retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

山手線新大久保駅(高田馬場に至る山手線側道)

2010-03-21 07:18:45 | Weblog
山手線の東側に沿う道路を、北へと、歩いていく。
通りは、広々としていて、緑の並木が美しい。
とても、大久保とは、思えない光景だな。
まるで、どこか、郊外の、ニュータウン。そんな感じがする。
ちなみに、さっきの陸橋は、そよかぜ橋、という、名前なのだが。
なんで、大久保で、そんな、爽やかな名前なんだろうかと、もし、疑問に思ったら、この通りに来ればいい。その名前に納得することだろう。
ところで、通りが開通したのは、けっこう、最近のことなんだけど、いったい、いつだったか、もう、忘れてしまったな。
たしか、高田馬場の南側を、東西に伸びる大通りから、延伸し始めたのだが、二段階に分けて、伸びたような気がする。
どうだったか、はっきりとは、覚えていない。
最近といっても、二、三年前、というわけではないから、仕方がないかな。
ということで、徐々に、高田馬場から、きれいに整備された、大通りが、伸びてきているわけだ。
いずれ、さらに、延伸して、大久保を縦断し、歌舞伎町に達することだろう。
とすると、この、ニュータウンのような、雰囲気も、大久保に流れ込んでいくんだろうか。
たぶん、そうなるに違いない。
現在のような、混沌に育まれた、多国籍タウンも、その雰囲気に飲み込まれるのかな。
ひょっとしたら、そういうことが、折り込み済みだから、コリアタウン、多国籍タウン、という風に、テーマパーク化しているのかも。
本当にそうなら、いいんだけど。
(2009年8月記)

山手線新大久保駅(大久保付近山手線側道の予定地)

2010-03-20 07:32:38 | Weblog
大久保通りから、北へ。路地に入る。
歌舞伎町から、職安通りを経て、大久保通りへと続く、歓楽街、繁華街、飲食店街の雰囲気は、ここまで。
大久保通りから先は、普通の、都心にあるような、住宅街が広がる。
まわりの繁華な雰囲気に絆されて、気分が高揚したまま、この一帯に、入ると、一気に、興奮は醒め、自分を取り戻したものだ。
静かな住宅街を、北へ北へと、歩き、途中、西へと、曲がる。
西へと伸びる、細い道は、山手線の下を、潜るのだが、その手前にも、道路の陸橋。けっこう、新しくできた、橋だ。
山手線の東側に広がる、ロッテ工場の北辺で、坂を上っていくと、その陸橋の上に出られる。
高田馬場から、山手線に沿って、南へと伸びてきた、新しい道路が、橋の上を通っているのだ。
その道路は、今のところ、橋を越えたところまでで途絶えている。
もっとも、その先は、ロッテ工場と山手線に挟まれた場所なので、すぐにでも、伸びることになるだろうな。
ロッテ工場を過ぎれば、大久保通りまでは、すぐだ。
大久保通りから、職安通りまでは、西武新宿線の車窓から見ても、かなりの部分、道路予定地は、更地になっている。
いつ、道路が開通するのか、まったく、わからないけど。
ただ、このように見てくると、それほど、遠くないだろうとは思う。
この道路が開通すれば、大久保の街も、さらに、変化するだろうな。
(2009年8月記)

山手線新大久保駅(新大久保駅付近大久保通り)

2010-03-19 06:11:42 | Weblog
細い道を北へと歩いていく。
しばらくすると、東西に伸びる、大久保通り。
こちらも、インターナショナルな雰囲気がいっぱいだ。
ただ、職安通りは、コリアタウン一色なのだが、こちらは、もう少し、多国籍な感じがする。
たぶん、職安通りが、新しい道路、大久保通りが、江戸時代からある、古い道路、ということが、関係しているのかもしれない。
つまり、古いので、それだけ、早く、混沌とした状況になっていたのだ。
でも、なぜ、混沌としてしまうのだろう。
江戸時代、この場所には、百人鉄砲隊が、駐屯していたわけだが、江戸時代が、終わると、その必要がなくなってしまう。
このように、存在意義がなくなってしまったので、一種の、エアポケット状態が、生じたわけかな。
そのことが、混沌を、生み出したのかもしれない。ちょっと、わからないけど。
そして、その、混沌状態が、うらぶれた、危険な雰囲気を、呼び込んでしまったのだ。
一昔前、大久保、といえば、とにかく、かなり、危ない場所だったな。
この、大久保通りを歩くだけで、緊張したものだし、実際、注意しなければ、ならなかった。
そんな土地柄だったのだが、様相が変わり始めるのは、やはり、バブルの頃。
危険な場所を、ものともせず、いや、危険な場所だからこそ、世界各地から、来訪者が、集まってきた。
誰も近寄らなかったので、むしろ、進出しやすかったわけだな。
ということで、大久保の界隈は、様相が、一変してしまい、今に至っている。
もっとも、今のほうが、昔に比べ、むしろ、ずっと、平和的で、親しみやすくなっているように見える。
ひょっとしたら、一種の、テーマパークになっているのかもしれない、とも思えてしまうな。
(2009年8月記)

