retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

総武線船橋駅(パークハウス プレシアタワー)

2010-06-10 04:57:45 | Weblog
船橋駅構内を抜け、駅南口へ。
バブルの頃、千葉県に、何度か、行ったことは、書いたのだが、その時、船橋駅にも、寄っている。
当時は、たしか、JR船橋駅と、京成電鉄の駅に挟まれた、この場所には、ロータリーしかなかったように思うのだが。
今は、整備されて、ずいぶんと、きれいになったな。
そんな駅前から、南へ伸びるメインストリートへ。そのまま、南へと、歩く。
昔は、京成電鉄は、地上を走っていて、踏切があったっけ。
それに、なにより、あたりは、下町だった。
入り組んだ、迷路のような路地。密集した、多くの小さな商店。
その下町も、ついでに、きれいになってしまったようだ。
特に、メインストリートの周囲は、どこぞの、おしゃれな、郊外の街そのもの。
ケーキ屋だのが、似合いそうな感じ。昔が、もう、思い出せない。
延々と歩いていくと、東西に伸びる、千葉街道との交差点。
今度は、千葉街道を西へ。
しばらくして、南へ。
やっと、パークハウス プレシアタワーに辿り着く。(工事中はこちら
最近、竣工した、高層住宅。いちおう、駅近く、なんだろうけど、それにしては、かなり、遠い。
もっとも、さっきの、駅前から伸びる、きれいな、大通りを、歩いていけば、船橋駅なわけで、そういった意味では、駅近く、なのかな。
そして、この、高層住宅をもって、船橋駅近くの、高層ビル建設も、一区切りなのかもしれない。
そういう予定もないし。
静かな、郊外の駅前になるのかな。
(2009年9月記)

総武線船橋駅(船橋駅北口のペデストリアンデッキ)

2010-06-09 05:03:23 | Weblog
東へ歩き、八千代緑が丘駅へ戻る。
再び、東葉高速鉄道へ。
ホームに立つと、南側には、巨大なショッピングセンター。
ジャスコなのだが、ジャスコ、というと、映画の「下妻物語」を思い出してしまう。
それはそれとして、こうして見ると、たぶん、駐車場も、巨大なのだろうな。
これでは、駅近く、という意味は、あまりないのかもしれない。
クルマで、やって来るなら、電車には、乗らないわけで、ジャスコが、駅の近くでなくても、いいからだ。
もし、それでも、駅近く、という利便性を求めるなら、駐車場の一部に、パークライドや、カーシェアリングの、設備があれば、いいかも。
そんなことを考えているうちに、東葉高速鉄道の列車が、ホームに、滑り込んでくる。
車両に乗り込み、西船橋方面へ。東海神駅で下車。
地上に出てみると、相変わらず、何もない。駅前という感じが、まったくしない。
東葉高速鉄道が開業した時、この駅が、ちょっと離れているものの、船橋駅との、連絡駅だったはずだ。
そういうわけで、自分は、いつも、東葉高速鉄道から、船橋駅に行くときは、こうして、東海神駅で降りているのだけど。
当初は、それなりに、他にも、乗り換え客が、いたものだが、今は、自分以外、誰もいなくなってしまったな。
やっぱり、ちょっと、船橋駅は、遠いし、まわりは、普通の住宅宅だし。仕方がないだろう。
南側に歩いていくと、やがて、急に、整備された、賑やかな、街並み。船橋駅北口だ。
そして、ここにも、ペデストリアンデッキ。バブルの終わり頃に完成している。
ペデストリアンデッキの上、この狭い空間だけが、バブルの頃の雰囲気なのかな。
(2009年9月記)

東葉高速鉄道八千代緑が丘駅(パークタワー八千代緑が丘工事現場)

