(おおい)神社だったのかも。
大日(おおい)川だったら、ちょっとは、意味が、通じてくる。
(2009年9月記)

総武線船橋駅(高層住宅西側の湿地帯)

2010-06-11 03:40:53 | Weblog
パークハウス プレシアタワーの西側に、忘れ去られたような一帯が広がっている。
古ぼけた、家並み、荒れ果てた疎林。
何だろうかと、興味を惹かれ、行ってみた。
湿地帯のようになっているのは、わかったのだが、それ以上は、わからない。
そのまま、南へ南へと、歩いていく。
しばらくすると、東西に伸びる、京葉道路の高架。
高架下には、水面が、南に、まっすぐ、伸びていて、その先は、海だ。
とすると、湿地帯は、川なのだろう。
ただ、このあたりからは、両岸に、埋立地が、広がっているので、地形的には、あたかも、河川に見えるけど、でも、周囲の、雰囲気は、もう、海、という感じがする。
おそらく、以前は、この場所が、すぐ、海岸だったに違いない。
ふと見ると、その川に、橋が架かっていた。
橋を渡り、川の、東岸へ。
今度は、北へ、歩いてみる。
すると、湿地帯の東側。林の中、歩道が、伸びていた。さっそく、湿地帯に、入ってみる。
こんな場所が、あったのだ。
ひょっとしたら、自然公園にするために、放置されているのかもしれない。それで、忘れ去られたような場所なのかな。
歩道を歩いていると、湿地帯の淀んだ水辺には、大きな白鷺が、いたりする。
カメラを向けたら、しばらく、じっとしていたのだが、シャッターを押す間際に、飛び去ってしまった。
こんな風に、湿地帯の中にいると、船橋、ということを、忘れてしまいそうだ。
だが、実は、この風景が、船橋の、元の姿だったのかもしれない。
つまり、大昔は、船橋中が、このような湿地帯だったのだろう。
完成したばかりの、巨大な、高層住宅を訪れたら、期せずして、船橋の原初の、湿地帯を見ることができたわけか。
妙な巡り合わせなのか、必然的なのか、わからないが。
(2009年9月記)