山手線新大久保駅(大久保のかつての裏通り)

2010-03-18 06:10:36 | Weblog
コリアタウンに入り、細い路地を、北へと、歩いていく。
路地も細いが、ここらへんは、町割りも、異様に、細長い。
どういうことかというと、南北に伸びる、道は、短い間隔で、幾筋も並んでいるのに、東西に横切る道は、職安通りと大久保通りの真ん中に、一本しかないのだ。
だから、とても、奥まった感じがする。
たぶん、江戸時代、この場所に配備されていた、百人鉄砲隊のために、そのような、町割りになったのかも。
こんな風に、奥まっていると、防御しやすい感じがするからだ。実際は、どうだか、わからないけど。
北へ進んでいくと、ようやく、東西に伸びる道路に出る。
職安通りや、大久保通りから、かなり、離れているので、外部から、容易に、見通せない感じだ。
そういうわけだからかな、バブルの頃からしばらくの間、ここらへんには、街娼が、少なからず、立っていたのだ。
ほとんど、外国からやって来た、街娼だったけど。
そのころの日本は、まさに、無敵。ジャパンアズナンバーワン、黄金の国、そんな時代だったな。
そういうわけで、街娼も、惹きつけられて、はるばる、日本にやってきたのだろう。
そんな、かなり、危険な、大久保の裏通りを、新宿に行った帰り、よく通ったものだ。
怖いもの見たさ、好奇心、背徳感、そんな気持ちが、頭の中を、ぐるぐる回った状態で、細い路地を歩いていくと、たいてい、この、東西に伸びる道の辻々に、街娼がいたりする。
そちらを、ちらっと見ると、ラテン系で、開けっぴろげで、屈託のない、大柄な女の子が、無邪気に笑っていた。
その、罪のない笑顔を見ていると、いつも、なにか、いたたまれない気持ちになってしまう。
そして、歩を早めて、大久保通りへ急ぐのだ。
彼女たちも、無邪気だったけど、あの頃の自分も、あるいは、日本全体も、ずいぶん、無邪気だったんだなあ。
今、こうして、がらんとしている、路地を、歩いていると、つくづく、そう思ってしまう。
(2009年8月記)

都営大江戸線東新宿駅(職安通り沿いコリアタウン)

2010-03-17 06:10:35 | Weblog
かくのごとく、再開発で、瀟洒な、高層ビル街に生まれ変わろうとしている、一帯なのだが、昔、来たときは、ものすごく、怪しい感じがしたものだ。
学生の頃、バブル前ぐらいの時期だったろうか、高田馬場から、明治通りを通って、新宿まで、よく歩いた頃のことだけど。
その時、この職安通りの交差点に差し掛かると、なにか、新宿のダークサイトの入口、という雰囲気を感じたな。
古ぼけた不気味な雑居ビル、妙に豪壮なマンション、そして、ぼろぼろで、値段は安そうなのだが、立ち寄りがたい、飲食店。
一見すると、たんに、危険そうなだけなのだが、同時に、そこには、都市を動かしている、強靭なエネルギーが、蠢いている感じもしていて、わくわくするような、興奮を覚えたりもした。
そういうわけで、飽きもせず、何度も、明治通りを歩いて、新宿まで、来ていたのだ。
だが、バブルが崩壊した後、最近に至るまでに、その怪しい一帯は、なぜか、一掃されてしまう。
時代の流れなので、仕方のないことなのかな。
そんな昔の思い出に浸りながら、職安通りを西へ、歩いていく。
しばらく、進んでいくと、通りの北側には、コリアタウン。
職安通りから、北の大久保通りまで、広がっている。
コリアタウンといっても、川崎や、足立区、荒川区にあるような、昔からの街ではなく、こちらは、バブルの頃、誕生したようだ。意外と新しい。
入ってみると、相変わらずの賑やかさ。
とても、懐かしいような気がしてしまうな。
ふと、気付いたが、この懐かしさ、ひょっとすると、昔の新宿のダークサイトにあった、わくわくした感じと似ているのかもしれない。
だから、堪らなく、懐かしくなるのかも。
(2009年8月記)

都営大江戸線東新宿駅(新宿六丁目N街区計画)