2010-06-08 04:31:27 | Weblog
駅周辺は、典型的な、最近よくある、郊外の駅前、という感じ。
駅近くには、集合住宅。大規模な、ショッピングセンターも、付設されている。
すべてが、駅に、集中しているようだ。
高度成長期のように、周囲に、どんどん、宅地や街が、広がるわけではない。
今は、コンパクトシティ、というわけか。
自然環境には、よさそうだな。
でも、それが、計画的だったら、いいんだけど。
単純に、利便性を、追求するあまり、駅前に、いろいろなものが、集まってきただけ、という気がする。
つまり、結果的に、そうなっているに、すぎないのだ。
橋上駅舎を出ると、ペデストリアンデッキが広がる。ペデストリアンデッキ、というのも、最近の駅前の、典型的な設備。
そのペデストリアンデッキを歩いていくと、商業施設に、直接、入れるようになっている。
どこも、同じだな。
地上に降り立ち、駅前広場の北側へ。
一帯が、パークタワー八千代緑が丘の工事現場になっている。
まわりには、すでに、集合住宅が、できているのだが、間近に、こうした、高層住宅が、できると、眺望が、なくなるような気がするが。
便利な駅近く、ということで、あまり、気にならないのだろう。
工事現場の、南側を、西に進むと、南北に伸びる、道路。
ここまでが、八千代緑が丘駅周辺の街の、辺縁かもしれない。
それにしても、この、なんでもない通り。やたらと、クルマが往来する。
渡れしない。
やはり、昔も今も、千葉県は、クルマ社会なのだな。
(2009年9月記)

東葉高速鉄道八千代緑が丘駅(八千代緑が丘駅前北口)

2010-06-07 05:03:43 | Weblog
高田馬場駅から東西線。
東西線は、東葉高速鉄道に乗り入れているので、乗り換えなくても、そのまま、乗っていれば、東葉高速鉄道に入れる。
西船橋駅を過ぎると、東葉高速鉄道だ。
たしか、バブルの頃、盛んに工事をやっていたな。
当時、開通すれば、その利便性は、計り知れない、という、夢の路線。
この沿線に、その頃、知り合いが住んでいて、よく、クルマで訪れていたものだ。
もっとも、昔も、たぶん、今も、千葉県は、クルマ社会。あまり、東葉高速鉄道建設の熱気は、感じられなかったけど。
京成電鉄もあるし。
昔の思い出に浸っていると、いったん、地下に潜っていた、東葉高速鉄道は、再び、地上へ。
豊かな緑と、丘陵地。そして、荒々しく削られた、宅地の造成地が目の前に広がる。
たぶん、東葉高速鉄道が、開通しなければ、手付かずの、自然が、残っていたかもしれない。
だが、開通したからといって、ニュータウンみたいに、新しい街が出現する、ということにはならず、いかにも、中途半端だ。
東葉高速鉄道の運賃が、高いので、あまり、沿線の開発が、進まないのかな。
列車は、高架の上を、疾走していく。
この先に、たしか、バラ園、というのが、あったっけ。
園芸に興味はないけど、他に、何もないので、一度、知り合いに、連れて行かれた。
他にあるものといったら、その頃、あちこちにできていた、郊外型のレンタル屋。郊外型のレストラン。それに、弁当屋。ゲームセンター。
当て所もなく、その間を、クルマで、巡回して、一日が過ぎた。
さすがに、いかなかったけど、夜は、フィリピンパブ、というのもあったな。
東葉高速鉄道は、といえば、まだ、高架の橋脚が、ぽつぽつと、並び始めたぐらい。
開通したら、ここに来るのに、便利になるなあ、なんて、思いつかなかったけど。
そして、東葉高速鉄道が、いよいよ、開通するのだが、その頃には、バブルは崩壊。
バブルが崩壊したから、というわけでもないけど、いつしか、知り合いとも、疎遠になって、この沿線に来ることは、まったく、なくなってしまった。
そんなことを思い出していると、列車は、八千代緑が丘駅へ滑り込む。
八千代緑が丘駅で下車。北口に出る。
(2009年9月記)

京浜急行六郷土手駅(大田区 多摩川の河原)

2010-06-06 07:17:57 | Weblog
北野天神の南側、坂を上って、土手の上に出る。その先には、多摩川の河川敷。
この河川敷のどこに、江戸時代の渡船場が、あったのか、ちょっとわからない。
ひょっとしたら、今、立っている位置から、もう少し、東寄りかも。
ここから、やや東側へ、ちょっと、離れたところに、六郷神社があり、東海道は、そのすぐ、西側を、南北に伸びていたからだ。
そういえば、六郷神社の近くには、八幡塚、という、小山があったらしい。
今は、もう、なくなってしまって、古墳の跡かどうか、わからないけど。
その、八幡塚に因んで、あたりは、八幡塚村。
たしか、今回、訪れた、川崎の女体神社のあるあたりは、八幡塚村の住民が、移ってきたんだっけ。
たいした距離ではないので、移住、というと大袈裟かも。
それに、江戸名所図会によると、六郷神社の、神輿は、多摩川を越え、南岸にも渡ったという。
とすると、このあたりでは、本来、多摩川の両岸は、一体だったのかもしれない。
往来は、頻繁に行われていたのかな。
もっとも、田畑が、広がっていた、というわけではないので、南岸に、移り住むとしたら、その意味は、あまり、なかっただろうけど。
だから、江戸時代に入って、流域が、大規模に開拓された、というのは、画期的なことだったのだ。
当時も、こんな風に、土手の上に立って、新天地に思いを馳せながら、多摩川を、眺めたのだろうな。
そして、その先には、将来に対する、大きな、夢と希望があったのだ。
決して、「行き止まり」、ではなかったに違いない。
きっと、そうなんだろう。
今の時代、自分には、その、夢と希望は、もはや、見えないのだけど。
(2009年9月記)

京浜急行六郷土手駅(北野神社 止め天神)

2010-06-05 07:13:11 | Weblog
宮本台緑地から、南へ。
すぐに、北野神社がある。
別名、止め天神。
ネーミングが、とても、興味深いのだが。
謂れについては、江戸時代、将軍が乗った馬が、暴走し、この神社に祈念したところ、将軍が助かった、ということによるらしい。
史実かどうかは、わからないが。
とにかく、何かを、「止める」ことに、御利益があるのだろう。
ただ、今、見ると、多摩川の土手の下にあり、場末のように、思える。
このあたり、京浜急行の東側、海岸に至るまでは、昭和の取り残された街並みが広がり、なおさら、そう感じてしまうのだ。
かつて、一度、そんな場所、羽田の方まで、行ってみたことがある。
まるで、つげ義春の作品に出てきそうな、風景だな、なんて思ったな。
古びた家並み、懐かしい商店街、時間の止まったような光景。
時代に取り残された、街を、彷徨い歩き、さて、帰ろうかと、京浜急行の駅に向かったのだ。
その時、ふと、多摩川の土手下に、目立たない、控え目な神社が、目に留まる。
それが、今、目の前の北野神社。
別名は、止め天神。
場末の行き止まり、なのかな、なんて、ぎくり、としたものだ。
橋がなければ、ここまで来て、渡船を利用できないとしたら、たしかに、この場所、行き止まり、ではある。
それ以上に、彷徨い歩いてきた、時代に取り残された街は、行き止まり、なのかもしれない。
なぜなら、橋がなくて、行き止まりなら、橋を架ければ、いいわけだし。
そうでなければ、行き止まり、のまま。あとは、消えるかどうか、というだけ。
あたりの、レトロな街が、とても、儚いものに思えてしまった。
(2009年9月記)

京浜急行六郷土手駅(旧六郷橋の遺構)