2010-03-16 06:09:57 | Weblog
新宿アインスタワーの、職安通りを挟んで、南側には、新宿六丁目N街区計画。
その、さらに南側、新宿六丁目S街区計画を、合わせて、広大な、再開発工事を、行っている。
完成すれば、新宿アインスタワーなどとともに、高層ビル群を形成することになるだろう。
最寄り駅としては、東新宿駅があるが、都営大江戸線、副都心線が通っている。さらに、地上には、交通量の多い、明治通り。
ここらへんは、まさに、交通の要衝だな。
このように、交通の便がよく、変貌著しい一帯なのだが、それ以前は、日本テレビゴルフガーデン、というのがあった。
高度成長期の終わり頃に完成している。
これから、日本も、やっと、レジャーを楽しめる、そういう時代だ。バブル期は、このゴルフ場、大いに賑わってたらしい。
その前は、前田侯爵邸の敷地だったのだが、詳細は、よくわからない。
ひょっとしたら、目黒区駒場にある、有名な前田侯爵邸の別邸なのかも。
前田公爵というと、江戸時代の加賀藩前田家を前身としている。
ということは、この場所、加賀藩前田家の屋敷跡かな、と、一瞬。思ったが、そういうわけでもないのだ。
出雲広瀬藩松平家の下屋敷跡だった、ということらしい。
それが、なぜ、明治時代になって、前田家の屋敷になったのか、その経緯については、まったく、わからないな。
ところで、一帯は、蟹川の流路跡。このように、川の谷底は、下町になったりするものだが、江戸時代の大名の屋敷跡だったりもするようだ。
そういう場合は、敷地が広いので、大規模な、再開発もされやすいのかな。
さっき、訪れた、徳川尾張家の下屋敷が、戸山公園や国立国際医療センターになっているのと同じだ。
いちおう、そちらも、部分的だが、蟹川の流路跡になっている。
そんな場所なのだが、数年後には、一変し、高層ビルが、建ち並ぶようになっていることだろう。
時代の流れを感じるな。
(2009年8月記)

都営大江戸線東新宿駅(新宿アインスタワー)

2010-03-15 05:05:33 | Weblog
大久保通りから、南へ。
急な下り坂になっている。
坂を下りきると、住宅地の中。
細い道を、さらに、南へと、歩いていく。
かつての蟹川の谷底になるのだが、正確には、どこが、流路跡なのか、確認しておかなかったので、ちょっと、わからない。
次回、もし、来ることがあったら、蟹川の跡を、辿ってみようかな。
ところで、こうした、谷底、低地、などは、住環境が、よくないので、たいてい、下町になるものなのだが。
この場所も、たぶん、そうなんだろうけど。もう、都心の中の中心部になるので、住宅地とはいえ、マンションなども多く、なんともいえない。
ただ、銭湯があったり、公園なども、じめじめした感じで、下町っぽいのは、確かだ。
そんな中、しばらく、進んでいくと、唐突に、昔からあるような、商店街。
おそらく、こうした商店街が、かつて、一帯の、中心だったのかも。
今となっては、まわりに、いろいろな建物が、無秩序に林立してしまったので、あたかも、わずかな、商店の連なりが、街中に、取り残されてしまった、そんな風に、見えるのだが。
さらに、南へ、進んでいくと、東西に伸びる、幅広な職安通りに行き当たる。
職安通りに入り、西へ。
すぐに、通りの北側には、新宿アインスタワーがある。ちょっと前、都心部に、高層ビルが、集中し始めた頃の完成になる。
ふと、職安通りの東側を、見やると、上り坂。
この場所が、かつての、蟹川の谷底だった、ということなんだろうな。
やはり、こうした、低地は、山の手と違って、住み心地がいいとは、言えないので、再開発されやすいに違いない。
そして、新宿アインスタワーのような、高層住宅が、建ったりするのだ。
(2009年8月記)

都営大江戸線若松河田町駅(戸山付近大久保通り)

2010-03-14 06:57:52 | Weblog
国立国際医療センターの南側を、東西に伸びる、大久保通りを、西へ歩いていく。
一部、道路の形状が、ちょっと、不思議な感じだが。
最初は、医療センターの前なので、広場にでもなっているのかと思っていたけど。
たぶん、昔は、道路が、医療センターの手前で、直角に南に折れ曲がり、南進、すぐに、再び、直角に、曲がり、西へ伸びていたのだろう。
こういうのを、クランク、というのかな。
それが、今は、無理に、まっすぐになっている。
そして、南側に折れ曲がっていた部分は、おまけのようになっているのだ。
そのおまけの空間は、いちおう、道路なんだけど、もはや、道路としては、機能していない。
タクシーが、休憩するには、いいかもしれないが。
ひょっとしたら、こういう、クランク構造の道、すぐ近くに、徳川尾張家の下屋敷があったからかもしれない。
つまり、まっすぐの道路をわざと、折れ曲げさせて、敵が、こちらに、直進してこないようにしたのだ。本当に、そうか、わからないけど。
そんな風に、昔の道路の形状を、変更してある、ということは、大久保通り自体、新しいのだろうな。
歩いていても、都心の道なんだけど、雰囲気は、郊外のニュータウンのような、感じがするし。
そんな大久保通りなのだが、その南側は、がくっと、下がって、低地になっている。
おそらく、かつて、北へと、流れていた、蟹川の谷地に違いない。
そう考えると、本来、大久保通りは、今の、高い位置に、あったわけではないのかもしれないな。
高架になっているのかどうか、わからないが、その、蟹川の谷地を、越えていく、構造になっているのだ。
やはり、新しい道路なのだろう。
(2009年8月記)

都営大江戸線若松河田町駅(国立国際医療センター新病棟工事現場)

2010-03-13 08:00:27 | Weblog
小笠原伯爵邸を後にして、細い道を、北へと歩いていく。
小笠原伯爵邸もそうだが、あたりには、大名の屋敷が、たくさん、あったようだ。
山の手、台地の上は、環境もいいので、そういうことになるのだろう。
さらに、北へ歩いていくと、突き当たりに国立国際医療センター。
高層ビルの新病棟が工事中だ。
実は、この病院のある場所も、かつて、大名屋敷だったらしい。徳川尾張家の下屋敷ということだ。
徳川御三家ともなると、さすがに、その下屋敷の敷地は、広大で、病院の西側の、戸山公園なども、その跡地に含まれる。
ただ、明治時代になると、旧体制側の徳川家、ということで、その屋敷は、誰某伯爵邸、のようにはならず、明治政府のものとなり、陸軍の敷地になっている。
その後、陸軍専用の病院が、移設され、東京第一陸軍病院となり、終戦後は、普通の病院に移行、現在に至っている。
そして、その病院には、今、高層ビルの病棟が建とうとしているのだ。
こんな風に、昨今、高層ビルを擁する施設としては、病院以外にも、教育機関などもあったりする。
日本が、工業国ではなくなったので、重点が、そういう分野に移ったのだろう。
小笠原伯爵邸の建物が、変わらないのとは、対照的に、こちらは、変貌が激しいな。
同じ大名屋敷跡でも、行く末は、まったく、異なるものらしい。
だけど、広大な、戸山公園は、大名屋敷の庭園跡を踏襲しているわけだし、残りの諸施設も、賑やかな商店街が消えてしまう、というような、変貌ではないだろう。
むしろ、より、整備されて、磐石のものになる感じだ。
(2009年8月記)

都営大江戸線若松河田町駅(小笠原伯爵邸)

2010-03-12 06:09:01 | Weblog
西武新宿線で中井駅へ。都営大江戸線に乗り換える。
あいかわらず、ホームは、やたらと、地下深いところにあるので、乗り換え駅のような感じがしないな。
都庁前駅で、反対方向への車両へ、乗り換える。
ここでも、乗り換えるわけだが、反対側のホームにすでに、車両が、待機しているので、こちらは、いままで、それほど、不便を、感じたことはない。
若松河田町駅で下車。
地上に出ると、団子坂があり、通りの南側には、小笠原伯爵邸、というのがある。
伯爵邸には、まったく、興味はないけど、古そうな、洋館があったので、ちょっと、立ち寄ったのだ。
今は、高級飲食店が、建物に、入居しているみたい。
ところで、伯爵、というと、日本の場合は、華族、一般的には、貴族階級の部類だ。
日本にも、こういう、特権階級が、あったんだな、と、一瞬、思ったが。
でも、特に、明治時代から戦前までだけ、特権階級があったわけではない。
江戸時代にも、当然、あったし、どの時代にも、あるものだ。しかも、連続していたりする。
例えば、小笠原伯爵の前身は、北九州の小倉藩、小笠原家である。
そして、この場所には、小倉藩の下屋敷があったのだ。
ということは、たんに、江戸時代から、明治時代に、特権階級が、横滑りしただけなのだろう。
藩主も、特権階級の身分が、保証されるなら、廃藩置県で、藩が消えようが、どうしようが、どうでもよかったに違いない。
かくのごとく、特権的なるものの、根源は、本質的に、変わりがたいものだ。
もっとも、小笠原伯爵邸は、今、レストランになっているけど。
ただ、定食屋とか、居酒屋になったわけじゃないので、やっぱり、変わっていないのだな。
(2009年8月記)