2010-06-04 06:07:39 | Weblog
通りを、東へ。六郷土手駅に戻るのだが、もう少し、他に、寄ってみることにする。
ということで、駅を通り過ぎ、南へ。路地のような小道に入っていく。
すぐに、目の前には、第一京浜の、小規模なインターチェンジ。
道路が、弧を描き、円になっているのだが、その真ん中が、緑地になっている。
ちょっと、不思議な空間だが、宮本台緑地という公園だ。
その緑地には、オブジェのような、旧六郷橋の遺構の一部。
昔は、この場所から、橋が伸びていた、というわけではなく、移設されたようだ。
ただ、この橋の遺構のおかげで、風景の不思議さは、なお、一層、増しているように見えるけど。
ちなみに、旧六郷橋は、大正時代に、完成し、バブル期の直前ぐらいまで、使われていたのだ。
それ以前は、どうしていたのかというと、明治時代になり、いちおう、橋は、架かったものの、洪水のたびに、幾度も、流失していたらしい。
京浜急行、東海道線などの、鉄道橋も、流失こそ、免れているが、何度か、架け替えられていて、多摩川の、洪水には、手を焼いていたようだ。
では、江戸時代は、どうだったのだろう。
もっぱら、六郷の渡し、渡船を利用していた。
それでも、江戸時代の初めには、橋が架かったのだ。
明治時代もそうだったが、時代の変わり目には、橋が、架かるものなのかな。
でも、何度も、洪水で、流失し、結局、架橋は、断念。渡船、ということになった。
さらに、それ以前は、どうなのだろう。
街道は、もっと、上流、矢口渡し、あるいは、今の武蔵小杉、丸子渡し、となる。
ただ、多摩川の北岸には、すでに、六郷神社、南岸には、川崎大師があり、街道はなくとも、往来は、あったのだろう。
こうして見ると、この、オブジェのような、旧六郷橋の遺構、長い歴史の物語の、一部分でもあるな、と思えてしまう。
つまり、旧六郷橋は、多摩川の両岸を繋いでいたわけだが、今は、オブジェとなり、過去と、現在を、繋いでいるような気がするのだ。
(2009年9月記)

京浜急行六郷土手駅(大田区 六郷温泉)

2010-06-03 05:18:28 | Weblog
京急川崎駅で、京浜急行に乗り込む。
多摩川を渡ると、すぐに、六郷土手駅。
改札を抜け、駅前へ降り立つ。
目の前には、懐かしい、鄙びた街並み。
まるで、かつての、川崎駅前のようだ。ちょっと、大袈裟だけど。
京浜急行の路線には、こういう、風景が、今も、残っているようだ。
駅北側の、東西に伸びる、細い通りを、西へ歩く。
高架を潜り、少し、進むと、通りの北側には、六郷温泉。
温泉とあるので、もちろん、銭湯ではなく、温泉なのだが。
お湯は、黒湯。沃度の濃い、東京湾周辺の典型的な、湯質。
といっても、こういうところで、ゆっくりと寛ぐ、習慣がないので、立ち寄ることは、なかったけど。
ところで、なんで、こんな場所に、温泉があるのだろうか。
おそらく、かなり昔、戦前の頃、京浜急行、大森、蒲田の東側、海岸近くは、都心近場の観光地だったからではないかと思う。
六郷温泉が、開業したのは、戦後のことだが、かつての観光地の流れを、引き継いでいるに違いない。
たとえば、今はもうなくなってしまったが、新宿十二社天然温泉も、そういった、温泉だったろう。
新宿の西側、角筈は、江戸時代の行楽地。江戸時代が、終わっても、しばらくは、都心近場の観光地だった。
観光地としての、役割が、終わったしても、取り残された場所として、ひっそりと、存続。
それが、昨今の、地心回帰、都心集中化により、都市の波に呑み込まれ、消滅してしまったのだ。
六郷温泉のある一帯が、そうなるとは思えないけど。
ただ、先のことはわからない。
いつまでも、残っていて欲しいものだな。
(2009年9月記)

京浜急行京急川崎駅(京急川崎駅駅舎)

2010-06-02 04:56:38 | Weblog
多摩川沿いの女体神社がある地域に、用水を引き、開拓を指揮したのは、小泉次大夫だったわけだが、故地は、今の富士宮市。
そこには、有名な、富士山を御神体とする、浅間大社がある。
祭神は、女神、ということだ。富士山に限らず、山は、たいてい、女神なのだが。
そういうことが、関係するのか、用水の一部が、女堀と、呼ばれていたり、工事をするときは、作業チームに、必ず、女性を、参加させていたらしい。
女性を参加させるというのは、作業者を鼓舞させる面もあるが、なにか、儀式めいた感じを受ける。
つまり、この、用水路の工事に関しては、女性を、特別視、あるいは、神聖視する、なにかがあったように思うのだ。
といっても、それなら、浅間神社でもよかったはず。なぜ、女体神社か、結局、わからないけど。
やはり、埼玉県の女体神社と、関係があるのかな。
例えば、以下のように考えられないだろうか。
関東平野の開拓は、北側から、鎌倉時代に、徐々に、進められていたとすれば、埼玉県の方が、早かったわけだ。
だから、関東平野の開拓事業に関して、新しい技術という点では、見劣りするかもしれないが、経験値は、高かったに違いない。
ということは、多摩川流域の、開拓にも、加わってのかもしれない。
そして、彼らが、女体神社を、連れてきたのかも。
もっとも、開拓事業において、女性を、神聖視する、という風習は、静岡県なのか、埼玉県なのか、あるいは、一般的なのか、よくわからないが。
ただ、このように、何もないところに、生活の基盤をつくり、以降、暮らしを、永続させる、ということは、単に、技術的なことだけではなく、文化的、精神的なことも、必要なのだろう。
そのことを、目の前の、女体神社は、思い起こさせてくれる。
などと、考えていると、若夫婦が、何組か、お参りに来ていたりする。子宝、あるいは、安産の、効能でもあるのかな。邪魔にならないように、早々に、引き上げた方が、よさそうだ。
そういえば、新しく生まれ変わった、川崎駅周辺、開拓地と同じように、これから、暮らしが、ずっと、続いていくんだろうなあ。何十年も経ったら、どうなっているんだろうか。
通りを、東に歩き、突き当たったところで、南東へ曲がり、そのまま、南東へと進む。
JRの線路を潜ると、その先には、京浜急行の高架。
京急川崎駅がある。
JRの川崎駅は、すっかり、変わってしまったが、こちらは、まだ、昔の往時を、忍ばせている。
(2009年9月記)

京浜東北線川崎駅(川崎 女体神社)

2010-06-01 06:09:54 | Weblog
東西に伸びる通りを、東へ東へと、進んでいく。
しばらく歩いていくと、通りの北側に、女体神社。
なにか、御神体が、そういうものかと思ってしまうが、たぶん、普通の神社だ。
この、珍しい名前の神社、女体神社は、もう一つ、北の方、府中街道と、第二京浜の交差点近くにもある。
さらに、もっと北側、宮前区にも、馬絹神社、というのがあるが、元は、女体神社だったようだ。
名前が名前なので、改名したのだろうか。
実は、同じく、改名したらしい、元女体神社は、鹿島田駅の東側、多摩川沿いにも、いくつかある。
ただ、これらの、女体神社の由緒については、よくわからない。
推測していくしかないようだ。
多摩川沿い以外だと、他には、埼玉県に分布している。荒川、中川沿いに多いみたい。
もっとも、埼玉県の女体神社と、多摩川沿いの女体神社が、同じなのかどうか、やはり、よくわからない。
次の手掛かりとして、多摩川沿い、女体神社がある地域の歴史を見てみる。
一帯が、拓けたのは、意外と、新しく、江戸時代の初め頃のことだ。
小泉次太夫なる者が、徳川家康の命を受け、今の、静岡県富士宮市から、開拓の経験がある技術者を伴って、やってくる。
まず、多摩川の南側に二ヶ領用水、北側に六郷用水を、開削し、そして、一帯を、田畑へと、変えていった。
たぶん、その時に、女体神社も、創建されたのだろうと思う。
でも、結局、なんで、名前が、女体神社なのだろうか。
(2009年9月記)